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第八十四話 決意を胸に

石畳が朝露に濡れ、城の中庭にはまだ夜の冷気がしがみついていた。


吐く息は冷たく、肌を刺す空気が、眠気の残る意識を無理やり引き締める。



「――甘いです、陛下。腰が浮いていますよ」



鋭い声と同時に、風を切る音が二つ重なった。


俺は手に持った練習用の大槍を強引に振り下ろす。


だが――そこには、もう誰もいない。



「なっ――」



視界の端で銀色の閃光が跳ねた、次の瞬間。


背後に回り込んでいたイリスの木製双剣が、俺のうなじへとぴたりと突きつけられていた。



「……また、負けか」



荒い呼吸を整えながら、俺は槍の石突きを地面に突き立てる。


肺が焼けるように熱い。


全身の筋肉が、悲鳴を上げている。



「負け、ではありません。死んだのです。戦場であれば、今ので五度目の死です」



イリスは無機質なほど冷静な口調で言い放つと、構えを解かぬまま、すっと俺の正面へと回り込んだ。


彼女の額には、一滴の汗も浮かんでいない。


緩やかに波打つ赤みがかった髪が、差し込む朝日に照らされて、眩いほどに輝いている。



「もう一度だ。次は……」



言いかけたところで、



「お止めになりますか?」



イリスの声が、静かに割り込む。



「陛下の手、震えていますよ。


 無理に大槍を振るい、筋肉が限界を迎えている証拠です。


 これ以上の無茶は、王としての公務に支障をきたします」



指摘された通り、俺の指先は小刻みに震えていた。


三メートル近い大槍の重量が、容赦なく腕にのしかかってくる。


だが――


俺は、首を横に振った。



「いや、続けてくれ。……手が震えるくらい、どうってことない」



脳裏をよぎるのは、あの日の戦いで、冷たくなっていった人々の体温。


触れていたはずの温もりが、次の瞬間には消えていた、あの喪失。


そして――昨夜。


この腕の中にあった、ミスラの体温。


華奢な身体から確かに伝わってきた、あの温もり。


あれを、もう一度失うなど――あっていいはずがない。


彼女を戦いに参加させない、という選択肢は現実的ではない。


だが、守ると誓った。


俺の無力ゆえに、その命が奪われていいはずがない。


失った命は二度と戻らず、傷ついた魂を癒やす光もない。


残るのはただ、冷酷な鉄の味と――無慈悲な現実だけだ。



「……」



わずかな沈黙ののち、



「……承知しました。ならば、次は手加減を抜きにいたします」



イリスの瞳が、鋭利な光を帯びる。


それはもはや訓練相手の目ではない。


戦場に立つ、剣士のそれだった。


彼女はカイの代わりに、俺に稽古をつけてくれている。


厳しく、容赦なく、だが確実に。


俺が“王”として、あるいは一人の男として、誰かを守り抜くための力を求めていることを、彼女は理解していた。



「来い!」



俺は吼え、大槍を突き出す。


大槍は間合いの外から敵を沈めるための武器だ。


だが、イリスのような双剣使いは、一度懐に入り込めば致命的な脅威となる。


だからこそ――近づけさせない。


長いリーチを活かし、穂先で空間を制圧するように攻め立てる。


突き、払い、叩きつける。


木製の槍先が空気を裂き、重い音が中庭に響き渡る。


だが――



「遅い」



イリスは蝶のように舞った。


二本の木剣を巧みに操り、俺の渾身の一撃を紙一重で逸らしていく。


最小限の動き。


無駄のない軌道。


そのすべてが、洗練されている。



「力が入りすぎです。


 槍は力で振るうものではありません。


 “通す”ものです。芯で操るのだと、教えたはずです」



「分かっている……だが!」



焦りが、思考を濁らせる。


もう誰も失いたくない。


その想いが強すぎるがゆえに、身体は硬直し、動きは鈍る。


その一瞬の隙を、イリスは見逃さない。


双剣が、槍の柄を滑るようにして入り込んでくる。


陛下、あなたは“失うこと”を恐れすぎています」



一歩で、間合いを詰められる。



「それは執着です。そして戦場では――鈍りとなる」



さらに一歩。


完全に懐へ。



「守りたいという願いを、刃に変えなさい。怯えを燃料に、肉体を研ぎ澄ますのです!」



その言葉と同時に――


視界が、赤く弾けた。



「がはっ……!」



みぞおちに、激しい衝撃。


イリスの左の剣が、正確に俺の腹部を捉えていた。


肺の空気が一瞬で押し出され、視界が歪む。


膝が崩れ落ちそうになる。


だが――



「立ちなさい、陛下」



冷静な声が、意識を引き戻す。



「敵はあなたが息を整えるのを待ってはくれません。大事な人々を、この国を背負うと決めたのでしょう?」



「……っ!」



震える足に力を込める。


泥臭くていい。


無様でいい。


俺には天賦の才も、戦況を覆す魔法もない。


ならば――


この泥を啜るような訓練を。


血の滲むような反復を。


千回、万回と繰り返すしかない。


俺は再び、大槍を構え直した。


――それから。


太陽が高く昇り、中庭の石畳が熱を帯び始めるまで。


木製の武器が打ち合う音は、一度たりとも止まなかった。


俺の体は痣だらけで、喉は乾ききり、視界も霞んでいる。


それでも――


最後の一瞬。


イリスが踏み込もうとした、その刹那。


俺は、思考を捨てた。


ただ一点。


彼女の胸元へと吸い込まれるように――


最短距離で、大槍を突き出す。


コォン――


乾いた音が響いた。



「……!」



俺の槍先が、イリスの肩口にわずかに触れていた。


彼女は驚いたように目を見開き、そして――



「……かすりましたね。ようやく、一本です」



その唇に、初めて微かな笑みが浮かんだ。



「……はは、やっと、一本か。先は長いな」



俺はその場に大の字になって倒れ込む。


空は抜けるように青く、残酷なほどに美しい。



「はい。果てしなく長く、険しい道です。


 ですが陛下、本日の陛下は、昨日よりも確かに“王”の背中に近づかれました」



差し出された手を取る。


硬い掌。


戦場を潜り抜けてきた者の手だ。



「明日も頼む。イリス」



「御意のままに。陛下」



筋肉の痛みが広がる。


だがそれは、生きている証だ。


この痛みの先にしか、誰かを守れる未来はない。



「お疲れ様でした。陛下」



シェリーが歩み寄り、タオルを差し出してくる。



「ああ、ありがとう」



受け取ったその時、



「……」



イリスの視線が、わずかに鋭くなる。



「そんなに睨まないでください、イリス殿。陛下はもう“知っています”」



「!?」



シェリーの言葉に、イリスは目を見開く。



「申し訳ありません、陛下……」



「ん? 何がだ?」



「その……シェリー殿のことを黙っていて……」



「ああ。気にするな。どうせ、シェリーに脅されていたんだろ」



「あら、陛下。よく分かっていらっしゃる」



シェリーが微笑む。



「はい……陛下に危害を加えることもなさそうだったので……」



「まぁ、別の意味で身の危険は感じるけどな」



「はい?」



そのやり取りに、わずかに空気が緩む。


朝露はすでに乾き、中庭には暖かな風が吹いていた。


――その時。


遠くから、こちらへ走ってくる人影が見えた。



「あれは……アリア?」



息を切らしながら、彼女はこちらへ駆け寄ってくる。



「アリア、どうした? そんな急いで。


 確か、リリィ達と孤児院に行っていたんじゃなかったか?」



「はぁ……はぁ……はい、です……あの……」



言葉が続かない。



「いい、ゆっくりでいい」



「はい……です……ミスラ様が……王様、呼んできてって……です」



「ミスラが?」



胸の奥がざわつく。



「はい……です。その……イマリさんが……来た、です」



「イマリ……」



八番領地の、和装の女性。


かつて八番領地で見た彼女の姿が、脳裏に浮かぶ。



「彼女……怪我……ひどい、です」



「!?」



空気が一瞬で張り詰める。



「孤児院だな!? イリス、ついてきてくれ!」



「承知しました」



俺はイリスと共に駆け出した。


石畳を蹴り、風を裂く。


エリュシオン西――ミドル・リングとアウター・リムの境にある孤児院へ。


胸騒ぎが、確かな予感へと変わっていく。


――嫌な予感は、外れない。


俺は歯を食いしばり、さらに速度を上げた。


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