第七十五話 八番領地を襲う災難
――八番領地、領主邸・執務室
重厚な扉が軋むように開かれ、外の冷たい空気が一瞬だけ室内へ流れ込んだ。
「まったく……七番領地の心配が無くなったと思えば、今度は十三番領地じゃとは……」
低く吐き出すような声とともに現れたのは、八番領地の騎士・イマリ。
後ろ腰に携えた長刀を外しながら、苛立ちを隠そうともせず室内へと踏み入る。
「おう、戻ったか! イマリ」
机越しに振り返ったジラールが、豪快に笑って迎えた。
執務室には彼のほか、父であり領地の実権を握るジランド、そして運営に携わる幹部たちが揃っている。
広い室内には地図や書類が乱雑に広げられ、戦況の緊迫をそのまま映し出していた。
「戦いの方はどうじゃった?」
腕を組んだまま、ジランドが静かに問う。
「どうもこうもないわい。奴ら、死に物狂いで来よる。数では圧倒しておっても……死に物狂いの相手は骨が折れるでの」
イマリは不機嫌そうに鼻を鳴らし、そのまま椅子へと腰を落とした。
鎧の金具が鈍く鳴り、戦場の余韻をわずかに残す。
「三層の“食料問題”は深刻じゃからの。備蓄も、もう底を突く頃合いじゃろうて」
ジランドは視線を地図へ落としながら、淡々と分析を口にする。
「じゃあ親父、これからは三層から戦局が動くっていうのか?」
「ああ。今の今まで、この南地方で大きな戦いはリベリオンを中心に起きておった。他は様子見じゃ。だが――もう、それも限界じゃろうな」
ゆっくりと瞳を閉じるジランド。
その言葉には、確信めいた重みがあった。
「そうなると……俺たちがリベリオンと“同盟”を結べてるのは、好都合ってことか」
「そうじゃな。少なくとも東を気にせず動ける」
七番領地攻略戦の後、リベリオンと結んだ不可侵同盟。
それは今、この混沌の中で確かな意味を持ち始めていた。
「……それで、姫様の様子はどうじゃ?」
ふと、イマリが話題を変える。
その瞬間――室内の空気が、目に見えぬほどわずかに沈んだ。
「まだ……部屋に閉じこもっておるのか……」
「ああ。どうしたもんかねぇ」
ジラールが頭をかきながら答える。
七番領地領主、カワナミ・サクラ。
彼女は攻略戦の後、アサヒナ・カエデの死を知り――深い衝撃の中で、心を閉ざしてしまった。
誰とも会わず、食事もほとんど口にしない。
「あんなに領地経営にも熱心だったのにのう……」
イマリがぽつりと呟く。
「ああ。まぁ、姫がいなくても攻略自体は進められるだろう」
軽く言い放つジラールに、
「攻略は進められるがな。“宣言”ができるのは領主のみじゃ。それまでに立ち直る保証はない」
ジランドが静かに釘を刺す。
「親父は相変わらず心配性だな」
「お前は相変わらず楽観的じゃな」
二人の視線が交差し、室内にわずかな緊張が走る。
その空気を――
「どうじゃ? いっそのこと、リベリオンに従属しては?」
まるで愉しむかのように、イマリが口元に笑みを浮かべながら割って入った。
「おいおい、冗談言ってんじゃねぇぞ」
ジラールの視線が鋭く突き刺さる。
「なんじゃ? あのリベリオンの王の少年……なかなか良い目をしておったぞ。それに、男としてもそこそこの顔立ちじゃった」
舌なめずりするように言うイマリ。
「……現実的には、それも一つの選択肢ではあるのぉ。少なくとも、敵になるよりは遥かにましじゃ」
ぽつりとジランドが続けた瞬間――
「おい! クソ親父!」
ジラールが勢いよく立ち上がる。
机が揺れ、書類がわずかに跳ねた。
一触即発――
空気が張り詰め、誰もが次の瞬間を息を殺して見守る。
その時だった。
バンッ!!
執務室の扉が、激しい音とともに叩き開けられる。
「大変です!!」
血相を変えた伝令の男が、転がり込むように駆け込んできた。
「何事じゃ!」
ジランドが椅子を蹴るように立ち上がり、声を張り上げる。
「――九番領地が、攻め込んできました!」
その一言が、室内の空気を凍りつかせた。
「……なに……?」
ジラールの目が見開かれる。
「九番……じゃと……?」
ジランドの低い声が、信じられぬものを噛み砕くように漏れる。
イマリもまた、口元の笑みを消し去り、ゆっくりと立ち上がっていた。
誰もが言葉を失い――
ただ、その報せの意味を理解するまでのわずかな時間、硬直する。
次の瞬間。
室内にいた全員の表情が、一斉に驚愕へと塗り替えられた。
静寂が、重く落ちる。
戦火は――想定よりも、はるかに早く広がり始めていた。




