第百十三話 アリアの弱点
アリアの額には、焦りからか汗が滲み、口の中には、カリーナに吹き飛ばされた際に吐き出した血の味が広がっていた。
勝ち筋だったゾーイとの連携は絶たれ、今はもう、目の前にいる大男――オスワルドの大剣による一撃を、なんとか防ぐことしかできない。
(まずい……です)
このままでは、任務はおろか、自分とゾーイの命すら危うかった。
アリアとゾーイに与えられた任務。
それは、武力的な障害となり得るオスワルド・サネを撤退させること。
最初はうまくいっていた。
冷静だったアリアは、ゾーイとの連携によって、確実にオスワルドを一歩ずつ追い込んでいた。
だが、情報にはなかった、新たな九番領地のサブクラス持ちの出現。
本来ならば自領を守護しているはずだったその女は、今、目の前に現れ、ゾーイに襲い掛かっていた。
アリアは横目でゾーイを見る。
ゾーイは短剣を流れるように振るうカリーナを相手に悪戦苦闘し、立派なフルプレートアーマーの隙間から血を流していた。
カリーナは、アリアとゾーイがオスワルドに対して用いていた戦法を、たった一人でゾーイへ仕掛けている。
アリアの洞察力は、セルフィード王国の外れにある山の中で、自給自足の生活を送っていた頃に身につけたものだった。
物心がついた頃には、アリアのそばに両親はいなかった。
生きていくために、必死で獣を狩り、食べられる草木を見分け、危険から身を守ってきた。
その甲斐あって身についた洞察力だったが、それは目の前の獲物や敵を観察し、生き延びるために磨かれたものにすぎない。
戦場全体を見渡し、自分の間合いの外で起きる変化まで読み切れるものではなかった。
ましてや、今のように予想外の出来事によって呼吸を乱された状態では――
今のアリアは、戦場を支配する策士ではない。
仲間を守ろうと必死になる、一人の勇敢な少女にすぎなかった。
「どうした? 防戦一方か? 動きすら硬くなっているぞ」
目の前で大剣を振るうオスワルドが、余裕を感じさせる声音で言う。
「まだ……これから……です」
アリアは強がった。
それしかできなかった。
山で狩りをしていた時もそうだ。
失敗しても、恐怖に呑み込まれそうになっても、自分を鼓舞するために強がってきた。
それと同じだった。
オスワルドが上段から振り下ろした一撃をいなし、反撃へ転じる。
アリアは身体を回転させ、その勢いのまま大剣を横薙ぎに振るった。
しかしオスワルドは、いなされて沈んだ大剣を強引に切り返し、アリアの一撃を弾き返す。
二本の大剣が激突し、腹の底まで震わせるような鈍い音が響いた。
そして、アリアの身体は勢いよく吹き飛ばされた。
何度も地面を転がる。
それでも、辛うじて手にしていた大剣だけは離さなかった。
だが、ぶつかった衝撃は凄まじく、両手は痺れきっている。
地面を転がった拍子に、アリアの装備の隙間から、細い鎖に繋がれた筒状の飾りが覗いた。
それを目にした瞬間、追撃しようとしていたオスワルドの動きが止まる。
体勢を崩したアリア。
その隙をオスワルドが見逃すはずはなかった。
(追撃が……来る……です)
アリアは咄嗟にそう思い、身体を強引に起こした。
痺れた両手で大剣を握り直し、正面へ構える。
「!?」
しかし、オスワルドとの距離は、アリアが吹き飛ばされて離れたままだった。
彼は追撃するどころか、その場から一歩も動いていない。
ただ、アリアの胸元から覗く飾りを、食い入るように見つめていた。
「なんで……です?」
思わず呟くアリア。
しかし、オスワルドはその言葉には答えなかった。
二人の間に、沈黙という名の時間が流れる。
そう遠くない場所では、ゾーイとカリーナが戦う轟音が響いていた。
「お前は……両親のことを覚えているのか?」
唐突にオスワルドが尋ねる。
「?」
アリアはその真意を汲み取れず、ただ首を傾げることしかできなかった。
「どうなんだ?」
アリアの困惑を無視し、オスワルドは言葉を続けた。
「覚えていない……です。ただ……手紙、あった……です」
「手紙?」
「はい……です。この中に……です」
そう言うと、アリアは警戒しながら、自分が身につけている装備の隙間から胸元へと手を入れた。
そして取り出したのは、細い鎖の先に筒状のロケットが付いたネックレスだった。
「これ……気づいた時には……つけてた……です」
「その中に、手紙が?」
「はい……です。私……字、読めないです。元王様が……読んでくれました……です」
「元王様?」
今はもう構えすら解いているオスワルドが、怪訝そうに首を傾げる。
「はい……です。リオデルカ様……です」
「なるほどな。お前が手紙の内容を知ったのは、この島に来てからか」
オスワルドは確認するように呟き、さらに尋ねた。
「それで、手紙にはなんと書かれていた?」
「……」
なぜオスワルドがそこまで気にしているのか、アリアには分からなかった。
それに、今の彼がアリアを見る目は、敵を見るものではない。
「お父さんと……お母さんから……です。一人にして……ごめん……って……です」
「それだけか? その父親と母親の名前は書かれていなかったのか?」
「……」
食い入るような視線を向け、矢継ぎ早に尋ねてくるオスワルドに、アリアは混乱していた。
もはや、完全に自分の呼吸を失っている。
今、目の前の男に踏み込まれれば、一撃で倒されるだろう。
だが、オスワルドはそれをしない。
アリアには、何が起きているのかまるで分からなかった。
「答えろ」
オスワルドは、静かに促す。
「お父さんは……アムル……お母さんは……フォーリア……です」
「!」
アリアの口からその名が告げられた瞬間、オスワルドの目が大きく見開かれた。
それが驚愕の表情であることなど、今のアリアには分からない。
見開かれたオスワルドの目は、自分を獲物として見定める獣のものにしか見えなかった。
アリアは咄嗟に大剣を構える。
しかし、それでもオスワルドは動かなかった。
再び、二人の間を沈黙が覆う。
やがてオスワルドは静かに目を伏せると、大剣を地面へ突き刺し、腕を組んで考え込んでしまった。
目の前の状況が理解できず、アリアは困惑する。
完全な隙。
いや、罠かもしれない。
いくつもの考えが目まぐるしく頭の中を駆け巡り、アリアは動けずにいた。
「そうか……礼を言う」
オスワルドは、ゆっくりと組んでいた腕を解くと、真っすぐアリアを見つめて言った。
そして、大剣に手をかける。
地面から引き抜くと、一歩、また一歩と歩みを進めていった。
身構えるアリア。
「!?」
しかし、オスワルドの進む先を見て、アリアは目を見開いた。
彼の足先は、アリアの方を向いていなかった。
その歩みを、目で追うことしかできない。
オスワルドが進む先。
そこにあるのは――
ゾーイとカリーナの激戦地だった。
(まずい……です)
アリアはそう思った。
オスワルドは、自分との戦いを切り上げ、先に傷ついたゾーイを仕留めるつもりなのだ。
そう気づいた時には、アリアは地面を蹴っていた。
視線の先には、膝をつきながらも盾を構えるゾーイ。
それを嘲笑いながら、今まさにとどめの一撃を放つため、空中へ飛び上がったカリーナ。
そして――
ゾーイのすぐ近くまで辿り着き、大剣を横薙ぎに振るうべく腰を落とすオスワルド。
その姿は、アリアの目にはゆっくりと映った。
(間に合わない……)
アリアの脳裏に、最悪の光景が広がる。
気づけば、その視界は涙で滲んでいた。
自分の痛みや孤独のためではない。
誰かを失うことが怖くて涙を流しそうになったのは、これが初めてだった。
ゾーイへ向かって振り下ろされる、カリーナの短剣。
ゾーイの苦悶に満ちた表情。
届かない。
声も、手も、大剣も。
今のアリアには、何一つ届かない。
カリーナの短剣が、ゾーイを捉えようとした、その時――
ギィンッ!
甲高い音が、辺り一帯に響き渡った。
「!?」
その光景を目にしたアリアが、大きく目を見開く。
いや、アリアだけではない。
ゾーイも、そしてその音の発生源の一人であるカリーナも同じだった。
カリーナの短剣を受け止めていたのは――
オスワルドの大剣だった。
「……一体全体、何しやがるんです?」
カリーナは、今まで愉悦に浸っていた目を鋭いものへと変え、オスワルドを睨みつける。
「……終わりだ、カリーナ。お前は退け」
オスワルドは、冷たく、静かに言い放った。
その声は、今までになく重く感じられた。
「何を言ってやがるん――ッ!」
カリーナは言いかけた言葉を止め、後方へ大きく飛んだ。
身を引いたのは、カリーナだけではない。
オスワルドもまた、その場から飛び退いていた。
次の瞬間――
二人が立っていた場所へ、無数の矢が突き刺さる。
もしその場に残っていたならば、全身を串刺しにされていただろう。
さらに、地面へ突き刺さるはずだった矢の群れが、まるで意思を持つかのように空中で軌道を変える。
後方へ飛んだカリーナを追い、再び襲い掛かった。
「チッ!」
カリーナは舌打ちし、さらに後ろへと飛び退く。
傷つき、膝をついたまま動けずにいるゾーイの前へ、一人の男が舞い降りた。
「おうおう、オスワルドに……それと、誰だ? お前は?」
ゾーイの前へ降り立った男が、威勢のいい声で言う。
「そいつ……九番領地の……サブクラス持ち……知らないの……?」
アリアの背後から声がした。
その声にビクリと身体を震わせ、アリアは勢いよく振り返る。
「……セシル……お姉ちゃん」
視線の先に立つ人影を見た瞬間、張り詰めていたものが切れた。
アリアの瞳に溜まっていた涙が、頬を伝って零れ落ちる。
「遅くなって悪かったな! 娘っ子ども! ここからは、このジラール様も参戦させてもらうぜ!」
ゾーイの目の前に立つ男から、豪快な声が放たれる。
その声は、夜の街にどこまでも響いていく。
だが、その響きの奥には――
なぜか、微かな空虚さが滲んでいた。




