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第八十二話 動き出す十六番領地

「それで……昨夜は、お楽しみいただけましたか?」



朝の柔らかな光が差し込む室内。


シェリーはいつも通りの手際で食事の支度を整えながら、どこか楽しげにこちらへ視線を向けてくる。


昨夜、あんなことがあったにも関わらず――


彼女は何一つ変わらない。



「いや……あのあと……ミスラはすぐに帰ったよ……」



俺は視線を逸らし、部屋の隅へと向ける。


そこではリリィと――なぜかメイド服を着せられたアリーザが、掃除の仕方を教わっていた。


いや、教わっているというより、遊んでいるに近い。



「おやおやまぁまぁ。陛下は案外、意気地なしなのですね」



「ぶッ――!」



飲んでいたお茶を盛大に吹き出す。



「女は待っているものですよ。殿方から来てくださるのを」



シェリーは淡々とそう言いながら、俺が汚したテーブルをあっという間に拭き上げていく。



「最近……よくわからないんだ」



「何がですか?」



「ミスラのことだ。彼女が何を考えているのか……わからない」



言葉を落としながら、自然と視線が下がる。



「それに……いつまで経っても、彼女のクラスは“十五番領主夫人(仮)”のままだ」



「なんだ。そんなことですか」



「そんなこと……?」



思わず顔を上げる。


シェリーは、ほんの少し肩をすくめた。



「陛下。早く“既成事実”を作ってしまわれることをお勧めします」



「また……それか……」



項垂れる俺に、シェリーはさらに続けた。



「ええ。またそれです。ご自身の手練手管に自信がおありでないのであれば――私で練習なさいますか?」



いたずらな笑み。



「もう……からかわないでくれよ……」



「ふふ」



軽く笑った後、シェリーはふっと表情を和らげた。



「陛下。ミスラ様はきっと、不安なのです」



「不安……?」



「陛下は、ミスラ様にご自身のお気持ちを、きちんとお伝えになりましたか?」



「……いや」



「でしたら、まずはそこからかと」



その一言が、静かに胸へ沈んでいく。


逃げ場を失うような重み。



「……それで、昨日の侵入者はどうなった?」



耐えきれず、話題を変える。


逃げるように。


シェリーは小さく、しかしはっきりと溜息をついた。



「情報は吐きましたよ。案外、簡単に」



(簡単に……か……)



昨夜、彼女に抱えられて連れて行かれた襲撃者の姿が脳裏に浮かぶ。


……少しだけ、不憫に思えた。



「おそらく、陛下の予想通りかと」



「となると……十六番領地か」



「はい」



表情一つ変えず、シェリーは頷く。



「……わかった。皆を集めてくれ。それとアスラーに、リオさんとアランさんへ書面の準備をするよう伝えてくれ」



「承知しました」



一礼し、彼女は背を向ける。


その去り際――


掃除を完全に放棄してアリーザと遊んでいたリリィの頭に、容赦のないゲンコツを一発落とした。



「いったぁ!?」



「仕事中です」



いつも通りの光景に、少しだけ肩の力が抜けた。






――エリュシオン城・会議室


重厚な扉の内側、長机を囲む面々の表情は硬い。



「十六番領地……ですか……」



イリスが低く呟く。



「ああ。イシダは、アサヒナさんの件で……俺に思うところがあるだろうからな」



集まっているのは、エリュシオン所属のサブクラス持ちたちとデンス。


昨夜の出来事は、シェリーの意向で、デンス以外にはぼかして伝えてある。



「それで……いかがいたしますの?」



リンウェルが静かに問いかける。



「とりあえず、リオさんとアランさんには手紙を送った。


 今のアレースにはサブクラス持ちがエンヴィーしかいないからな。警戒強化も兼ねてジェイクを派遣した」



言いながら、デンスへ視線を向ける。


良い判断かと。イリス殿やリンウェル殿は、まだ兵の信頼面で難しい部分もありますからね」



その言葉に、わずかに安堵する。



「十六番領地なんて、蹴散らせばいいじゃん」



場違いなほど真っ直ぐな声。


視線が一斉にリリィへ集まる。


その瞳に、冗談は一切なかった。


彼女にとって十六番領地は――カイの死に繋がる、憎むべき存在。


この会議にはリリィとアリアも参加している。


本当は、外したかった。


だがリオデルカに言われたのだ。


――信じてやれ、と。


――大人として扱ってやれ、と。



「そうもいかないのよ……リリィ……」



ミスラが静かに言う。


その声には、彼女の感情を理解した上での優しさがあった。



「なんで? ミスラ様……なんで?」



「ちょっと……リリィちゃん……落ち着いて……です」



立ち上がるリリィを、アリアが慌てて引き止める。



「……アリア……」



心配そうな視線に気づき、リリィはゆっくりと椅子へ座り直した。



「では、現状の十六番領地を説明しましょう」



デンスが場を引き取る。



「十六番領地は現在、十七番領地を下し、二領を支配しています」



その言葉に、室内の空気がわずかに張る。



「おそらく食料問題の打開策として、奪いやすい十七番領地を狙ったのでしょう。しかし――それが問題を複雑にしています」



「ややこしく?」



リンウェルが眉を寄せる。



「ええ。あの領地は異様です。領民が皆……生きた屍のように暮らしている」



「なるほど……それは厄介だな……」



イリスが即座に理解を示す。



「イリス様……どういうこと?」



リリィが食い入るように聞く。



「活気のない集団に斥候を紛れ込ませたらどうなる? そうだな……例えば……リンウェル様なら」



「私ですの!?」



「うるさくて目立つ」



「ちょっと!?」



容赦のないリリィの一言とリンウェルの慌てように、場の緊張がわずかに緩む。



「つまり、溶け込めない。斥候が機能しなければ、領主の位置も掴めない」



「そっか……居場所がわからない……!」



「そう。我々の目的は領地ではなく領主です」



デンスが続ける。



「無駄な戦闘は避け、一直線に首を取りたい」



「でもさ、それならどっちか潰せばいいじゃん」



リリィはぶれない。



「その場合、問題になるのが――竜血四侯、(ドラグナネメシス)アダチ・リュウヤです」



「……!」



リリィの目が見開かれる。



「陛下達との闘いの後、そのドラグナ・ネメシスの動向が掴めていません。もしイシダにまだ付いているなら……極めて危険です」



「ですが、“ルール”とやらで、少なくとも私たち領民を殺すことはできないのでは?」



リンウェルが問う。



「……あいつにとって、殺さずに戦闘不能にするなんて簡単よ」



ミスラの低い声。


その重みが、場を沈める。



「正直……今は勝てる気がしない」



実際に対峙した者の言葉は、何よりも重かった。


それより何より、俺は自分の心がザワつくのを感じた。



(あの時、彼女が……ドラグナ・ネメシスのワカナが介入していなかったら……ミスラは……)



「……ん……ワカナって人……味方に……したら?」



セシルの小さな声。


一瞬、ミスラの表情が曇る。


俺はゆっくりと首を横に振る。



「それは難しい。俺たちは根本的に敵だと……言われている」



「……そっか……」



静寂。


誰も、次の言葉を見つけられない。


パンッ。


デンスが手を打つ音が、静寂を破った。



「現状は、防備を固めつつ、いつでも動ける準備を。


 そして斥候を増やし、外から情報を集める。それしかありません」



意図的に明るく言うその声。



「……それしかないか」



俺は頷くしかなかった。


決定的な答えは出ないまま――会議は終わった。


会議室を出ると、長い廊下の先に、夕暮れの光が差し込んでいた。


赤く染まった空は、まるでどこか遠くで燃え続ける戦火のようで。


窓の外では、城下の人々がいつも通りに動いている。


笑い声も、生活の音も、確かにそこにあるのに――


それがひどく遠いものに感じられた。


誰もが何かを抱えたまま、言葉にできず、ただ前へ進もうとしている。


けれど、その足取りはどこか重く。


掴めない未来と、避けられない戦いが、静かに影を落としていた。


やるせなさだけが、胸の奥にじわりと広がっていく。


“陛下は、ミスラ様にご自身のお気持ちを、きちんとお伝えになりましたか?”


シェリーの言葉を思い出す。



「ミスラ」



俺は、最後に会議室を出てきたミスラを呼び止める。



「なに?」



ミスラは、こちらを向きながらも視線を逸らす。



「その……」



「……」



「今晩、話せるか?」



「……」



自分の心臓の鼓動が早くなっているのを感じる。



「わかったわ」



彼女はそう言うと、目を合わせないまま背を向けた。


夕暮れの光の中へ歩いていくその背中は、いつもより少しだけ遠く見えた。


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