第七十二話 渇望
おはようございます。
三章突入です!
まだしばらくは2話投稿予定です。
僕は、ただ欲しかった。
夜空に輝く無数の星の中でも、たった一つの一等星を。
あれは中学二年の頃。
僕は学校に行っても、誰とも話さず、ただただ時が過ぎるのを待っていた。
昼休みになれば、誰も来ない校舎裏の用具倉庫、そのさらに裏で時間を潰す。
僕の見る世界は、まるでくすんだモノクロのようだった。
――そう、あの日。あの場所でアサヒナカエデと出会うまでは。
僕がいつも通り、用具倉庫の裏で時間を潰している時だった。
僕の昼ごはんをいつも貰っている猫二匹が、餌を巡って喧嘩を始めた。
低く唸り合い、牙を剥き、互いに飛びかかる。
噛みつき、引き裂き、鋭い爪が肉を抉る。
やがて、赤が滲む。
ぽたり、と赤い雫が地面に落ちる。
それを見て――僕は思った。
(綺麗だ)
ずっと。
ずっと見ていたい。
それは、物心ついてから初めて僕が抱いた「渇望」だった。
だが、その光景は長くは続かなかった。
「コラ! お前ら止めろ!」
鋭い声が割って入る。
その声の主は、アサヒナカエデ。
話したことはないが、クラスでもある意味、僕と同じように浮いている存在だった。
彼女は迷いなく猫の間に割って入り、一匹を抱き上げる。
「うわっ、びっくりした」
そして僕を見つけて、目を丸くする。
「なんだ……お前、こんなとこで飯食ってたのか?」
「あ……ごめん」
「ん? なんで謝るんだよ?」
困ったように笑いながら、彼女は猫を抱いたまま僕を見る。
「ったく。なんでこいつら喧嘩なんかしてんだよ」
「あ……僕が……ご飯……あげたから……」
「ご飯……?」
少し鋭い目が、僕を捉える。
(怒られる……)
そう思った瞬間――
「え?」
彼女の手が伸びてきて、僕の頭をぐしゃぐしゃにかき乱した。
「なんだ、イシダ! 優しいとこあんじゃん!」
意味がわからなかった。
怒られると思っていたのに。
否定されると思っていたのに。
彼女は、嬉しそうに笑っていた。
その笑顔を見た瞬間、僕の中で何かが弾けた。
――色が、差し込んだ気がした。
それからだった。
彼女は時々、用具倉庫の裏へ来るようになった。
猫達の様子を見るために。
猫をきっかけに始まった僕たちの時間は、砂時計の砂が落ちるように、静かに、けれど確実に僕を支配していった。
くすんだモノクロの世界に、彼女という鮮烈な色彩が混ざり込む。
彼女が笑うたび、僕の網膜にはその姿が焼き付き、他の有象無象は背景へと退いていった。
僕にとってアサヒナは、暗闇に一つだけ輝く一等星。
その光を浴びている間だけ、僕は自分が“生きている”ことを許されているような気がした。
だが――神様は残酷だ。
三年に進級する際のクラス替え。
掲示板に貼り出された名簿を見た瞬間、僕の足元から世界が崩れ落ちた。
三組、イシダ タクミ。
一組、アサヒナ カエデ。
校舎の端と端。
たったそれだけの距離が、僕にとっては絶望的な深淵に見えた。
それでも最初は、自分に言い聞かせていた。
昼休みになれば、またあの場所に行けばいい。
彼女はきっと来る。
あの乱暴で、温かい手で、また僕の頭をかき乱してくれるはずだと。
――だが、現実は違った。
その年、彼女の父親が病で亡くなった。
その影響なのか、新しいクラスで誰とも言葉を交わさなくなった。
かつて僕と同じように「浮いていた」彼女は、今や「触れてはいけない氷の塊」のように、教室の隅で一匹狼を貫いていた。
そして。
用具倉庫の裏に、来なくなった。
待てど暮らせど。
彼女に会えないからか、胸の奥でどす黒い感情が鎌首をもたげる。
かつて猫たちの血に感じた“あの感覚”が、今度は僕の内側を侵食していく。
最初は、ただ悲しかった。
廊下で。
移動教室の途中で。
遠くに彼女の背中を見つけるたび、胸が締め付けられる。
目が合えば笑ってくれたはずなのに。
名前を呼んでくれたはずなのに。
今は、視線すら合わない。
まるで僕という存在ごと、なかったことにするみたいに。
その事実が、じわじわと心を削っていく。
喪失感は、細い針のようだった。
だが――
「……なんでだよ」
気づけば、そう呟いていた。
悲しみは、熱を持ち始める。
なぜ、彼女は僕を頼らない。
辛いなら。
苦しいなら。
同じ孤独を知る僕のところへ来ればいい。
あの場所に来ればいい。
僕はずっと、待っているのに。
それなのに。
彼女は勝手に閉じこもって、勝手に沈黙して、
僕との繋がりを断ち切った。
まるで、最初から何もなかったみたいに。
(ふざけるな)
胸の奥で、何かが歪む。
僕はここにいる。
ずっと、あの場所で待っている。
それなのに彼女は、一度も来ない。
僕の時間も、期待も、すべて踏みにじって。
その沈黙が、どうしようもなく傲慢に思えた。
やがて怒りは沈殿し、形を変える。
濁って、重くなって、底に溜まる。
そして――
憎しみへと変わった。
僕の世界に色を与えておきながら、
勝手にそれを奪い去り、またモノクロに突き落とした彼女が許せなかった。
「優しい」と言った言葉も。
頭をかき乱したあの手の温もりも。
全部、僕を縛り付けるための呪いだったんじゃないか。
自分を置いていった父親を憎むみたいに、
僕は、僕を置き去りにした彼女を憎んだ。
愛おしさと殺意が混ざり合い、ドロドロに溶けていく。
もう、その二つを区別することすらできない。
境界が曖昧になっていく。
それでも――消えない。
彼女が欲しい、という感情だけは。
用具倉庫の裏で、僕は一人、彼女が抱き上げたあの猫を必要以上に強く撫でた。
彼女の不在が、僕の中の「渇望」を鋭利な刃物へと変えていく。
彼女が憎い。
彼女が欲しい。
彼女を壊したい。
彼女を自分のものにしたい。
――そうだ。
誰の目にも触れない暗闇の奥底に、僕が彼女を閉じ込めてしまえばいい。
そうすれば。
彼女はまた、僕だけの「一等星」に戻ってくれる。
歪んでいく思考の果てに、僕は自分の唇が歪な笑みを形作っていることに気づいた。
――十七番領地、領主邸。
「まっ……待ってくれ! イシダ!」
男は地に尻をつき、必死に後退る。
震える声。
涙で歪んだ顔。
「なんで……こんな……」
その問いに、答えない。
ただ、手に持った剣をだらりと下げたまま、一歩、また一歩と近づく。
禍々しい紫のオーラが、ゆらゆらと刃を包んでいた。
「……ころす」
「え……?」
聞き返した男の顔が、強張る。
「殺す」
また一歩、近づく。
「殺す……殺す」
距離が詰まる。
「殺す殺す殺す殺す殺す殺す」
振り上げる。
「やめ――」
振り下ろす。
血飛沫が、空気を裂いた。
赤が舞う。
あの日、見た色と同じ。
――いや。
それよりも、ずっと濃くて、重くて。
「僕からカエデちゃんを奪った“アイツ”を……殺す」
滴る血を見つめながら、僕は静かに呟いた。
その色だけが、今も変わらず――
美しいと思えた。
そして僕は、ゆっくりと口元を歪めた。




