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第百十七話 穿つ水

ミスラは、左腕へ視線を落とした。


傷口から流れ出た血が、ぽたり、ぽたりと床へ落ちている。


幸い、傷は浅い。


槍を握る左手にも、まだ支障はなかった。


この傷をつけたのは、目の前に立つ男だった。


ミスラが槍で心臓を貫こうとした時、男は確かに恐怖で顔を歪めていた。


だが今は、その表情をうかがい知ることができない。


彼の手から放たれた邪悪な紫色の光がその身を包み込み、気づけば禍々しい甲冑に全身を覆われていたからだ。


ミスラは辺りを見渡す。


そこには、未だ戦いを続ける者たちの姿があった。


シェリーは流れるような立ち回りで次々と敵を戦闘不能にし、リリィもなんとか戦い続けている。


隣で戦うイリスに至っては、相手がサブクラス持ちだというのに、既に手傷を負わせていた。



(ったく。しっかりしなきゃ)



ミスラは、再び目の前の鎧男へと視線を戻す。



『領主は戦えない』



いや、正確には――



『ステータスの恩恵を受けづらい』



そう思っていた。


ミスラがそう考えるのも無理はない。


身近な領主であるタイシは訓練を続けているが、正直なところ、まだステータス持ち同士の戦いに介入できるほどの実力はない。


それどころか、ステータスの恩恵を受けない以上、サブクラスを持たない一般領民にすら、筋力では及ばなかった。


その先入観から、目の前の男も同じだと過信していたのだ。


しかし、この男――十六番領地の領主、イシダ タクミは、今まさにミスラの左腕を切りつけた。


その手に握られた、“オディウム”の名を冠する武器によって。


シェリーやリリィの物と同じく、“復讐者”のみが扱える特殊な武器だった。



「ああ。なんて美しい」



イシダは、ミスラを見ていなかった。



「なんて美しい武器なんだ。


 きっとこれも、僕のカエデへの想いが“神”に届いたんだ。


 “神”が……カエデを取り戻せと言っている」



甲冑に覆われているため、イシダの表情を見ることはできない。


だが、その下で歪んだ笑みを浮かべていることは、容易に想像できた。


ミスラは不快感を隠すことなく、その視線をイシダへ向ける。



(冷静にならなくちゃ)



不意を突かれ、手傷は負った。


だが、イシダ本人の戦闘能力は高くない。


むしろ技術も何もなく、子供が棒切れを振り回している程度の実力しかなかった。


容易に勝てる相手だ。


問題は、イシダ自身の強さではない。


気になるのは――



(左手のあれね)



ミスラの視線の先。


そこには、右手に持つロングソードと同じように、禍々しい紫色のオーラをまとったイシダの左手があった。



(試してみるしか……ないようね)



ミスラはそう考えると、二本の槍を構える。


次の瞬間――


床を思い切り蹴り、イシダへ向かって突進した。


当のイシダは、未だに右手のロングソードへ見惚れている。


そこへ、ミスラの右手に握られた長槍が迫る。


綺麗な水色のオーラをまとった長槍が、イシダを捉えようとした、その時だった。



「!?」



イシダの左手を覆っていた紫色のオーラが急激に伸び、ミスラの槍を包み込むように受け止めた。



「ん?」



そこで、ようやくイシダはミスラへ顔を向ける。


しかし、ミスラはそんなことなどお構いなしに、攻撃を次の段階へと移した。


今度は左手に持つ短槍が、イシダを襲う。


しかし――



「チッ!」



その短槍もまた、紫色のオーラに受け止められてしまった。



「無駄だよ」



そう言うと、イシダは右手に持つ剣をミスラ目掛けて振るう。


遅い。


本当に遅い。


まるで、子供のチャンバラのようだった。


ミスラはその剣を軽々と後ろへ跳んで躱すと、イシダとの距離を取った。



(なるほどね)



距離を取ったミスラは、両手に持つ槍の構えを解く。



(あの左手のオーラは、“盾”ってことね)



この世界でロングソードと言えば、ソルジャークラスが装備できる武器だった。


そして、ロングソードは必ず盾と一対で扱われる。


イシダの持つリベンジャー武器も、例外ではなかったということだ。


ただ、自分たちの知る“盾の形”をしていないだけだった。



(あいつの攻撃自体は問題ない。でも、あの盾をなんとかしないと倒せない)



ミスラはそう考えながら、両手に持つ二本の槍へと目を移す。



(あれ……やってみるしかないか)



その脳裏に浮かんだのは、竜血四侯であるハシグチ ワカナが、同じ竜血四侯であるアダチ リュウヤに手傷を負わせた、あの攻撃だった。



『どれほど猛ろうと、水底の静寂は揺るがない』



ワカナの言葉を思い返す。


あの日、ミスラはこの武器の本質に一歩近づいていた。


この武器は、その周囲に存在する水分を操ることができる。


それに気づいた時、ミスラは周囲の水分を集め、槍の矛先から伸びる一本の鞭として武器にした。


だが、ワカナは違った。


彼女は、水分そのものを武器にした。


ミスラには、その理屈が理解できなかった。


少なくとも、あの日までは。



『人の体の約六十%は、水分でできてるらしいんだ』



タイシが教えてくれた情報。


自分たちの世界では決して知り得なかった、タイシたちのいた世界の進んだ文明が導き出した答え。


初めは信じられなかった。


だが、そう言われれば、ワカナのあの攻撃にも納得がいった。


あの時、ワカナが操っていたのは空気中の水分ではない。


リュウヤの身体を構成している水分そのものだったのだ。



(集中……集中よ、ミスラ)



ミスラは自分に言い聞かせながら、ゆっくりと槍を構え直した。


イシダは、その間もまったく動こうとはしなかった。


未だ愉悦に浸っているのか。


それとも、自らの武器の能力を理解し、その場にとどまっているのか。


どちらにせよ、ミスラには好都合だった。


練習を重ねてきた“それ”を、実戦で初めて試せるのだから。


ミスラは大きく息を吸い込む。


意識を槍へ。


いや、その先にいるイシダへ。


正確には、イシダの左腕を巡っているはずの水分へと集中させる。


そして――


床が弾けた。


再び、ミスラが突進する。



「またかい? 無駄だって言ってるのに」



イシダが面倒くさそうに呟き、その左手を軽く上げた。


ミスラは、その左手に狙いを定める。


突き出された右手の長槍。


槍全体を包む水色のオーラが、微かにその色を濃くしていく。



「はあああああああ!」



ミスラの雄叫び。


普段の彼女からは想像もつかない、力強い声だった。


槍の矛先が、イシダの左手を覆う紫色のオーラとぶつかる。


しかし――



「ほら、無駄でしょ」



イシダの軽口。


視線の先では、またしても紫色のオーラがミスラの槍を受け止めていた。


ミスラの槍は、確かに紫色の盾に阻まれている。


だが、今回の狙いは、初めから盾ではなかった。


その向こう側。


イシダの左肩を巡る水分。


ミスラは槍を通してその存在を捉えると、意識を一点へと集中させた。


次の瞬間――


イシダの左肩の内側で、水分が鋭い刃となって弾けた。



ザシュッ!



「え?」



イシダの口から、間の抜けた声が漏れる。


直後――



「うわああああああああああああ!」



その声は悲鳴となって、領主の間全体へ響き渡った。


鮮やかな血飛沫が、噴水のように宙を舞う。


イシダの左肩から、大量の血が噴き出していた。



「痛い痛い痛い痛い痛い痛い!」



左肩を押さえ、その場にうずくまるイシダ。


戦いを続けていた者たちの視線が、一斉に彼へと向けられた。



「はぁ……はぁ……」



その前には、額に汗を滲ませ、肩で息をするミスラの姿があった。



「タクミ様!!」



イシダのもとへ、両手に短剣を持った男が駆け寄る。



「殿下!!」



ミスラのもとへも、イリスが駆け寄ってきた。



「大丈夫ですか?」



肩で息をするミスラへ、イリスが心配そうに尋ねる。



「ええ。大丈夫。さあ、終わらせましょう」



そう言って、ミスラは左手に持つ短槍をイシダへ向ける。


イリスもまた、手にした双剣を構えた。


誰もが、これで終わりだと思った。


その時だった。



「うわああああああああああああああああああ!」



「!?」



先ほどのイシダと同じ、苦痛に満ちた悲鳴が領主の間を駆け巡った。


だが、その声には明らかな違いがあった。


女性――いや、少女の悲鳴だった。


そして、その声には、ミスラもイリスも聞き覚えがあった。



「ッ!」



ミスラとイリスは、弾かれたように右を向く。



「リリィ!!」



二人の口から、無意識にその名が叫ばれた。


彼女たちの視線の先。


そこには、紫色のオーラに覆われながら、胸を押さえて苦悶するリリィの姿があった。


まるで、その身体の内側から何かに蝕まれているかのように。


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