第八話 動き出す歯車
――十五番領地、東の村
「まてー!」
「やっだよー!」
澄み渡る青空の下、子供たちの無邪気な声が村に響き渡っていた。
乾いた土を蹴り上げながら走り回る小さな背中たち。
その光景を、ひとりの女性が静かに見守っている。
柔らかな風に揺れる銀色の髪。
陽光を受けて輝くその姿は、まるで天女のように穏やかだった。
――ミスラ・シルフィード。
「ミスラ様ーッ!!」
その名を呼びながら、一人の男が息を切らして駆け寄ってくる。
「どうしたの?そんなに慌てて」
ミスラは振り返り、やわらかな微笑みを浮かべたまま問いかける。
「そ……それが……!」
「落ち着きなさい。ゆっくりでいいから」
そう言って、子供たちのために用意していた水を一杯、差し出した。
「ありがとうございます!」
男はそれを受け取ると、喉を鳴らして一気に飲み干す。
荒れていた呼吸が、少しずつ整っていく。
「で?」
ミスラは優しく、しかし先を促すように言った。
「あ……!そうだ……!実は――」
男は息を呑み、そして言い放つ。
「十五番領地の領主邸が、他領地から襲撃を受けたようです!!」
「――ッ!!」
ミスラの瞳が、大きく見開かれた。
一瞬だけ、時間が止まったように感じられる。
「それで!?領主はどうなったの!?」
声音がわずかに強まる。
「は、はい!領主は犠牲を出しながらも、なんとか撃退!相手領主は死亡した模様です!」
その報告を聞いた瞬間。
ミスラの胸が、小さく上下した。
「……そう……」
ミスラは小さく目を伏せた。
張り詰めていた胸の内が、わずかに緩む。
だが――
次の瞬間には、その表情は引き締まっていた。
(……動き出したのね)
(さぁここからよ)
彼女の瞳に、強い意志が宿る。
(私も、行かなきゃ。)
決意が、胸の奥で静かに形を成す。
「ミスラお姉ちゃん……何かあったの?」
「大丈夫……?」
いつの間にか、子供たちが不安そうに彼女の腕を掴んでいた。
小さな手の温もり。
それを感じた瞬間、ミスラの表情がふっと緩む。
「なんでもないわ」
優しく、頭を撫でる。
「さぁ、まだまだ遊び足りないでしょう?もっと遊んでらっしゃい」
背中をそっと押すと、子供たちは安心したように笑顔を取り戻した。
「わかったー!!」
再び駆け出していく小さな背中たち。
その姿を見送ったミスラは――
やがて静かに口を開いた。
「あの子たちのこと、頼んだわよ」
その言葉に、男が目を見開く。
「ど……どちらへ?」
ほんの一瞬の沈黙。
そして――
「領主邸よ」
迷いのない声だった。
――十五番領地、北の村
年老いた男が、粗末な木の椅子に腰掛けていた。
衣服は質素だが、その立ち居振る舞いには、どこか隠しきれない気品が滲んでいる。
「ほう……領主邸が襲撃を受けたとな」
静かに呟くその声には、わずかな興味と、深い思索が混じっていた。
「はい。リオデルカ様。かろうじて撃退はしたようですが……被害も出ているとのことです」
報告する男は、背筋を伸ばしたまま一歩も動かない。
「ふむ……」
リオデルカと呼ばれた男はゆっくりと背もたれに身を預け、天井を仰いだ。
軋む木材の音が、小さく響く。
「それで……いかがいたしますか?リオデルカ様」
直立不動のまま、男が問う。
その言葉に、リオデルカはゆっくりと視線を戻した。
「いかが、とは……?」
「い、いえ……その……」
言葉を濁す男に、リオデルカは小さく笑みを浮かべる。
「はっはっは……」
柔らかな笑い声が、静かな室内に広がった。
「ワシはもう引退した身だ。余生を、静かに過ごしたいだけよ」
その言葉には、確かな諦観と――ほんのわずかな寂しさが滲んでいた。
「それに……」
「それに……?」
男は思わず身を乗り出す。
リオデルカは、穏やかな目で彼を見つめた。
「教えただろう」
「ワシらには資格がない」
「この島は、我らのために作られた場所ではないのだからな」
「……」
返す言葉を失った男を、リオデルカはただ静かに見つめていた。
その瞳の奥には、長い年月で積み重ねられた何かが、深く沈んでいるようだった。
――十五番領地、西の村
「おい……聞いたか?」
「あぁ……領主邸のことだろ?」
畑仕事の合間、土にまみれた男たちが腰を下ろし、ひそひそと声を交わしていた。
空は晴れているのに、どこか重苦しい空気が漂っている。
「襲撃したのはよ……俺たちの隣、十四番領地の連中らしいぞ」
「それ……マジかよ……」
男の顔が、さっと青ざめる。
「あぁ……俺たちに罰がなきゃいいけどな……“見逃した”とか言われてよ」
「……あり得る話だな」
苦々しく吐き捨てるように言う。
“責任”はいつだって一方的に降ってくるものだった。
「それで、被害はどんなもんなんだ?」
「家が数件、焼かれたらしい」
「……それだけか?」
「いや……騎士が五人、やられたって話だ」
「っ……」
空気が、さらに重く沈む。
「それと……」
男が言葉を濁す。
「それと、なんだよ」
「……メイドが一人、人前で凌辱されたらしい」
「……マジかよ……」
誰もが視線を落とす。
握りしめた拳に、土が食い込む。
「可哀想にな……その子……」
少しの沈黙のあと、男がぽつりと続けた。
「そのあと――首を吊ったって話だ」
「……」
誰も、何も言えなかった。
ただ、風に揺れる畑の音だけが、やけに大きく聞こえる。
――その会話を。
少し離れた場所で、一人の少女が聞いていたことなど。
男たちは、気づきもしなかった。
少女は唇を噛みしめる。
その瞳に浮かぶ感情は、悲しみだったのか、それとも――。
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