第五十九話 死に場所を求めて
――七番領地、領主邸中庭・正面門付近。
「やはり、私の相手はお前か」
正午の太陽が真上から照りつける芝生の上で、二人の男女が対峙していた。
赤みがかった髪の双剣使い、イリス。
漆黒の道着を纏った拳使い、サリバン。
一方は空気を切り裂く鋭利な刃、もう一方は鋼をもひし曲げる硬質の拳。
両者の間には、逃げ場のない熱気と共に、張り詰めた糸のような緊張感が漂っている。
「ああ」
サリバンは短く応じた。
どちらかが一瞬でも隙を見せれば、その瞬間に命が零れ落ちる――
静まり返った中庭の空気が、それを予見していた。
「……行くぞ」
先に沈黙を破ったのはサリバンだった。
巨体からは想像もつかない俊敏さで地面を蹴り、一気にイリスの間合いへと踏み込む。
その右拳は、まるで大砲の弾丸。空気を圧縮するような低い風切り音と共に、イリスの顔面へ一直線に突き出される。
イリスは表情を変えず、右手の剣を垂直に立てた。
硬質な金属音が響く。
拳と鉄が正面から衝突し、肉と骨が軋む音が正面門の壁に反響した。
イリスは力で抗う愚を犯さない。
サリバンの剛腕の力を受け流すように身体を滑らかに捻り、左手の剣で彼の脇腹を狙う。
だが、サリバンの反応も神速だった。
突き出した右腕を引き戻すと同時に、鋼のように硬い左肘でイリスの追撃を弾き飛ばす。
サリバンは笑わない。
ただ、獲物を確実に仕留める獣の目でイリスを見据え、猛烈な連撃を叩き込む。
正拳突き、裏拳、そして地を這うような重い回し蹴り。
一つ一つが骨を砕きかねない打撃の雨を、イリスは最小限の足捌きで回避し、あるいは双剣の腹で受け流していく。
「……忙しない男だな。筋肉が脳まで詰まっているのか」
イリスの瞳に、冷徹な、しかし確かな高揚を孕んだ光が宿る。
サリバンの拳が風を切り裂き、鼻先をかすめた刹那――彼女はあえて死地である懐へと潜り込んだ。
双剣を交差させ、サリバンの首筋を刈り取る。
銀の軌跡が陽光を反射し、閃光となって走る。
しかしサリバンは紙一重で身体を後ろへ反らし、その刃を回避。
そのまま後方へ跳んで距離を取ると、着地の瞬間に再び弾丸のように突っ込んできた。
「逃がさないと言ったはずだ」
サリバンの両掌が、イリスの胴へと放たれる。
それは魔法などではない。純粋な踏み込みの速度と背筋が生み出す、圧倒的な物理の圧力だった。
イリスは双剣を交差させて盾とするが、その凄まじい衝撃に足が石畳を削り、正面門の重厚な門扉まで数メートル後退させられる。
「くっ……!」
痺れる両腕を、イリスは強い意志で抑え込む。
背後に冷たい鉄の感触。これ以上は下がれない。
(技量、身体能力……鏡合わせのように互角だな。これほどの壁は久々だ)
対するサリバンもまた、肩で深く呼吸をしながら、一点を見据えていた。
彼の道着の袖はズタズタに切り裂かれ、そこから覗く太い腕には幾筋もの血が流れている。
イリスのカウンターを、彼もまた完全には防ぎ切れていない。
「……なぜ、そこまでして私を目の敵にする?」
激しい攻防の合間、イリスが短く問いかける。
サリバンという男は、アンソニーとは違い、感情を露わにするタイプではない。
だが、彼がイリスに向ける視線は、常に敵そのものだった。
イリスは正面門の木柱に背を預け、わずかな呼吸の間を縫う。
サリバンは口内に溜まった血を吐き捨て、短く答えた。
「……言ったはずだ。裏切りは容赦しないと」
「……それだけか?」
サリバンの拳はすでに皮が剥け、赤黒く腫れ上がっている。
かつての彼は一介の傭兵だった。
だが、目の前で民を蹂躙する貴族の傲慢に耐えかね、その顔面を叩き割った。
結果、彼は犯罪者として捕らえられ、円形闘技場の見世物へと落とされた。
飢えた猛獣や薬漬けの狂戦士――彼を「殺す」ために用意された刺客たちを、彼はこの拳一つで屠り続けてきた。
その最後に用意された罰。それが、誰も帰還したことのないリベンジゲームへの強制参加だった。
「俺は、もう疲れたんだ。こう見えて色々あってな。そろそろゆっくりしたいと思っている」
「……」
「そして、それができるのは、お前だけだと思っている」
彼が望むもの。
それは、本気で戦った果てに訪れる、終わりだけだった。
サリバンが再び地を蹴る。
先ほどよりも重い、死を覚悟した踏み込み。
対するイリスの胸中には、乾いた風が吹き抜けていた。
(私と同じだな。行き場のない力、居場所のない魂……か)
イリスは、自分が貧民街の路地裏で行き倒れていた日のことを思い出していた。
雪の降る夜、死を待つだけだった自分を拾い上げ、温かい食事と生きる道を与えてくれたのは、先代領主リオデルカだった。
彼への恩に報いるためだけに修行を積み、ようやく国内の剣術大会に優勝し騎士となる権利を得たが――その矢先、リオデルカは退位した。
守るべき主を失い、磨き抜いたこの双剣を、今さら何のために振るえばいいのか。
「悩んでいる暇があるのか。その首を置いていけ」
サリバンの鉄拳が、イリスの側頭部を狙う。
イリスは咄嗟に首を傾けて回避するが、拳圧だけでこめかみが裂けた。
「……っ!」
反射的に右の剣を突き出す。
サリバンの肩を深く裂くが、男は表情を変えない。
あえて深く刺させ、距離を密着させることで、イリスの剣を封じにかかる。
「お前の剣には迷いがある。
綺麗な騎士になりたかったのか。
なら、俺のような犯罪者の拳に沈むのがお似合いだな」
至近距離からの膝蹴りがイリスの腹部を捉える。
肺から空気が強制的に絞り出され、視界が白く明滅した。
イリスは正面門の鉄扉まで吹き飛ばされ、背中に重い衝撃を受ける。
(迷い……。そうだな。私は、この力の使い道を知らないままだ)
リオデルカのためではない、ただの殺し合い。
だが、肺を焼くような痛みと、皮膚を裂く熱だけは、今の自分に「生きている」という実感を強く刻みつけていた。
「……黙れ、死に損ない」
イリスが立ち上がる。
逆手に持った剣を鋭く振り下ろし、自らの血を振り払った。
「お前の死に場所など、私が決めることではない。
だが、私の剣が今、お前を斬りたいと言っている……それだけで十分だ」
初めて、イリスの側から「理由のない」殺気が溢れ出した。
恩義のためでも、正義のためでもない。
ただ、目の前の好敵手を屈服させたいという、一人の戦士としての剥き出しの闘争心。
イリスの動きが加速する。
サリバンの拳を紙一重でかわしながら、双剣が縦横無尽に踊る。
サリバンはそれを腕の肉で受け、強引にカウンターを狙うが、今のイリスの刃は鋭さが違った。
「……っ!」
サリバンの胸に、大きな十字の斬痕が刻まれる。
サリバンは声も上げず、返り血を浴びながら、さらに勢いを増した。
拳と剣のぶつかり合い。
それはもはや戦闘ではなく、互いの魂をぶつけ合う対話だった。
領主邸の中庭に、鉄のぶつかり合う音と肉が裂ける音が絶え間なく響き渡る。
正面門の石畳は二人の血で汚れ、周囲の薔薇の生垣は粉々に砕け散った。
真昼の光が、傷だらけの二人を残酷なほど鮮明に照らし出す。
どちらも限界は近い。
サリバンの右腕はだらりと垂れ下がり、イリスもまた左足を引きずっている。
それでも、二人の視線は逸れない。
「次で、終わりにする」
イリスが双剣を正手に戻し、深く腰を落とす。
「……来い。俺の人生を、お前が締めくくってみせろ」
サリバンが、唯一動く左拳を固め、全身のバネを絞り出す。
二人の影が、再び正面門の前で交錯する。
一瞬の静寂。
そして――激しい衝撃音が中庭を揺らした。
イリスの双剣が、サリバンの脇腹を深く抉る。
サリバンの左拳が、イリスの肩口を打ち抜く。
互いの武器が相手の肉体に深く食い込んだまま、二人は動きを止めた。
至近距離で、視線が混ざり合う。
サリバンの瞳にあるのは、ようやく見つけた安らぎへの静かな期待。
イリスの瞳にあるのは、迷いを抜けた先にある、ただ純粋な意志。
だが、まだ終わらない。
どちらの膝も、折れてはいなかった。
互いに傷口から溢れる血を感じながら、二人は同時にさらに一歩を踏み出す。
サリバンは残された力を振り絞り、刺さったままの剣を無視して頭突きを見舞う。
イリスはそれを顔面で受けながらもひるまず、双剣を引き抜き、さらなる一撃を叩き込むべく腕を振るった。
石畳に散った血は、夏の陽光に熱せられてすぐに乾き、不気味な赤茶色の染みとなって広がっていく。
もはや会話はない。
あるのはただ、生への渇望と死への憧憬が混ざり合った、凄まじい暴力の応酬。
「はぁ……はぁ……!」
イリスの肺が悲鳴を上げる。
鎖骨の激痛が脳を揺らす。
それでも彼女は笑っていた。
騎士としての規範も、恩義への義務も、今はどうでもいい。
目の前の男を倒す――その一事のみが、彼女の存在を定義していた。
サリバンもまた、視界が赤く染まる中で、静かな悦楽に浸っていた。
かつて見世物として戦わされた獣たちとは違う。
この女の剣には、自分と同じ、剥き出しの「個」が宿っている。
(ようやく……見つけたか)
その思考は、言葉になる前に次の衝撃にかき消された。
二人の攻撃が再び交差する。
イリスの剣がサリバンの喉元をかすめ、サリバンの拳がイリスの脇腹を打ち抜く。
どちらが先に倒れてもおかしくない。
だが、昼下がりの静かな領主邸に響く打撃音は、止まるどころかさらに激しさを増していく。
決着の瞬間は未だ、燃え盛る太陽の下に晒されることなく、激闘の火花の中に埋もれていた。




