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第六十話 父として立つ戦場

――七番領地、領主邸内部


領主邸の玄関ホールは、高い吹き抜けに巨大なシャンデリアを有していた。


磨き上げられた石床は淡く光を反射し、壁面には簡素ながらも重厚な装飾が施されている。


質素だが、確かな威厳を感じさせる造り――本来ならば、訪れる者を静かに迎える空間。


しかし今、その空気は一変していた。


漂うのは、血の生臭さと鉄錆の匂い。


静謐であるはずの空間は、明確な「死」に支配されている。


カイは正面玄関を背に立つ。


その視線の先――ホール中央へと続く大階段の麓には、アンソニーが構えていた。


互いに、一歩も動かない。


だが、その沈黙は均衡ではない。


一触即発――張り詰めた殺意が、空間そのものを軋ませていた。


カイの背中には、もう守るべき小さな体温はない。


ザインとアリーザは、信頼できる仲間の手によって、すでにこの屋敷から連れ出されている。


それでも――


彼らが流したであろう涙の跡。


震えていたであろう小さな手。


それらは、今なおカイの頭に焼き付いて離れない。



「……意外に冷静な顔をしているじゃねぇか」



沈黙を破ったのは、アンソニーだった。


その手に握られた大槍は、人の背丈を遥かに超える。


鈍い光を放つその穂先は、つい先ほどまで幼い兄妹を拘束していたものだ。



「理解する必要はねえよ、アンソニー」



カイの声は低く、地を這うように響く。



「お前が知るべきなのは――ここがお前の墓場になるってことだけだ」



その瞳には、底の見えない暗い淵のような怒りが宿っていた。



「墓場、か。貴様のような出来損ないの剣士が、この俺を屠ると?」



アンソニーは口角を歪め、嘲るように笑う。


槍の石突きを床へ叩きつけた。


カツン――


乾いた音が、やけに大きくホールへ反響する。



「……笑わせんじゃねぇ!!」



次の瞬間、空気が弾けた。


突進は、瞬きよりも速い。


アンソニーの脚力が石床を砕き、爆ぜる破片が背後へ飛び散る。


その勢いのまま、大槍が閃光となってカイの眉間へと突き出された。


ガギィッ!!


衝突。


カイは盾を斜めに構え、衝撃の瞬間にわずかに首を捻る。


槍先が盾を削り、火花が散る。


掠めた軌道のまま、穂先は背後の壁へと突き刺さった。


轟音。


石壁が爆ぜ、破片が嵐のように舞う。



「へぇ……一撃で首を飛ばすつもりだったが、逃げ足だけは一丁前か」



「逃げてねえよ。お前の槍筋を読むのが簡単なだけだ」



言い終わるより早く、カイは踏み込む。


盾の縁を使った打撃――バッシュ。


狙いは喉元。


だがアンソニーは鼻で笑い、槍の柄を縦に立てて受け止めると、そのまま回転。


流れるような動作で、カイの脇腹を薙ぎ払った。


鈍い衝撃。


盾越しに受けたにも関わらず、骨まで軋む重さ。


カイの体がわずかに浮き、床を滑る。



(……重い)



ただの膂力ではない。


ステータスの差――力、速さ、その両方。


体力を除けば、アンソニーは確実に上。


ほんのわずか――だが、その差は戦闘において致命的になり得る。



「無駄だと言っている」



アンソニーが嗤う。



「貴様の安っぽい正義感で、この“ステータス”の差が埋まるとでも思っているのか?」



「……」



「この世界はな――正義感だけじゃ、生き残れねぇんだよ!!」



連撃。


突き、払い、石突きの叩きつけ。


大槍が暴風のように空間を薙ぎ裂く。


だがカイは、焦らない。


最小限の動きで、すべてを捌く。



「だから、あの子達を人質に?」



「……ああそうだ」



攻撃の手を緩めることなく、アンソニーは続ける。



「昨日、お前らが孤児院を視察したあと、念のためにガキ共を調べた」



槍が唸る。


床が砕ける。



「驚いたぜ。レイモンドって名前のガキが、二人もいやがった」



カイの剣が、わずかに軌道を変える。



「……」



「聞いたら、親父の名はカイって言うじゃねぇか」



「……」



「あのガキどもな――“親父が迎えに来たぞ”って言ったら、心底嬉しそうな顔してやがったぜ」



ニタリ、と笑う。


その言葉は、刃よりも鋭く、カイの心を抉る。


だが――揺らがない。


むしろ逆だ。


脳裏に浮かぶのは、恐怖に震えながらも妹を庇った少年の姿。


声を失い、必死に兄の服を掴んでいた少女の姿。



(許さねえ……)



静かに、しかし確実に。


カイの内側で、何かが研ぎ澄まされていく。


ギィン――!


再び、鋼がぶつかり合う。


火花が散り、砕けた石片が足元で弾ける。


アンソニーの槍は、先ほどまでよりもさらに鋭さを増していた。


突きは直線ではない。


わずかに軌道を歪め、フェイントを混ぜ、読みを狂わせに来る。



(……変えてきたか)



カイは内心で舌を巻く。


ただ力任せに振るうだけの男ではない。


戦いの中で修正し、最適化してくる――厄介な相手だ。



「どうした! さっきの威勢はッ!!」



連続の突き。


三連、四連――いや、それ以上。


槍の穂先が残像を引き、視界を埋め尽くす。


だがカイは、退かない。


盾をわずかに傾ける。


真正面で受けない。


角度を作る。


ガンッ、ギャリッ――!


衝撃を“受ける”のではなく、“滑らせる”。


流した軌道の先で、槍先が床を削る。



(重心……右足寄り。次は払いだ)



直後、予測通りに横薙ぎが来る。


カイは半歩踏み込む。



「――ッ!?」



間合いの内側。


槍の最も力が乗る位置を、わずかに外す。


盾で柄を押し上げ、軌道を逸らすと同時に、剣を振るう。


ザシュッ――


浅い。


だが確かに、アンソニーの前腕を掠めた。



「チッ!」



アンソニーが舌打ちする。


それは初めてのことだった。



(通る……!)



手応えはわずか。


だが、“当たる”という事実。


それだけで十分だった。


再び間合いが離れる。


だが今度は、カイの呼吸は乱れていない。


対して――


アンソニーの足運びに、ほんの僅かな乱れが生じていた。



「調子に乗るなぁッ!!」



怒気を孕んだ踏み込み。


床石が砕け、粉塵が舞い上がる。


突き。


速い。


先ほどよりも明確に速い。


だが――



(見える)



カイの視界が、わずかに広がる。


槍の軌道だけではない。


肩の動き、腰の捻り、踏み込みの癖。


すべてが“前兆”として、繋がり始めていた。


盾で受け、流し、弾く。


その合間に――


カンッ!


石突きを蹴り上げた。



「なッ!?」



一瞬、槍の軌道が浮く。


その隙に踏み込む。


斬撃。


今度は肩口。


装甲の隙間を狙った一撃。


ギリ、と刃が食い込む。



「ぐっ……!」



アンソニーの表情が歪む。



(浅い……だがいい)



致命傷には遠い。


だが確実に、“削れている”。


呼吸。動き。集中。


すべてが、わずかに。



「小賢しい真似を……!」



怒りに任せた一撃。


力任せの叩きつけ。


ドゴンッ!!


床が砕け、衝撃が空間を揺らす。


だがカイは、そこにいない。


半歩――ほんの半歩だけ、ずれている。



(力に頼り始めたな)



冷静に、分析する。


怒りは判断を鈍らせる。


さっきまでの精密さが、わずかに崩れている。


その“わずか”を――逃さない。


踏み込む。


連撃。


一閃、二閃、三閃。


すべてが浅い。


だが、狙いは一貫している。


関節。腱。装甲の継ぎ目。



「ぐっ……! くそがぁ!!」



アンソニーが大きく薙ぎ払う。


だがその軌道は、もはや読みやすい。


カイはしゃがみ込み、回避。


そのまま足払い。


ガンッ!


巨体がわずかに揺らぐ。



(崩れた……!)



間髪入れず、体当たり。


盾で押し込む。



「ぐぉっ……!?」



アンソニーの体が一歩、後退する。


――初めて。


ほんの一歩だが、確実に。


押した。



「……ッ」



カイの目が細まる。



(いける)



確信ではない。


だが、兆しはある。


押し返せる。



「調子に……乗るなァッ!!」



怒号とともに、再び突き。


だがその速度は、ほんの僅かに鈍っている。


カイは踏み込む。


避けない。


受け流しながら、さらに内側へ。



「なぜだ……!」



アンソニーの声に、焦りが混じる。



「なぜ、押し返せる!!」



「チョロチョロと……! なぜ死なない! なぜその程度の力で、俺の間合いに立っていられる!」



その声に、わずかな焦りが混じる。


カイは、静かに答えた。



「昔の俺と同じだな」



踏み込みながら、言葉を重ねる。



「お前は、自分のことしか見えてねえ」



一瞬の間。



「今の俺は違う。背負ってるもんがある。その差だ」



「黙れぇッ!!」



アンソニーが咆哮する。


大槍を大きく引き、全身の力を穂先へ集める。


次で終わらせる。


そう告げるような、一直線の構えだった。


カイはそれを見て、わずかに腰を落とす。


逃げない。


盾を構えたまま、真正面からアンソニーを見る。



「貴様ごときが、俺を語るなァッ!!」



踏み込みと同時に、床が爆ぜた。


放たれたのは、全力の突き。


逃げ場のない、必殺の一撃。


だが――


カイは、避けない。


ガシュッ――


鈍い音が響く。


槍の穂先が盾の縁を掠め、そのまま左肩を深く貫いた。



「がは……っ!」



口の端から血が零れる。



「仕留めたぞッ!!」



勝利を確信した叫び。


しかし――


アンソニーの笑みは、次の瞬間に凍りつく。


カイが笑ったからだ。


肩を貫かれたまま。


それでも倒れず、左腕と盾ごと槍を抱え込むように押さえつける。



「……捕まえたぜ」



「な……ッ!?」



引き抜けない。


カイが、自らの肉体ごと槍を拘束している。



「貴様……狂ったか! 離せ!!」



「足りねえな」



低い声だった。



「こんなもんじゃ――あの子たちの恐怖には、全然足りねえ」



右手の剣を、逆手に持ち替える。


ゼロ距離。


槍使いの死角。



「清算の時間だ」



一閃。



「これは、ザインの分だ」



腹部を裂く。


二閃。



「これは、アリーザの分だ」



胸甲の隙間へ刃を叩き込む。


そして――



「……これは、俺の分だ」



渾身の突き上げ。


刃が顎下から深く入り、アンソニーの動きが止まった。


その瞳から、光が消える。


ドサリ、と。


重い音とともに、体が崩れ落ちた。


静寂。


カイは、ゆっくりと槍を引き抜く。


肉を裂く音とともに、鮮血が床へ滴る。


激痛。


だが、声は上げない。


ただ、剣を鞘へ収める。


崩れたシャンデリアの欠片。


そこに差し込む、柔らかな陽光。


舞い上がる埃が、光の中で静かに揺れている。



「……終わったぞ」



誰に向けるでもない呟き。


その顔に、もはや処刑人の影はない。



「帰らねえとな」



ゆっくりと立ち上がる。



「……あいつらが待ってる場所に」



一歩。


また一歩。


血の跡を残しながらも、確かな足取りで。


カイは静かな陽光の中、玄関ホールを後にした。


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