第九十一話 烏の決意
迎賓館の一室には、重苦しい空気が漂っていた。
窓の外では、夕陽がゆっくりと沈みかけている。
だが、その柔らかな赤色とは裏腹に、室内を満たしている空気はひどく張り詰めていた。
「カワナミさんが……駄目って……どういうことだ? 薬は効いてるって話だったぞ!」
俺は思わず声を荒げ、イマリへ詰め寄る。
「落ち着け、若き王よ」
イマリは静かに左手を上げた。
「ワシが言っておるのは、傷の話ではない」
「じゃあ――」
食い下がろうとした俺を、その仕草だけで制する。
「……」
俺は息を飲み込み、言葉を押し殺した。
しばしの沈黙。
やがてイマリは、穏やかな声音で問いかける。
「落ち着いたかの?」
「……ああ。それで、話を続けてくれ」
俺がそう言うと、彼女は小さく頷いた。
「あの娘の心は、もうとうに限界を超えておる」
その声には、これまでの軽薄さはなかった。
イマリは俯きながら、静かに言葉を紡いでいく。
「考えてもみよ。知らぬ土地、知らぬ人々。そのうえ、領主として背負わされる責任……」
「……」
「さらに、心の拠り所になり得た友との敵対。そして、その死の知らせ」
そこで一度言葉を切る。
「加えて今回、あやつは初めて“自分のために人が死ぬ瞬間”を見た」
「……ッ!」
胸が強く締めつけられた。
「年頃の娘には、少々刺激が強すぎたじゃろうて」
「……たしかに」
俺が苦く呟くと、イマリはゆっくりとこちらへ目を向ける。
「まあ、お主は案外ぴんぴんしておるようじゃがの」
その視線には、わずかに悪戯っぽさが混じっていた。
「そんなことないさ……ただ、止まれない理由があっただけだ」
俺は苦笑混じりに答える。
「それで、八番領地で何があったんだ?」
イマリは一度天井を仰ぎ、淡々と語り始めた。
「単純な話よ。三層の十三番領地が、食料目当てに何度も侵攻を仕掛けてきておってな」
「十三番領地……」
「まあ、その侵攻自体は大したものではなかった。問題は、その隙を突いて九番領地が攻め込んできたことじゃ」
「なるほど……」
俺は低く呟く。
「十三番領地との小競り合いで疲弊していたワシらは、容易く中心部まで踏み込まれた。そこから先は……血で血を洗う戦じゃよ」
イマリの声音は静かだった。
だが、その静けさがかえって凄惨さを際立たせていた。
「その混乱の中、ワシらは姫を逃がすため、領地を脱出した」
「イマリ一人で逃がしたのか?」
「まさか」
彼女は自嘲するように笑う。
「十人近い兵士も共におった」
その瞬間、嫌な予感が胸をよぎった。
「その兵士達……まさか」
「ああ。全員死んだ」
「……!」
部屋の空気が一気に冷え込んだ気がした。
「九番領地も必死だったのじゃろう。大国エリュシオンへ逃げ込まれれば厄介になるからの。執拗に追ってきおった」
イマリは静かに目を伏せる。
「……ここまで言えば、わかるじゃろ?」
「……」
俺は言葉を失った。
つまりカワナミさんは、逃亡の最中、自分を守るために兵士達が次々と命を落としていく光景を、その目で見続けたということだ。
「エリュシオン領へ入る頃には、姫とワシ、二人きりになっておった」
イマリはゆっくりと天を仰ぐ。
「その頃には、姫は既に生ける屍のような状態じゃったよ」
胸の奥が重く沈む。
「人目は避けたかったのでな。街道は使わず、危険を承知で森を突っ切ってきたというわけじゃ」
「……そうか。大変だったな」
ようやく絞り出せた言葉は、それだけだった。
イマリはそんな俺を見つめ、静かに頭を下げる。
「すまんのう。お主達を巻き込んでしまって」
「……いや、それはいいんだ」
もちろん、“良い”わけがない。
八番領地は、俺達にとって西側の防波堤だった。
そしてエリュシオンは、八番領地にとって東側の防波堤。
その均衡が崩れることが、どれほど危険かくらい理解している。
だが今の俺は、そんな領地情勢よりも――カワナミさんのことばかりが気になっていた。
「カワナミさんは……その、こっちに来てからも、ずっと苦しそうだったのか?」
気づけば、そんなことを尋ねていた。
まるで、自分自身を重ねるように。
「そうじゃのう」
イマリは遠くを見るような目をした。
「こちらへ来てからは、軍事をジラールへ任せ、自分は領地経営に尽力しておった」
「……」
「だが、時折見せておったよ。寂しそうな顔をな」
夕陽の残光が、彼女の横顔を赤く染める。
「責任感の強い娘じゃ。民の前では、一切そんな素振りは見せなんだが……」
「……そうか」
胸が痛んだ。
同情だった。
紛れもなく、俺は彼女に同情していた。
だが――
そこで俺は、意識的に思考を切り替える。
感情ではなく、“王”として考えろ。
それしかできなかった。
俺は深く息を吸い、ずっと胸に引っかかっていた本題へ踏み込む。
「それで……なぜこの話を、俺だけに?」
イマリは窓の外へ向けていた視線を、静かに俺へ戻した。
「なぁに。元の世界では、姫様はお主と仲が良かったのじゃろ?」
「いや……そうでもないぞ? 席が隣で、何度か話したくらいだ」
「そうなのか?」
イマリは意外そうに眉を上げる。
「だが、七番領地の件でお主から接触があった時、“タイシ君から連絡が来た!”と大層喜んでおったぞ?」
(タイシ君……?)
俺は一瞬、妙なむず痒さを覚えた。
カワナミさんに名前で呼ばれた記憶なんて、ほとんどない。
「……まあ、とにかくだ!」
誤魔化すように咳払いをする。
「俺だけをここへ呼んだ目的を話してくれ」
俺は真っ直ぐイマリを見据えた。
「……」
イマリもまた、その視線を逸らさない。
やがて、彼女は大きく息を吐いた。
「これは……あくまで、ワシの一存なのじゃが」
前置きするように呟く。
静寂が部屋を包んだ。
いつの間にか日は落ち、部屋を照らしているのは蝋燭の灯だけになっている。
揺れる炎が、壁へ不安定な影を映していた。
「ワシは……」
イマリは覚悟を決めたように顔を上げる。
「八番領地を、エリュシオンの傘下に入れたいと考えておる」
その声は力強く。
その瞳には、迷いではなく、確かな決意が宿っていた。




