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第百十二話 リリィの異変

四人が進んでいた十六番領地の用水路は、月明かりに照らされた領主邸の裏庭にある井戸へと続いていた。



「裏庭の見張りは二人。どちらも私一人で対処できますが、いかがいたしましょう?」



井戸に吊るされたロープを難なく上り、裏庭の様子を確認して戻ってきたシェリーが言う。



「裏庭に上がったら、制圧した二人を隠せそうなところはありそう?」



ミスラが尋ねる。



「はい。裏庭はさほど手入れされておらず、生垣がいい目隠しになります」



シェリーは、先ほど確認した裏庭の様子を淡々と伝えた。


その言葉を聞き、ミスラとイリスは顔を見合わせ、何かを示し合わせるように頷く。


ミスラが続いてリリィへ目を向けると、彼女は黙ったまま俯いていた。



(緊張してるのかしら?)



「シェリー、じゃあお願い。裏庭を制圧して」



「承知しました。では、制圧が完了しましたら合図いたしますので、お越しください」



そう言うと、シェリーは先ほど降りてきたロープを再び上り始める。



「まったく。シェリー殿には本当に驚かされますね」



イリスが、吊るされたロープを難なく上っていくシェリーを見上げながら言う。



「このロープの上り下りなど、私なら一度で音を上げそうです」



「そうね。でも、彼女がいてくれて助かったわ」



イリスにつられてシェリーを見上げながら、ミスラも苦笑交じりに答えた。


やがて、シェリーは井戸の上部へ辿り着くと、その縁へと飛び移る。


見上げるミスラとイリスにも、緊張が走った。


そして――


それはまるで、張り詰めた弓から放たれた矢のようだった。


井戸の縁に指をかけ、全身の筋肉を一瞬だけ張り詰めさせたシェリーの体が、次の瞬間には爆発的な勢いで地上の闇へと飛び出した。


見上げるミスラとイリスの視界には、シェリーが蹴った井戸の壁から剥がれ落ちた泥と、彼女の残像だけが取り残される。


網膜に焼き付いたその影も、一瞬にしてかき消えた。


シェリーは消えた。


まるで最初からそこに誰もいなかったかのように、ミスラとイリスの頭上には、丸く切り取られた月明かりの空だけが広がっていた。


二人は耳を澄ませる。


しかし、何も聞こえない。


上で何が行われているのか、知る由もなかった。


時間だけが過ぎていく。


井戸の底に響くのは、用水路を流れる水の音だけだった。



(大丈夫かしら……)



ミスラがそう思った時だった。



「殿下!」



ふいにイリスが、ミスラを庇うように肩口を軽く押し、後ろへ下がらせる。



「上で、誰かが近づく気配がします」



彼女は声を潜めてそう告げると、用水路の奥へ身を隠した。


そして、ほんの少しだけ顔を傾け、月光が差し込む円形の井戸の縁を斜め下から見上げる。


ミスラも同じように身を寄せ、上を見つめた。


しばらくして――


井戸の縁から、人影が顔だけを覗かせる。


逆光のせいで、二人はその影が誰なのかを認識するまでに少し時間がかかった。



「……シェリー」



人影の正体に気づき、ミスラが安堵の声を漏らす。


シェリーはミスラと目が合うと、制圧が終わったことを示すように小さく頷いた。


まるで、『もう大丈夫ですよ』と言っているようだった。



「さあ、殿下。お先にお上りください。その次はリリィ、君だ」



イリスも人影がシェリーだと確認すると、用水路の奥から体を出しながら言った。



「う、うん」



リリィの返事はぎこちなかった。


どこか苦しそうにも聞こえる。



「……」



そんなリリィを見て、ミスラは心配そうな表情を浮かべる。


三人の体は、膝にも届かない水かさとはいえ、長時間用水路を進んでいたせいで冷え切っていた。


そのせいかもしれない。


とりあえず、リリィを地上へ。


ミスラはそう考え、まずは自分がロープを上り始めた。


三人が井戸を上り終えると、月明かりに照らされた広い裏庭へ出た。



「一度、その生垣の後ろへ」



シェリーが、肩で息をする三人へ向かって言う。


当の彼女は、自分が制圧した兵士の一人を引きずりながら、生垣へと向かっていた。


指示された生垣の陰へ身を滑り込ませると、そこにはすでに一人の兵士が転がされていた。


シェリーによって、あられもない姿にされた兵士だった。


装備を剥がされ、自身が着ていた衣服で両足と後ろ手を縛られている。


そのせいで、身に着けているのは下着一枚だけだった。



「なっ!?」



ミスラは思わず視線を逸らす。



「これは……」



イリスも絶句する。



「何をそんなに驚いているんです?」



シェリーは何食わぬ顔で、もう一人の意識を失った兵士を運びながら言う。



「殿下は男の裸くらい見慣れているではありませんか」



「ちょっと、言い方!」



慌てて取り繕うミスラ。


そんなことは気にも留めず、シェリーは運び込んだ兵士から慣れた手つきで装備を剥ぎ取っていく。


そして、剥ぎ取った衣服を使い、両足と後ろ手を素早く縛り上げた。



「万が一、目を覚ましても、これで時間が稼げます」



淡々と作業を終えたシェリーが言う。



「そ、そうですね」



その声に答えたのは、イリスだった。



「まぁ、リリィには少々刺激が強かったかもしれませんが……って、リリィ?」



そう言いながらリリィへ目を向けたシェリーの手が止まる。


三人が振り向くと、リリィは苦しそうに肩で息をしていた。


だが、その様子はミスラやイリスとは明らかに違う。


右手で軽装の襟元を引き裂かんばかりに掴み、深く俯いていた。



「リリィ! 大丈夫!?」



ミスラは急いでリリィのもとへ跪き、その体を両手で支えた。



「う、うん。ちょっと……ロープが大変だった……だけ」



リリィは苦しそうに答える。


だが、それは単なる疲労には見えなかった。



「そんなわけないだろ! どこか体調が悪いのか?」



イリスが声を潜めながらも、焦りを滲ませて尋ねた。



「大丈夫だって。問題……ないよ。さあ、みんな行こう」



リリィは無理やり笑顔を作る。


だが、その額にはじんわりと汗が浮かんでいた。



「リリィ。この先は、単純な戦闘になる可能性が高いです。あなたはここで待っていなさい」



シェリーは厳しい口調で命じた。


しかし、その視線には明らかな心配が滲んでいる。



「待って! メイド長! 私も……連れてって! 少し……休んだら……大丈夫だから」



リリィは必死に懇願した。


その目には、涙が浮かんでいた。



『私を……一人にしないでよ!!』



姉が眠るアレースの墓地で、リリィがタイシへ向けて叫んだ言葉を、ミスラは本人から聞いていた。


これまでタイシは、過保護とも言えるほどリリィを戦いから遠ざけ、軍事作戦には参加させてこなかった。


姉のミリィを失った時も、リリィはどれほど自分の無力さを恨んだことだろう。


そして今回は、渋るタイシをリオデルカが説得し、初めて軍事作戦へ参加することになった。


その気合の入りようを、ミスラは知っていた。



「リリィ。私たちは、このあとのことをここで少し話すわ。


 それまで、ここで休んで息を整えなさい。


 それでも回復しなければ、ここで待っていなさい」



「殿下……」



ミスラの言葉に、シェリーは目を見開く。


ミスラ自身、それが正解なのかは分からない。


それでも、リリィの想いを汲んでやりたいという気持ちが強かった。


リリィは涙の滲んだ目でミスラを見上げる。


そして小さく一度頷くと、呼吸を整えるため、その場へゆっくりと腰を下ろした。


それを見届けると、ミスラとイリスは、兵士達の拘束を確認していたシェリーのもとへ歩み寄る。



「いいのですか……? 殿下」



ミスラに尋ねるイリスの声は、そっと寄り添うような穏やかなものだった。



「ええ。責任は私が取る」



その言葉を聞き、何か言いかけていたシェリーも言葉を飲み込む。



「さあ、このあとのことよ!」



ミスラは気を取り直し、明るい笑顔を作った。


リリィのことは心配だった。


だが今は、目の前の任務を優先しなければならない。


領主邸の内部構造は、どの領地も似たようなものだろう。


だが、敵の配置も、領主であるイシダ タクミがどこにいるのかも、何一つ分かってはいない。


だからこそ、一つずつ確実に進むしかない。


ミスラ達は声を潜めながら、これからの行動を確認していく。


その間も、少し離れた場所では、リリィが静かに呼吸を整えていた。


だが、この時のミスラ達はまだ知らなかった。


リリィの身に起き始めていた異変が、この夜の作戦そのものを揺るがそうとしていることを――。


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