第六十三話 連続する災難
俺は、イシダの声色に背筋が凍るものを感じていた。
いや、俺だけじゃない。
その場にいる、黒ローブの集団以外――その全員が、同じ悪寒を共有していた。
肌の上を這うような寒気。
肺の奥に重く沈む、不快な圧迫感。
気づけば、風は止んでいた。
さっきまで微かに揺れていた草木はぴたりと動きを止め、空はいつの間にか薄く濁っている。
昼間のはずなのに、陽光は弱く、色彩が一段くすんで見えた。
空気そのものが、重い。
音も遠い。
虫の羽音も、葉擦れも、遠くで聞こえていたはずの生活の気配も――すべてが引き剥がされたように消えている。
その代わりに、やけに鮮明に響く声があった。
「あー、カエデ……カエデ……」
イシダは天を仰ぎ、不敵に――いや、不気味に笑う。
喉の奥で転がすようなその笑いは、湿り気を帯びていて、聞く者の神経をじわじわと削ってくる。
名前を呼ぶたび、その響きが空間に貼り付くようだった。
じりじりと、俺とカワナミさんの連合軍はお互いの距離を詰めていた。
互いの位置を確認し、背中を預け合うようにして慎重に動く。
一歩進むごとに、靴底の感触がやけに重く感じられた。
やがて、ぎりぎりの距離で合流を果たす。
だが――
その間も、黒ローブの集団は一切動かなかった。
阻止しない。
威嚇もしない。
武器を構えることすらない。
ただ、整然とそこに立っている。
それが余計に不気味だった。
まるで――屍のようにそこにいるだけ。
「カワナミさん……アイツ……あんなんだったか?」
喉が乾く。
自分でも驚くほど声が掠れていた。
「……わからないよ……しゃべったことないし……」
返ってきた声も、どこか現実感を失っている。
(まぁ……そうだよな……俺もしゃべったことないし……)
だが、それにしても。
ここまで“異質”だったか?
「なんか……すごく……怖い……」
カワナミさんの肩が、小さく――だがはっきりと震えていた。
両腕を胸の前で深く交差させ、自分の体を抱き締めるようにしている。
指先は白くなるほど力が入り、爪が肉に食い込んでいるのも構わない。
ただ、自分という存在が崩れないように、必死に繋ぎ止めている。
恐怖が、内側から侵食してくる。
俺の脳裏に、クドウのあの時の顔が浮かぶ。
極限状態に追い込まれ、倫理も常識も剥がれ落ちたあの表情。
だが――違う。
クドウは壊れた。
だが、今目の前にいるイシダは違う。
むしろ――最初から壊れていた“何か”。
アサヒナさんの名前を呟くたびに、彼の唇は三日月のように深く歪む。
歯茎が剥き出しになるほど吊り上がったその口元は、愛おしさと執着と狂気が、無秩序に絡み合っていた。
細かく震えている。
歓喜で。
見ている側が吐き気を覚えるほどの、純粋で、濁りきった悦び。
「陛下……とにかくだ……今は引かねえと……」
ゴランが、低く押し殺した声で言う。
その体は既に限界に近い。
鎧は砕け、血が乾いて黒く張り付き、呼吸も荒い。
それでも拳を構え、崩れない。
戦う意思だけで立っているような状態だった。
「クッ……」
アサヒナさんをここに置いていく。
いや――あの男の元に残す。
その選択が、胸の奥で重く軋む。
「待って! カエデちゃんは!? カエデちゃんはここに置いていくの!?」
「!?」
カワナミさんの叫びが、空気を切り裂いた。
それは懇願だった。
言葉にすることでしか保てない、ぎりぎりの感情。
「……」
俺は言葉を失う。
わかるからだ。
どうしたいかも、どうするべきかも。
そのどちらも。
「姫様、ここは致し方ない」
後ろからジラールが低く言う。
背を丸め、顎髭を蓄えたその姿は落ち着いているが、声の奥には緊張があった。
「でも!!」
カワナミさんは即座に反論する。
だが、その先が続かない。
答えが出せないのは、俺も同じだった。
そのとき――
ジラールが、静かに俺の背後へと近づいていた。
足音すら立てない。
「いざとなったら俺達は姫様の意識を奪ってでも退却する。お前らも早めに退却しろ」
「!?」
低く、現実を突きつける声。
カワナミさんは、それに気づいていない。
(……そうだ……これは戦争だ……)
俺は自分に言い聞かせる。
一人を救うために、全てを失うわけにはいかない。
深く息を吸い込む。
肺の奥まで空気を押し込み、無理やり意識を整える。
「イシダ! お前の目的が何かは知らない! だが――必ず俺がお前をぶっ飛ばす!」
叫ぶ。
それは挑発であり、宣言であり、そして――自分への誓いでもあった。
(次は、お前だ……)
俺はイシダを睨みつける。
だが、当の本人は反応しない。
完全に、自分の世界に沈み込んでいる。
「チッ! 退くぞ……」
命令を下そうとした、その瞬間だった。
「ああ、カエデ。僕のカエデ……」
「今日から全部だ」
「髪も、唇も、体も……全部僕のものになる」
その手が、彼女の体をなぞる。
撫でるというより、確かめるように。
奪うように。
(……異常だ……)
俺は目を細める。
アサヒナさんの顔が歪む。
傷の痛みか、それとも恐怖か。
だが、反撃する力は残っていない。
「ああ。これが君の味か」
イシダは舌を出し、首筋へと這わせる。
汗を舐め取る。
それと同時に、左手がゆっくりと下へ――
「お、おい!?」
カイの焦りの声。
その瞬間――
俺は、地面を蹴っていた。
思考は追いつかない。
ただ、許せなかった。
武器を強く握る。
いや、俺だけじゃない。
ミスラが地を蹴り、槍を構える。
イマリもまた、カワナミさんを庇う位置から一歩踏み出す。
リンウェルは黒ローブに体当たりをかまし、そのまま一直線に突進する。
誰も言葉にはしない。
だが、怒りだけは同じだった。
目の前で踏みにじられているものを、見過ごせなかった。
ミスラの長槍が唸りを上げ。
イマリの長刀が空気を裂き。
リンウェルの細剣が鋭く伸びる。
そして、俺の大槍が――
イシダを捉えようとした、その瞬間。
「おいおい、いきなり大将は無謀だろ」
頭上から降ってきた声だった。
だが止まらない。
視界には、イシダしか映っていない。
次の瞬間――
ドォォォォン!!
叩きつけられた大剣。
地面が爆ぜ、炎が噴き上がる。
衝撃波が空気を押し潰し、俺達をまとめて吹き飛ばした。
「クッ!」
「なに!?」
「なんじゃと!?」
「なんですの!?」
肺の空気が一気に吐き出される。
視界が揺れ、地面が迫る。
土煙が舞い上がり、視界を覆い尽くす。
「何が……おきた……」
咳き込みながら体を起こす。
耳鳴りが止まらない。
ぼやける視界の中で、爆炎の中心を見据える。
やがて煙が晴れ――
そこに、一人の人影が現れた。
全身を重厚な鎧で覆った男。
俺より大きく、ゴラン達よりは小さい。
だが、その存在感は比べものにならない。
曇り空の隙間から差し込む光を受け、鎧が鈍く輝く。
全身を覆うそれは、単なる防具ではない。
緻密に刻まれた意匠。
幾重にも重なる金属の層。
それはまるで、一つの完成された“作品”だった。
歩を進める。
ガン……と、低い音が響く。
重い。
ただの足音ではない。
存在そのものが、大地に圧をかけている。
まるで――動く城壁。
だが。
そんな装備よりも、なお目を奪われるものがあった。
その男が持つ、大剣。
「!?」
美しい。
思わず見惚れるほどに。
だが同時に、禍々しい。
ワカナやリリィが持つ武器と同じ――淡い光と濃い螺旋をまとっている。
だが、その色は。
赤。
濃く、粘つくような赤。
「ドラコニックウエポン……」
思わず、口に出る。
「なぜ……なぜ竜血四侯が……ここにいる!!!」
叫ぶ。
その名を聞いた瞬間、仲間たちの空気が変わる。
緊張が一気に張り詰めた。
男は地に刺さった大剣を軽々と引き抜く。
重さを感じさせない動作。
「ああ……俺がわかるってことは……てめぇがアサヒタイシだな」
静かに言う。
その視線が、突き刺さる。
「……」
「ということは……」
視線が流れる。
吹き飛ばされ、膝をつく三人の乙女達へ。
「ん? おいおい、もう三人も女を食ったのかよ? どいつがお前の正妻だよ」
軽薄な笑み。
「なにを……」
意味がわからない。
「いるんだろ?」
「なにが」
「“水の”から“指輪”を受け取ったやつが」
「!?」
俺とミスラが反応する。
男の視線が、ゆっくりとミスラへと向く。
「そうか……てめぇ……」
空気が張り詰める。
そして――
「んじゃ、てめぇには死んでもらうぜ」
男は笑っていた。
まるで明日の天気でも話すかのように。
それはあまりにも自然に。
あまりにも当然のように告げられた――
逃れようのない、死刑宣告だった。




