第六十九話 終結
リュウヤの咆哮が止んだ後――戦場を支配したのは、重苦しいまでの「無言」だった。
俺は、二人の戦いから一瞬たりとも視線を逸らさず、ただ見据えていた。
この場で、俺とミスラ以外に意識を保っているのは、セシルと、負傷しながらも動けるリンウェルだけだった。
二人は、リュウヤの放つ“熱”に当てられて倒れた者たちを、必死に避難させている。
リュウヤの背後にいたイシダ、そして追いついてきていた黒ローブの集団もまた、その異常な熱量から逃げ惑っていた。
インペリアル装備の隙間から噴き出す炎は、もはや制御を放棄したかのように荒れ狂い、周囲の空間を陽炎で歪ませる。
先ほどまでの軽薄な挑発は、完全に消え失せていた。
黄金の縦瞳がミスラを射抜く。
そこにあるのは、ただ――“屠るべき獲物”という認識のみ。
その静寂こそが、彼が真に火竜の化身へと至った証だった。
呼吸のたびに、肺から灼熱の蒸気が吐き出される。
周囲の木々は、その熱だけで一瞬にして炭化し、崩れ落ちていく。
(……空気が、焼けている。息が……できない)
顔を歪めながらも、その光景から目を逸らさなかった。
(殺せ……殺せ、ミスラ……!)
俺は、憎悪に支配されていた。
ミスラは、ハイドロゼリオンを握る手に、焼かれるような錯覚を覚えていた。
先ほどまで彼女の武器だった“水”――周囲の湿気は、リュウヤの放つ圧倒的な熱量によって一瞬で消し飛び、乾いた死の匂いだけが立ち込めている。
ミスラの中の警鐘が鳴り止まない。
本能が、全力で“逃げろ”と叫んでいる。
その時――
リュウヤが、地を踏み抜いた。
音すら、置き去りにする踏み込み。
彼の足元の土壌が、一瞬でガラス状に焼結する。
(速い……ッ!)
反射で槍を振るう。
思考ではない。身体が勝手に動いた。
ミスラは焼け付く意識の中でイメージを叩き込み、槍の軌道上に凝縮された水の鞭を生成する。
触れるものすべてを切断する、超高圧の水刃。
この戦闘の中で掴んだ、最大の“反撃”。
――だが。
リュウヤは、それを避けようとすらしなかった。
炎を纏った大剣が、無造作に振るわれる。
水の鞭が触れた瞬間――
轟音。
爆発。
水は一瞬で蒸発し、白い霧へと変わる。
ミスラの渾身の一撃は、届くことすら許されず、空へと散った。
さらに。
発生した蒸気すらも、リュウヤの熱によって過熱される。
それはもはや“爆風”だった。
「――ッ!」
呼吸が潰される。
その直後、大剣が横薙ぎに振るわれた。
ミスラは咄嗟に槍を交差させ、防御に回る。
だが――
質量が違う。
威力が違う。
存在が違う。
弾き飛ばされた。
身体が宙を舞い、制御を失う。
地面に叩きつけられ、何度もバウンドしながら転がっていく。
白銀の装甲は泥にまみれ、原型を失いかけていた。
(重い……)
(これが……“火竜の暴力”……)
技術も、戦術も――すべてを焼き尽くす、純粋な暴力。
それは、蹂躙だった。
リュウヤは、無言で歩み寄る。
一歩。
また一歩。
それだけで、逃げ場が消えていく。
彼の足跡から広がる炎が、地を這い、退路を焼き塞いでいく。
振り下ろされる大剣は、もはや剣ではない。
火山の噴火。
理不尽そのものの暴威。
ミスラは必死に槍を突き出す。
だが、穂先が炎に触れた瞬間、衝撃波と共に押し返される。
届かない。
何も、通じない。
反撃の糸口すら見つからないまま、精神が削られていく。
そして――
リュウヤの蹴りが、胸部装甲を正面から撃ち抜いた。
「ガッ――!」
内部の衝撃吸収材が限界を超え、肋骨が軋む。
呼吸が潰れる。
身体が地面を滑る。
双槍が、手から零れ落ちかける。
(ああ……やっぱり……私は……)
意識が遠のく。
脳裏に浮かぶのは、兄の最期。
あの時と同じだ。
目の前にあるのは、越えられない“壁”。
すべてを焼き尽くす、絶対的な終焉。
――それでも。
ミスラの瞳から、光は消えていなかった。
泥を噛み、熱に焼かれながらも。
その手は、双槍を離さない。
(まだだ……)
(まだ、動く……!)
(私の心は……燃え尽きていない!!)
視界に映るのは、巨大にすら見えるリュウヤの足。
彼は倒れたミスラを見下ろすと、無造作に銀髪を掴み、引き上げた。
「が……ぁ……!」
首にかかる負荷。
頭皮が引き裂かれるような痛み。
だがそれ以上に恐ろしかったのは――その顔。
怒りも、嘲りも、何もない。
ただ処理するだけの、機械のような冷酷さ。
喉元に、大剣の切っ先が突きつけられる。
赤熱した刃。
皮膚が焼ける音が、じわりと響く。
終わりだ。
誰が見ても、そうわかる一瞬。
リュウヤはゆっくりと剣を引き――
止めの一撃を振り下ろそうとした。
「ミスラァァァ!!!!」
俺の叫びが、静寂を裂いた。
――そして。
「“ルール違反”だよ。アダチ君」
空気が変わった。
リュウヤの瞳が見開かれる。
次の瞬間。
背後からの一閃。
リュウヤは即座にミスラを離し、大剣で受ける。
「が……っ!」
吹き飛ばされた。
巨木へと叩きつけられる。
地面に剣を突き立て、膝をつきながら体勢を立て直す。
「てめぇ……なんで……ここに……」
歪む顔。
その視線の先。
「ワカナァァァ!!」
そこに立っていたのは――
竜血四侯。
ハシグチ・ワカナだった。
俺は、目の前で起きている出来事に、理解が追いついていなかった。
リュウヤによる蹂躙。
ミスラが、止めを刺されかけた瞬間――
俺の中にあった憎悪は、完全に消えていた。
残っていたのは、ただ一つ。
後悔だった。
(俺が……俺が、あんな命令をしたから……!)
足が、勝手に動く。
ミスラのもとへ。
駆け出す。
だが――
遠い。
間に合わない。
手を伸ばしても、届かない。
何もできないまま、すべてが終わる。
そんな予感が、全身を締め付ける。
(……くそ……!)
その瞬間だった。
ミスラの水を焼き尽くして生まれた、白い蒸気の残滓。
その揺らめく霧の中から――
音もなく、影が現れる。
リュウヤの背後。
死角。
そこに“いた”。
そして振るわれたのは――水色のオーラを纏った大槍。
迷いのない、一閃。
リュウヤの巨躯が、軽々と吹き飛んだ。
(……誰だ……!?)
理解が追いつかない。
だが、その姿を見た瞬間、脳が過去の記憶を引きずり出す。
小柄な体躯。
静かな佇まい。
そして――あの時、俺の腹を貫いた槍。
「……ハシグチ、ワカナ……」
呟きが、自然と漏れた。
竜血四侯の一人。
ミスラに装備の元となる指輪を与えた存在。
だが――
(……違う……)
あの時とは、明らかに違う。
空気が違う。
目が違う。
そこにあるのは、感情ではない。
ただ冷え切った、絶対的な“怒り”の気配。
「ミスラ! ミスラ!」
思考を振り払い、俺は駆け寄る。
ワカナの横をすり抜け、地面に倒れたミスラのもとへと。
もう力すら入らない彼女を、抱き上げる。
「ご……ごめん……ね……」
かすれた声。
それでも、無理に笑おうとする。
「負けちゃ……った……」
「……ッ!」
胸の奥が、抉られる。
(何を……何をさせてるんだ俺は……!)
自分への憎悪が、沸き上がる。
激情に駆られた自分に。
自分と歳の変わらない少女に全てを背負わせた自分に。
「ワカナぁ……てめぇ……邪魔をすんのか?」
低く、這うような声。
視線を上げる。
リュウヤが、立っていた。
口元から血を流しながらも、その眼光はまるで衰えていない。
「邪魔? なんのことかな?」
ワカナは、わずかに首を傾げる。
声音は穏やかだが、その奥に一切の温度はない。
「ぶっ殺す」
リュウヤが、構えを変える。
先ほどまでの“遊び”ではない。
両手で大剣を握る、明確な“殺し”の構え。
地面が弾ける。
一瞬で間合いが詰まる。
(まずい……!)
俺は反射的に、ミスラを抱き寄せる。
あの時と同じだ。
水と炎がぶつかれば――蒸気爆発。
今度は、巻き込まれる。
だが。
ワカナは、動かなかった。
ただ静かに、大槍を頭上に掲げる。
ミスラと同じ、水色のオーラ。
だがその質は、まるで別物だった。
澄み切っている。
揺らぎがない。
絶対的な“静”。
そして――
激突。
刃と槍が、ぶつかる。
――だが。
「……ッ!?」
何も、起きない。
いや、違う。
起きている。
だがそれは、爆発ではない。
“鎮圧”だった。
リュウヤの大剣――ヴォルガス・スレイヤーから噴き出していた炎が、
まるで最初から存在しなかったかのように――消えた。
「がは……っ!?」
次の瞬間。
リュウヤの装備が、切り裂かれる。
無数に。
細かく。
そして、その内側の肉体にも同様に傷が走る。
血飛沫が、遅れて舞った。
「ち……ちくしょう……」
後退するリュウヤ。
その顔に、初めて“理解不能”が浮かぶ。
「どれほど猛ろうと、水底の静寂は揺るがない」
ワカナが、静かに告げる。
その声は、戦場の熱を一瞬で冷やすようだった。
「さっきも言ったけど――ルール違反。彼らはまだ“竜への挑戦権”を得ていないよ」
「……」
リュウヤが睨む。
だが、踏み込まない。
踏み込めない。
「挑戦権を得ていない領地の“領民”を殺すのは“ルール違反”。わかってるよね?」
「……あぁ」
絞り出すような返答。
「ここで引かないなら、“他の”も来るよ?」
その一言で。
空気が、完全に変わった。
リュウヤが舌打ちをする。
「……チッ。わかったよ」
大剣を肩に担ぐ。
明らかに不満を残したまま、背を向ける。
だがその時だった――
「ちょっと待て!」
響いた声。
イシダだ。
「僕との約束はどうする! 僕のカエデを――」
最後まで言わせなかった。
「がはっ!!」
大槍が、腹を貫く。
いつの間にか、背後に回っていたワカナ。
「少し黙っててくれるかな?」
淡々とした声。
槍を引き抜く。
血が飛び散る。
「いた……痛い……!」
地面を転げ回るイシダ。
その姿に、誰も手を差し伸べない。
「君たちも消えな」
ワカナが視線を向ける。
黒ローブたちが、凍りつく。
「さっき“領民を殺すのはダメ”って言ったけど――“領主”は別だよ?」
静かな脅し。
「私の気が変わらないうちに」
「ヒッ……!」
イシダが叫ぶ。
黒ローブたちが彼を抱え、蜘蛛の子を散らすように撤退していく。
その光景をリュウヤは黙って見ていた。
しかし次の瞬間――
「ミスラァ!」
去り際、彼が振り返る。
「今回は命拾いしたな。だが――次は逃がさねぇ」
その目は、まだ死んでいない。
完全な殺意。
「……」
ミスラは、既に声すら出せない。
だが、その拳は強く握られており、腕で隠した瞳からは、悔し涙が頬を伝って落ちた。
「てめぇもだぞ、ワカナ」
今度はその殺意をワカナに向けた。
「いつでも相手になってあげるよ」
ワカナはそれを、呆れたような笑みを浮かべて受け流す。
「……むかつくぜ」
吐き捨てるように言い、リュウヤは消えた。
静寂が戻る。
残されたのは、俺たちと――ワカナだけ。
「さてと……」
彼女が、ゆっくりと歩み寄る。
足音が、やけに小さい。
「ワカナ……ありが――」
「別に助けたわけじゃないよ」
遮られる。
冷たい声。
視線が、突き刺さる。
「タイシ君。いつもこんなにうまくいくと思わないでね」
「……あぁ」
それしか言えない。
「今回は、あいつが“私達側”のルール違反をしただけ」
淡々とした説明。
そして、小さく息を吐く。
「じゃあ、帰るね」
背を向ける。
――そのまま消える、かと思ったが。
「あ、そうだ」
足を止める。
「ミスラちゃんの武器……まだ完全じゃないよ」
「……え?」
「ちゃんと“責任”とりなね」
それだけ言って。
どこからか現れた霧の中へと溶けるように消えていった。
「責任……?」
呟いた瞬間。
「ん……責任……男としての」
「どわっ!?」
背後。
いつの間にか、セシルがいた。
「と、とにかく! 今はミスラの治療だ!」
無理やり思考を切り替える。
「ゴランとイリスは!?」
「ん……二人は……大丈夫」
「そうか……」
息を吐く。
ようやく、少しだけ力が抜けた。
そして――
視線を向ける。
少し離れた場所。
横たわる、二つの影。
寄り添うリンウェル。
(アサヒナさん……カイ……)
胸の奥が、重く沈む。
七番領地攻略戦。
それは静かに幕を閉じた。
だが、この戦いで失ったものは――
あまりにも、大きすぎた。




