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第八十五話 傷だらけの訪問者

俺が孤児院に辿り着いたとき、そこはまるで戦場のような騒然とした空気に包まれていた。


普段なら子どもたちの笑い声が響くはずの廊下には、不安げな囁きと慌ただしい足音が交錯している。


原因は明白だった。


――傷だらけの来訪者たち。


それも、ただの怪我人ではない。


明らかに“戦い”の匂いをまとった者たちが、エリュシオンへと駆け込んできたのだ。


「ミスラ! リリィ!」


俺は扉を押し開け、ほとんどなだれ込むように部屋へ入った。


室内には、ミスラと白衣姿の医者らしき人物。


リリィの姿はない。


そして――


床に倒れ伏す一人の少女と、その傍らで壁に身を預け、荒い息を繰り返しながらもこちらを睨み据えるイマリの姿があった。



「タイシ……」



ミスラが答える。



「リリィたちは?」



「ザインとアリーザを連れて、先に城へ帰らせたわ」



振り返ったミスラが短く答える。


その声にも、わずかな焦りが混じっていた。


そしてすぐに、彼女はイマリへ向き直る。



「ほら、イマリ! タイシが来たわよ。要点だけ伝えたら、すぐにこれを飲みなさい!」



差し出された薬。


だがイマリは、すぐには手を伸ばさなかった。



「はぁ……はぁ……」



頭から流れる血が頬を伝い、床へと滴り落ちる。


いつもの美しい和装は無惨に裂け、露わになった肌には幾筋もの切り傷が走っていた。


それでも――


彼女は、にやりと笑った。



「見違えたのぉ……精神的にも、肉体的にも……“少年”を脱ぎ捨てた顔をしておる」



「今はそんなこと言ってる場合じゃないだろ。いいから飲め!」



苛立ちを抑えきれず、声が強くなる。



「しょうがないのぉ……」



渋々といった様子で、イマリは薬を受け取り、喉へ流し込んだ。


ごくり、と嚥下する音がやけに大きく響く。


それを見届けてから、俺はようやく本題に踏み込んだ。



「それで……どうしてそんな怪我をしているんだ? それに、その少女は……」



視線を横へ移す。


イマリの隣で横たわる少女は、静かに眠っていた。


薬の影響か、あるいは限界を超えた疲労か。


顔にかかる髪が、その表情を隠している。



「なんだ……気づいておらんのか?」



「……何がだ?」



イマリは答えず、目だけでミスラに合図を送る。


ミスラは小さく頷くと、慎重にその少女の髪へ手を伸ばした。


そして――ゆっくりとかき分ける。



「――!?」



息が止まる。



「カワナミさん……!?」



そこにいたのは、間違いなくカワナミ・サクラだった。


かつて俺と共にこの地で戦った少女。


彼女が、今は血と傷にまみれ、無力に横たわっている。



「いったい……何があったんだ?」



問いかける声は、自然と低くなっていた。


イマリの顔から、先ほどの笑みは消えていた。



「単刀直入に言おう。八番領地は――九番に堕ちた」



「なっ……!?」



室内の空気が凍りつく。


誰もが言葉を失った。



「安心せい。姫様はここにおる。完全に奪われたわけではない」



続けてそう言うが、その声音に余裕はない。



「まぁ……領主邸は占拠されておるがな」



言い終えた瞬間、イマリの体がふらりと揺れ、そのまま力なく床に崩れ落ちた。



「他の人たちは? 領民はどうなった?」



「ジランドとジラールが……姫を逃がすための囮になった。


 八番領地に残っていた、数少ない騎士たちじゃ。


 それ以降は知らん……だが、あやつらは利用価値がある。簡単には殺されんじゃろ……」



言葉の端が、徐々に崩れていく。


薬が効き始めているのだろう。


瞼が重そうに落ちていく。



「領民は……無事じゃ。この島で、領民を殺すメリットは……ないからの……」



最後の言葉は、ほとんど囁きだった。



「すまんが……ワシが目を覚ますまで……姫様を頼む……」



そのまま、意識が途切れる。


静寂。


張り詰めた空気だけが残された。



(……一体、何が起きてるんだ)



胸の奥に、嫌な予感が沈殿していく。






その後、俺たちはイマリとカワナミさんをハイ・オービットにある迎賓館へと移した。


真新しいその建物は、まだ人の気配に慣れていないのか、どこか冷たく感じられる。


薬を調合したリリィが言うには、二人とも目を覚ますまで数日はかかるという。



「まったく……リオデルカ様の言う通りになったわね」



城の廊下を歩きながら、ミスラが呟く。



「……ああ」



短く応じる。


備蓄食料が尽きかけるこの時期、三層から動きがある――それは予測していた。


だが、ここまで急激に状況が崩れるとは思っていなかった。



「十六番領地に、八番領地……問題が一気に重なったわね」



「考えることが多すぎるな……」



俺たちは十六番領地攻略の準備を進めていた最中だった。


多くの斥候をすでに十六番領地に放ち、情報収集に当たっている。


十三番領地もまた食料不足に陥り、八番領地を狙う動きを見せていた。


だが――


その八番領地が、今や九番領地に実効支配されつつある。



(……戦略を組み直す必要があるな)



東に偏っていた兵力配置。


六番領地、十六番領地への備えとしてのものだったが、今やそれが裏目に出かねない。


そもそも、南はアレース、西は八番領地が、エリュシオンの防波堤となるはずだった。


しかし、その前提が崩れたのだ。


北にも兵はいるが、決して余裕があるわけではない。


第一層の動きすら読み切れていない以上、軽々しく戦力を動かすのは危険だ。


下手に配置を変えれば、その隙を突かれる可能性もある。



「とにかく、緊急会議を――」



俺がそう言いかけた、そのときだった。



「陛下」



背後から、静かな声がかかる。


振り返ると、シェリーがいつもの表情のまま、そこに立っていた。



「リンウェル様が、ガンツ殿を連れて参りました。現在、玉座の間でお待ちです」



「……わかった。すぐ行く」



俺は短く答えると、隣にいたミスラへ視線を向けた。



「悪いがミスラ、先に皆を集めて会議を始めていてくれるか?」



「わかったわ」



ミスラは力強く頷く。


彼女はすぐに踵を返し、足早に廊下の奥へと向かっていく。


石造りの通路に、軽やかな足音だけが小さく響いた。


俺はその背を見送ってから、小さく息を吐く。



「じゃあ、俺たちも行こうか」



「はい」



シェリーは静かに頷いた。


そして俺たちは、張り詰めた空気の漂う城内を進み、玉座の間へと向かった。


石造りの廊下に響く足音が、これから始まる嵐の前触れのように、やけに冷たく耳に残った。


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