第百二十話 交渉
カワナミ サクラは、イマリとジラール――この領地に所属する二人のサブクラス持ちを伴い、ある扉の前に立っていた。
その扉の先が、地下牢へ続いていることは知っていた。
だが、この地へ来てから一度も足を踏み入れたことはない。
存在こそ知っていたものの、扉を直接見ることすら今日が初めてだった。
サクラは、ゆっくりと扉に手を掛ける。
緊張のためか、扉に触れた手が僅かに震えた。
「やはり、ワシらが縛り上げて、お主の前に連れてこようか?」
イマリが優しくサクラに問いかける。
「ううん。大丈夫……ちゃんとできるよ」
サクラはその提案を断り、大きく息を吸い込むと、扉を開けた。
扉の先には、下へと続く階段が伸びていた。
まだ昼間だというのに、じめじめとした空気に加え、まばらに灯された松明の明かりしかなく、辺りは薄暗い。
どこか不気味な空間だった。
サクラは意を決し、一歩ずつ階段を下り始める。
その後ろに、イマリとジラールが続いた。
「しかしまあ、姫さんがまさか自分から行動するとはな」
ジラールが、この場には似つかわしくない明るい声で言う。
だが、この地下へ漂う不気味な空気を吹き飛ばすような声色に、サクラは救われる思いだった。
「はい。私も、いつまでも人任せにして、被害者のまま立ち止まってはいられないと思ったので」
「……」
普段のサクラからは想像できない力強い言葉に、イマリは先を下りる彼女の背中をじっと見つめた。
「そうか、そうか! いいことだ! 俺はいくらでも協力するぜ!」
ジラールは大きな笑い声を上げながら言った。
「ありがとうございます。ジラールさん」
サクラは軽く振り返り、礼を告げる。
そうこうしているうちに、三人は階段の終着点へと辿り着いた。
そこに広がっていたのは、元の世界で一介の高校生として生きてきたサクラにとって、初めて目にする光景だった。
むき出しの粗い石壁は、表面を伝う結露によってじっとりと濡れている。
階段で感じたものよりも、この地下牢の空気は遥かに冷たく、重かった。
通路の両側に並ぶ太い鉄格子は、囚人たちの自由を噛み砕く獣の牙のように、黒々とした影を床へ落としている。
時折、天井の隙間から染み出した水滴が、不規則な音を立てて床の水溜まりへ落ちる。
その音だけが、静まり返った地下牢に響いていた。
サクラは目の前の光景に、思わず唾を飲み込む。
そして拳を強く握ると、再び“目的地”へ向けて歩き始めた。
幸いなことに、通路の途中に並ぶ牢のほとんどは空だった。
元の世界で見たアニメやドラマのように、鉄格子の向こうから罵声を浴びせられたり、腕を伸ばされたりすることもない。
サクラは内心で胸を撫で下ろしながら、軽くぬかるんだ床に足を取られないよう、一歩ずつ慎重に歩を進めた。
「俺たちに、何か用か?」
ふいに、通路の先にある牢から声がした。
サクラは足を止め、声のした方へ顔を向ける。
やがて、その牢の前へと辿り着いた。
そこには一人の男が、床に敷かれた藁の寝床へ横たわりながら、こちらを見ていた。
上半身には何も身につけておらず、傷を覆うように何重もの包帯が巻かれている。
「まさか、領主殿直々に来るとはな」
今度は、別の声が響いた。
サクラは、横たわる男の隣にある牢へと視線を送る。
別の男が一人、藁を敷いた寝床の上であぐらをかき、背筋を伸ばして座っていた。
「随分快適そうじゃねぇか! オスワルド」
ジラールが、あぐらをかいて座る男へ向けて声を掛ける。
「……」
オスワルドは答えなかった。
「お主も、回復は順調そうで何よりじゃ。レオンよ」
「へっ。誰がつけた傷だよ」
悪戯っぽく笑うイマリに対し、レオンは苦虫を噛み潰したような顔を向ける。
そんな光景を前にしても、サクラの手は震えていた。
これから行う交渉は、八番領地の未来を決めると言っても過言ではない。
「んで? 随分と可愛らしい領主様が、俺たちに何の用だ?」
レオンの鋭い視線が、サクラへ向けられる。
それは、獲物を値踏みするような目だった。
戦場に身を置き、幾度も死線をくぐり抜けてきた者の目だ。
「……はい」
サクラは、ここでもう一度深く息を吸い込んだ。
「今日は、お二人にお願いがあって来ました」
声には震えがあった。
怖くないわけではない。
それでも――その言葉に迷いはなかった。
美しくも力強い声が、静まり返った地下牢へ響く。
「あん? お願い?」
「……」
レオンは首を傾げ、オスワルドは反応を示さない。
サクラは言葉を続けた。
「はい。どうか、私たちに力を貸してください」
そう言うと、彼女は深く頭を下げた。
「!?」
レオンが目を丸くする。
「力を貸せというのは、我々の……九番領地攻略に、ということか?」
オスワルドが静かに口を開いた。
その目は真っすぐに、サクラを見据えている。
「はい」
サクラは顔を上げ、決意に満ちた瞳でその視線を正面から受け止めた。
「ははっ……」
「はっはっはっは!」
隣の牢から、大きな笑い声が上がる。
「お前はバカなのか? 九番領地攻略に力を貸せだ?
それを九番領地の――仮にも騎士である俺たちに頼むのか?
わざわざ頭まで下げて……。
バカじゃなければ、とんだ愚か者だな」
レオンの容赦のない言葉に、サクラは思わず一歩後ずさる。
だが――
「レオンよ……」
イマリが、その背中にそっと手を添えて支えた。
「言葉には気をつけるのじゃな」
サクラの背を支えていた手を、後ろ腰に携えた長刀へと移す。
次の瞬間、イマリは長刀を一気に引き抜き、鉄格子の隙間から、その剣先をレオンへ向けた。
「チッ」
レオンは舌打ちを漏らすと、顔を歪めてイマリを睨みつける。
「それに、お主……遅かれ早かれ、あの地を離れるつもりじゃったろ」
「……なんで、そう思う?」
イマリの言葉に、レオンは表情を変えることなく聞き返した。
「なんとなくじゃ」
イマリはそっけなく答えると、レオンへ向けていた長刀を引き、後ろ腰に携えた鞘へと納めた。
「……」
地下牢は、再び沈黙に包まれた。
天井の隙間から染み出した水滴が床へ落ちる音だけが、辺りを支配していた。
「私は……」
そんな沈黙を打ち破ったのは、サクラだった。
「私は……ここに来てからずっと、逃げてきました」
サクラは、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「でも、私の周りの人たち……イマリちゃんも、ジラールさんも、領民の皆さんも……みんな、この島の“理不尽”と戦っている」
サクラの拳に、強く力が込められる。
「私も……この島の理不尽から、もう逃げたくない!
領主であることからも、逃げたくない!
もう、あんな思いはしたくないんです!」
サクラの声は、次第に大きくなっていた。
その脳裏に浮かんでいるのは、アサヒナ カエデの姿か。
それとも、自分をリベリオンへ逃がすため、盾となって命を落とした兵士たちの姿か。
それは、サクラにしかわからなかった。
「そのためなら、頭なんていくらでも下げます!」
そう言い切ると、サクラは涙の溜まった瞳でレオンを見る。
「……」
レオンは、その視線を真っすぐに受け止めた。
その表情には、先ほどまで浮かんでいた小馬鹿にするような笑みはない。
そして――
「……へぇ」
レオンは興味深そうな笑みを浮かべ、サクラを見つめていた。
再び、地下牢に沈黙が広がる。
決意の眼差しを向けるサクラ。
そのサクラを、興味深そうに見つめるレオン。
腕を組み、考え込むように目を閉じるジラール。
そして、一歩を踏み出した主を心配そうに見守るイマリ。
それぞれの思いが、薄暗く湿った地下牢の中で交差していた。
「一つ、条件がある」
ふいに、声が響く。
その声は、サクラを興味深そうに見つめるレオンから発せられたものではなかった。
「!? おい、オスワルド! てめぇ!」
レオンが、隣の牢へ向かって叫ぶ。
「なんだ、レオン? お前にも、そこのイマリが言ったような“考え”があるのだろう?
それと同じで、俺にも考えがある」
「ッ!」
オスワルドはレオンを軽くいなすと、その鋭い目をサクラへ向けた。
サクラはその視線を正面から受け止めると、身体ごとオスワルドへ向き直る。
「聞かせてください」
サクラの返事を受け、オスワルドがゆっくりと口を開く。
「お前たちに協力する条件は、一つだ」
一度言葉を切り、オスワルドはサクラの目を見据えた。
「九番領地を落とした暁には、俺をリベリオンの領民にしてもらいたい」
「え?」
その場にいる全員が、驚きに目を見開いた。
「お前は、リベリオンの王と同盟を結んでいるのだろう?
領民の所属領地を変更するには、移籍元と移籍先、双方の領主の承認が必要だ。
不可能な条件ではないだろう」
「そうですが……それは、タイシ君にも聞いてみないと……」
先ほどまでの力強さが消え、サクラの声が急に頼りなくなる。
「そうだな。
ならば、リベリオンの王に会わせてくれ。
直接交渉する」
「……」
サクラはどうしたものかと、イマリとジラールへ視線を向ける。
二人も、驚いた表情を浮かべていた。
だが、最初にイマリが、続いてジラールがゆっくりと頷く。
「わかりました……手紙を書きます。少しだけ待っていてください」
「わかった。望みが叶ったならば、俺はお前たちに全力で協力しよう」
オスワルドは、サクラの申し出に正面から答え、条件が叶った場合の協力を約束した。
交渉が大きく前進したことで、サクラの気持ちは少しだけ軽くなる。
「それで、お前はどうすんだよ。レオン」
ジラールが、今度はレオンへ畳みかける。
「……」
レオンは答えなかった。
「そいじゃ、邪魔になるだけだし、殺しちまうか」
ジラールが、無慈悲な宣告を口にする。
「ちょ……ジラールさん!」
サクラは慌てふためいた。
「ったく。わーったよ!」
そんなサクラを止めたのは、レオンの声だった。
「オスワルドが九番領地から抜けるなら、こっちの優位は崩れる。
そこへリベリオンまで加わってきたら、俺たちは終わりだ」
レオンは寝転んでいた身体を起こすと、オスワルドと同じようにあぐらをかいた。
「お前たちに協力してやる」
「本当ですか!?」
サクラが、食い入るように聞き返す。
「ああ。本当だ」
レオンは、はっきりと答えた。
「それに……お前にも興味が湧いたしな」
「え?」
サクラの動きが止まる。
「レオンよ」
サクラの横で、イマリが再び鞘から長刀を引き抜いた。
「姫に指一本でも触れようものなら……」
剣先が、またしてもレオンへ向けられる。
「その下半身にある粗末なものを、輪切りにしてやるでのう」
これまでで最も鋭いイマリの視線が、レオンへ突き刺さった。
「いや……そういう意味じゃねぇよ……」
レオンの呆れ切った声が、湿った地下牢の奥まで虚しく響いていく。
先ほどまで張り詰めていた空気が僅かに緩み、サクラは胸の奥で、ようやく小さく息を吐いた。




