第百二十二話 淑女の嗜み
「で? なんで君は俺の部屋にいて、俺の隣に座ってるんだ?」
ミスラとリリィを見舞った俺は、自室に戻っていた。
いつもと変わらない自室。
違和感があるとすれば、ベッドに腰掛ける俺の隣に、なぜかリンウェルがいることだった。
「いえ、単純に陛下が無理をなさっていそうでしたので、心配になりましたの」
リンウェルは、俺に視線を向けながら言う。
「……」
俺は答えなかった。
「だいぶ強がっていらっしゃいましたわね」
リンウェルは、少し悪戯っぽい笑みを浮かべながら言う。
「これが……本当の俺だよ……幻滅したか……?」
俺は力なく、自嘲気味に笑う。
「いいえ……ただ、少し……」
彼女はゆっくりと言葉を選ぶ。
そして、優しい笑みを浮かべた。
「かわいいなと思いまして」
「かわいい?」
「ええ」
隣に座るリンウェルは、ふと俺に身体を寄せてきた。
わずかに触れ合った腕から、彼女の柔らかな感触と体温がじんわりと伝わってくる。
彼女の左手は、そっと俺の胸元に添えられていた。
「陛下――」
耳元で囁かれる声は、いつもの気品を残しながらも、どこか甘く、やけに近い。
「誰かを支えてばかりでは、陛下のお心が先に壊れてしまいますわ」
「……」
「今夜くらいは、わたくしに甘えてくださってもよろしいのですわよ」
甘い香りと体温が、少しずつ俺の張り詰めていた心をほどいていく。
「頑張っている殿方の、弱っている姿を見せられると……」
俺の鼓動が早くなる。
「女は、コロッといってしまいますのよ」
「!?」
「わたくし……経験はありませんが……」
その言葉とは裏腹に、彼女との距離がさらに近づく。
「淑女の嗜みとして、殿方を元気にするための知識くらいは……」
彼女の吐息が、耳をくすぐる。
「心得ておりますの」
「っ……!」
鼓動が大きく跳ねた。
「嗜みって……」
思わず漏れた声。
だが、彼女は答えない。
「……ほら、少し元気になられましたわ」
小さく笑う気配だけを残し、さらに身を寄せてくる。
(まずい……)
頭ではわかっているのに、身体が言うことをきかない。
俺はたまらず、彼女の背中へと左手を回した。
だが、引き寄せる寸前で、その動きを止める。
「リンウェル……本当にいいのか?」
リンウェルの瞳が、真っすぐに俺を見る。
そこに迷いはなかった。
「ええ。今夜は、わたくしの意思でここにおりますの」
そう告げると、彼女は自ら俺の胸元に身体を預けた。
俺はその意思を受け取り、彼女の背中へと回した腕に力を込める。
密着した瞬間、ふわりと石鹸の香りが鼻をくすぐった。
清潔で、柔らかな香り。
その温もりに触れた途端、胸の奥に溜め込んでいた不安や恐怖が、少しずつ溶けていく。
「……リンウェル」
名を呼ぶと、彼女はわずかに頬を赤らめながら目を閉じた。
その姿を見た俺は、彼女の唇へ自分の唇を重ねる。
重なった唇は、驚くほど柔らかく、温かい。
リンウェルもまた、それを受け入れるように、俺の背へそっと腕を回した。
張り詰めていた心が、彼女の体温に触れ、少しずつほどけていく。
やがて部屋の灯りは消え――
夜は、静かに深まっていった。
翌朝。
俺は広すぎるベッドの上で、一人、目を覚ました。
見慣れた天井。
ここは間違いなく、自分の部屋だ。
だが、隣には誰もいない。
(当たり前か……)
そう思いながら、ゆっくりと身体を起こす。
(……)
昨夜――
俺とリンウェルは、このベッドで一線を越えた。
腕には、彼女を抱き締めたときの温もりが、まだ残っている。
何より心に残っているのは、恥じらいと幸福が入り混じったような、彼女の笑顔だった。
それが、今も鮮明に焼き付いている。
だが――彼女はここにはいない。
昨夜のことを思い返す。
互いに息を整えながら、ベッドに横たわっていたとき。
リンウェルは、そっと俺を抱き締め返してきた。
優しく、だがしっかりと。
そして――
自分から、俺の唇へ唇を重ねてきた。
短く、しかし確かな口づけ。
それが終わると、彼女は静かに身体を離し、ベッドから降りた。
衣服を整えながら、何事もなかったかのように振る舞う。
「朝まで、ここにいてくれないのか?」
我ながらどうしようもないと思うが、そう問いかけていた。
「ミスラ様を差し置いて、朝までここにいるわけにはまいりませんわ」
彼女は淡々とそう答える。
服を着終えると、もう一度だけ――
俺の唇に、自分の唇を重ねた。
そしてそのまま、何も言わずに部屋を出ていった。
(リンウェル……)
あれから数時間しか経っていない。
それなのに、彼女の姿を思い浮かべるだけで、胸の奥が落ち着かなくなる。
これまでとは、明らかに何かが変わってしまった。
俺とリンウェルの関係。
そして、ミスラとの関係も――
コンコン――。
扉を叩く音が、静かな室内に響いた。
「し……失礼します……です」
やや緊張した声と共に入ってきたのは、アリアだった。
視線が落ち着かず、どこかぎこちない。
そして――その背後。
控えるように立つシェリーの存在が、その違和感の理由を雄弁に物語っていた。
「王様……朝ごはん……お持ちしました……です」
まだ慣れきらない丁寧語を、必死に紡ぐアリア。
「あ、ああ……ありがとう」
俺はそう返しながら、自然とその後ろに立つシェリーへ視線を向けた。
「それで……シェリーは、どうしてここに?」
「はい。今朝はよく晴れておりますが、午後からは一雨来るとのことですので」
穏やかな声音。
いつも通りの、どこか余裕を感じさせる口調。
「早いうちに陛下のお部屋を掃除し、シーツも洗ってしまおうと思いまして。よろしいでしょうか?」
(なるほど)
「ああ。そういうことなら」
俺は軽く頷く。
「アリア、邪魔にならないよう、食事はバルコニーで食べるよ」
そう言って、俺は衣裳部屋へと足を向けた。
「わかりました……です」
未だ緊張気味なアリア。
続いて、台車が床を転がる音が静かに響き始める。
(……とりあえず、リンウェルのことは一旦置いておこう)
頭の中に残る余韻を振り払うように、意識を切り替える。
衣服を選び、袖を通す。
いつもと変わらぬ動作のはずなのに、どこか落ち着かない。
――やがて。
着替え終えた俺が衣裳部屋を出ると、視界に入ったのは、バルコニーへと続く開け放たれた扉。
その向こうで、テーブルに朝食を並べるアリアの姿だった。
小さな身体でせっせと動き回り、皿の位置を整えたり、ナプキンを直したりしている。
その姿に、思わず口元が緩みかける。
だが――
「あ……」
思わず声が漏れた。
視線の先。
「……」
そこには、ベッドの脇に立つシェリーがいた。
ちょうどシーツを取り替えようとしていたのだろう。
彼女の手には、先ほどまで俺が寝ていたシーツが広げられている。
そして、その指先には――
シーツに絡みついていた一本の、長い金色の髪が摘ままれていた。
(まずい)
一瞬で血の気が引く。
「あらあら、まあまあ」
ゆっくりと、シェリーの顔がこちらへ向けられる。
「陛下も、なかなか隅に置けないお方でございますね」
満面の笑み。
逃げ場はなかった。
「あ……いや……それは……その……」
言葉を探すが、何一つ見つからない。
完全に詰んでいる。
――そのときだった。
「準備……できました……です」
勢いよく、アリアが部屋へ戻ってくる。
その瞬間。
シェリーの動きは、まさに“洗練”という言葉そのものだった。
金色の髪をシーツごとくるりとまとめ、自然な動作で身体の陰へ隠す。
まるで最初から、何も見つけていなかったかのように。
それをアリアに見せないようにしながら、再び俺へと視線を戻す。
「陛下。僭越ながら、一つアドバイスを」
「ア……アドバイス?」
「なるべくお早めに――ミスラ様へご報告なさることをお勧めいたします」
「……っ!」
俺が息を呑む一方、アリアは意味がわからないのか、小首を傾げていた。
「そうしなければ……リベリオンで“三人目”が生まれてしまいますよ?」
にこやかな笑顔。
だが、その言葉の内容は、まったく笑えない。
このリベリオンで生まれる“三人目”と言えば――
(復讐者……)
「……またまたぁ」
俺は引きつった笑みを浮かべる。
だが――
「王様……ミスラお姉ちゃんに……何かしたの……です?」
アリアがキョトンとした顔で立っている。
「あなたには、まだ早いお話です」
「?」
シェリーが少し振り返り、ぴしゃりと言う。
だが、すぐに再び俺へと視線を向けた。
「陛下」
「は、はい」
「私から申し上げられるのは、女の愛憎を甘く見ない方がよろしいということです」
静かに、しかし確かに重い言葉。
「はい……わかりました……」
俺は、ただ頷くしかなかった。
「へぇ、そうなの」
拍子抜けするほど、あっさりとした返答だった。
朝食を終えたあと。
(何をどう食べたのか、正直覚えていない)
俺はすぐに、ミスラのもとを訪れていた。
彼女はベッドの縁に座り、孤児院へ運ぶ物資の数が記された帳面に目を通している。
こちらを見ようともしない。
(いっそのこと、怒鳴ってくれた方が楽なんだが……)
あまりにも平静すぎて、逆に不気味だった。
「まあ、なんだ……だから……その……リンウェルを……正式に……」
リンウェルと一線を越えてしまった以上、俺は覚悟を決めていた。
いや、決めるしかなかった。
それなのに、言葉はひどく歯切れが悪い。
自分でも情けないと思う。
何より、正妃が怪我で療養している最中に、別の女性と関係を持った自分自身に呆れていた。
「ねぇ、タイシ」
その声が、俺の言葉をすべて遮った。
「はい」
反射的に背筋を伸ばす。
ミスラは、ようやく帳面を見る手を止めた。
そして――
「あなた、今晩、私の部屋に来て、私を抱きなさい」
「え?」
一瞬、言葉の意味を理解できなかった。
「それまでは、あなたと口を聞かないわ」
「……いや、でもミスラは療養中だし……」
「左腕を傷つけただけよ」
「だけって……」
「わかったなら、出ていってちょうだい」
有無を言わせない声だった。
「あ……はい……」
混乱したまま、身体が動く。
扉へと向かう。
その背中に――
「……最後に抱いた女が、私以外のままなんて許さないんだから」
小さく、しかし確かに何かが呟かれた。
振り返ることはできなかった。
その晩のことは――
言葉にするのは、少し野暮だろう。
ただ一つ言えるのは――
あの夜のミスラは、これまで見たことがないほど積極的だった。




