第百十八話 憎しみはもういらない
『憎しみはどこだ』
頭の中に、低い声が響く。
『憎しみはどこへやった』
胸が苦しい。
『我の糧がないのなら』
両手が熱い。
『お前を喰おう』
少女の頭の中で、その声が何度も繰り返し響いていた。
両手には、紫色のオーラを放つ一対の短剣。
気のせいだろうか。
その輝きは、いつもよりも増しているように見える。
目の前にいるのは、十人にも満たない敵。
その誰もが、大した実力を持たない寄せ集めの兵士だった。
鍛錬を積んだ少女の敵ではない。
少女の名は、リリィ・オルテリア。
リベリオン王直属のメイドであり、姉を奪われた恨みによってリベンジャー武器を手にした“復讐者”でもあった。
しかし、リリィを復讐へと駆り立てていた憎しみは、リベリオンの心優しい仲間たちとの生活の中で、既に失われていた。
少女は、両手に持つ短剣を無造作に振るう。
まるで、頭の中で響き続ける声を振り払うように。
一人。
また一人と。
敵の意識を刈り取っていく。
だが、何も変わらない。
胸がひどく苦しい。
両手が焼けるように熱い。
意識が、深い闇へ飲み込まれそうになる。
それでも、少女は短剣を振るうことをやめなかった。
これは、リリィにとって初めての任務だった。
自分を信じ、送り出してくれた主人。
そして、ここまで共に来てくれた仲間たち。
沈みゆく意識の中にも、皆の顔が浮かんでいたからだ。
少女の額には、尋常ではない量の汗が滲んでいた。
『寄越せ』
(いやだ)
『なぜ拒絶する』
(いやなものはいや)
『我がお前の代わりに』
(私には必要ない)
『復讐してやろう』
(やめて!)
抗えば抗うほど、胸の苦しさが増していく。
武器が放つ紫色の光も、次第に濃くなっていった。
気づけば、目の前に立っている敵は、残り二人だけになっていた。
少女は薄れゆく意識の中で、辺りを見回す。
いつも怒ってくる、シェリー。
訓練に付き合ってくれる、イリス。
そして、“姉”のように接してくれる、ミスラ。
一緒にここまで来た仲間たちが、今も戦い続けていた。
(みんな……)
あれほど熱かった両手の感覚が、急速に遠のいていく。
(ごめんなさい)
胸の苦しささえ、もう感じられなくなりつつあった。
(もう……)
視界が滲む。
仲間たちの姿も、少しずつ遠ざかっていく。
(ダメみたい……)
(みんな、ごめんなさい)
紫色の光が、少女の身体を包み込む。
(お姉ちゃん……)
遠ざかる意識の中、亡き姉へ想いを馳せる。
そして――
「うわああああああああああああああああああ!」
意識を失う寸前、少女の絶叫が領主の間へ響き渡った。
「リリィ!!」
ミスラは、その光景を前に叫んでいた。
隣にいるイリスも、驚愕の表情を浮かべている。
目の前でうずくまるイシダには目もくれず、二人は石床を蹴り、リリィのもとへ駆け出した。
しかし、動き出したのは二人だけではなかった。
リリィの前に残っていた二人の敵もまた、今が好機とばかりに彼女へ襲いかかる。
「チッ!」
イリスは舌打ちすると、駆ける方向を変えた。
リリィに襲いかかろうとする二人のもとへ。
最初にリリィへ辿り着いたのは、ミスラだった。
明らかにミスラよりもリリィの近くにいた敵二人よりも先に、彼女はリリィの前へと到達していた。
二人の敵は、突如として自分たちの前へ現れたミスラに目を見開く。
だが、その目的は変わらない。
むしろ好都合とばかりに、黒いフードの奥で笑みを浮かべた。
だが――
突如、二人の間を鋭い風が吹き抜けた。
次の瞬間、銀色の双剣が閃く。
「ガッ……」
「ウッ……」
二人の身体から、鮮やかな血飛沫が上がった。
「させるわけがないだろう」
その声に、二人は風が吹き抜けていった先へと視線を向ける。
そこには、両手に剣を携えた騎士が一人立っていた。
その光景を最後に、二人は石床へと崩れ落ちた。
「リリィ! リリィ!」
ミスラは瞳に涙を浮かべながら、少女の名を叫んでいた。
(私のせいだ……)
「リリィ!」
(私が連れてきたから……)
ミスラは、リリィを包む紫色の光へ腕を差し入れた。
「ッ!!」
だが、リリィへ触れることはできなかった。
紫色の光に腕が触れた瞬間、鋭い痛みと共に、ミスラの皮膚へ無数の浅い傷が走る。
先ほどイシダに負わされた左腕の傷からも、再び血が流れ始めた。
(どうすれば……)
リリィを目の前にしながら、触れることすらできない。
ミスラは、どうすることもできずに立ち尽くした。
「殿下! 武器を! リリィの武器を手から離してください!」
今度はイリスが声を上げ、リリィの持つ短剣へ手を伸ばした。
「クッ!」
紫色の光は、身につけているガントレットすらものともせず、イリスの手を容赦なく切り裂いていく。
金属の隙間から、赤い血が滲み出した。
それでも、イリスは手を引こうとはしなかった。
「もう少し……!」
イリスの手が、あと少しでリリィの握る短剣へ届く。
だが――
「うわああああっ!」
絶叫と共に、イリスの身体が後方へ弾き飛ばされた。
「イリス!」
ミスラが咄嗟にその身体を受け止める。
肩越しに見えたイリスの手は、火傷を負ったように赤く腫れ、ガントレットの隙間から血を滲ませていた。
「この光は……武器から放たれています……」
肩で息をしながら、イリスは途切れ途切れに言葉を続ける。
「きっと……武器をリリィの手から離せば、一旦は落ち着くはずです」
「分かったわ」
ミスラに迷いはなかった。
彼女はゆっくりと、イリスを支えていた腕を離す。
そして、うずくまるリリィの正面へ移動した。
「リリィ……ごめんなさい」
ミスラは、紫色の光に包まれる少女へ優しく語りかける。
「私が連れてきたからよね」
その声は、涙に震えていた。
「辛かったよね」
ミスラは視線を落とす。
「苦しかったよね」
両の拳が、強く握り締められた。
「でも!」
ミスラは再び顔を上げ、リリィを真っすぐ見つめる。
「絶対に助けるから!」
そう叫ぶと、ミスラは覚悟を決めた。
そして、両腕をリリィを包む紫色の光の中へ、勢いよく差し入れた。
同じ頃、領主の間の片隅では――
「何が起きているのか分かりませんが、今のうちに逃げましょう」
「う……うぅ……痛い……痛いよ……」
左肩から先を失ったイシダ タクミは、傍らにいる配下の男に抱きかかえられるようにして立っていた。
その視線は、紫色の光に包まれるリリィと、彼女を救おうとするミスラたちへ向けられている。
「大丈夫です。ここから離れ、すぐに止血します」
配下の男は、動揺するイシダを励ますように言った。
「う……うん……早く……行――ッ!」
子供のように泣きながら頷いたイシダの言葉が、不自然に途切れた。
突然、胸の奥へ冷たい異物が入り込む。
遅れて、焼けるような激痛が全身を駆け巡った。
「ッ……!」
イシダは恐る恐る、自らの胸元へ視線を落とす。
「なん……だ……これ……」
イシダの口から、震える声が漏れる。
彼を抱きかかえていた男の顔も、驚愕に染まった。
「グハッ!」
イシダの口から、大量の血が吐き出される。
その胸元には、禍々しい紫色のオーラを放つ鋭い短剣の刃が突き出ていた。
「あなたは逃がしませんよ」
背後から、冷たい声が響く。
そこには、紫色のオーラをまとった短剣をイシダの背中へ突き刺すシェリーが立っていた。
「あ……あ……」
イシダの口から、言葉にならない声が漏れる。
シェリーが短剣を引き抜くと、イシダの身体は糸が切れた人形のように前へ倒れ込んだ。
石床へ広がっていく赤い血。
十六番領地領主、イシダ タクミ。
歪んだ愛だけを抱いて突き進んだ男は、自らが支配してきた領主の間で、静かに息絶えた。




