第百九話 用水路、そしてミスラの決意
「本当にあったわね」
「ええ」
「罠じゃないよね?」
「私は、真正面から切り伏せて侵入してもよいと思いますが」
十六番領地、その中心にある村の外れで、ミスラ、イリス、リリィ、シェリーの四人は、人一人が通れるほどの広さがある地下用水路の入り口に立っていた。
この用水路は、竜血四侯のアダチ リュウヤが教えてくれたものだった。
当初、彼女たちはアダチの助言を鵜呑みにはせず、まず自分たちの目で領主邸の警備状況を確かめることにした。
そして領主邸の近くまでたどり着いたものの、さすがは領主の住まう邸宅だけあり、周囲には厳重な警備が敷かれていた。
無論、彼女たちの実力なら、正面からでも問題なく警備を切り伏せられる。
だが、今回の目的は十六番領地領主――イシダ タクミの暗殺だ。
無理に正面から騒ぎを起こし、その隙に逃げられでもしたら目も当てられない。
そこで四人は一度引き返し、アダチが教えてくれた用水路を確かめることにしたのだった。
「この用水路、どこにつながっているのかな?」
リリィは、薄暗く、どこか不気味な穴を覗き込みながら言った。
穴の向こうには、深い闇が広がっている。
月明かりも届かず、数メートル先すら見通せない。
冷たい水がゆっくりと流れる音だけが、かすかに聞こえてくる。
まるで巨大な生き物が口を開け、侵入者を待ち構えているかのようだった。
「この規模の領主邸なら、おそらく生活用水を引くためのものだろう。
どこか敷地内の水汲み場につながっているはずだ」
後ろから、イリスが説明する。
「殿下、いかがいたしますか?」
用水路の入り口を挟んで、リリィとイリスの反対側に立っていたシェリーが、背後にいるミスラへ尋ねた。
「そうね……」
ミスラは顎に手を添えながら考える。
アダチ リュウヤ。
あの男が語った目的が本当なら、自分たちに偽の情報を与える理由は薄い。
少なくとも、今の時点では。
だが戦場では、信頼と警戒は別の話だ。
敵の言葉を信じながらも、その先に待つ最悪の可能性を捨てない。
それが生き残るための鉄則だった。
「四人もいれば、潜入したところで、いずれ気づかれるわ。
でも、どうせ見つかるなら、できるだけ標的に近づいてからのほうがいい」
彼女の言葉に、三人が頷く。
「そうなると、ここから侵入するのが妥当だけど……怖いのは、これが罠であることね」
「待ち伏せされるから?」
リリィが尋ねる。
「ええ。それもあるわ。
でも、待ち伏せくらいなら、私たちなら突破できるし、すぐに退却することだってできる」
ミスラが優しい目でリリィを見つめる。
「なるほど。すでに標的が、この地を離れている可能性ですか」
今度はシェリーが言った。
「そう。そこだけが気がかりね」
ミスラは考え込むように視線を落とした。
しばし、四人の間を重い沈黙が包む。
「まあ、行ってみればわかります。
罠だと判明した時点で、退却を選択してもよいのでは?」
イリスが、その沈黙を打ち破った。
そして、用水路の奥へと視線を向ける。
「ここは狭いので、まずは私が先導します。
シェリー殿は、殿をお願いしても?」
こういう時、騎士としての経験が豊富な彼女は、何よりも心強かった。
「そうね。うん。とにかく進んでみましょう」
ミスラが不安を残しつつも、吹っ切れたように言う。
「わかりました!」
「殿はお任せを」
その言葉につられるように、リリィとシェリーも呼応する。
「では、参ります」
イリスはそう言うと、冷たい用水路の水に足を浸し、暗いトンネルの奥へと進み始めた。
足首まで浸かる水は、思っていた以上に冷たい。
長時間入っていれば、体温を奪われてしまいそうなほどだった。
石壁には苔が張り付き、所々から染み出した水滴が、ぽたり、ぽたりと落ちている。
狭い空間の中では、その音さえ妙に大きく聞こえた。
ざぶっ。
ざぶっ。
一歩進むたびに生まれる水音が石壁に反響し、何倍にも膨れ上がって耳へ返ってくる。
誰も口を開かない理由は、それだけではなかった。
イリスのあとを追うように、リリィ、そしてミスラが一定の間隔を空けて続く。
最後にシェリーが、誰にも見られていないことを周囲へ視線を巡らせて確認してから、用水路へ足を踏み入れた。
四人が進む用水路の中には、しばらくの間、足元の水が跳ねる音だけが響き続けた。
暗殺任務。
一歩間違えれば、二度と帰れない。
四人とも、それを理解している。
だからこそ、誰も余計なことを口にしなかった。
そんな重苦しい空気を切り裂くように、シェリーが口を開いた。
「そういえば、殿下」
殿を歩いていたシェリーが、水音にかき消されそうなほどの小さな声で、不意にミスラへ話しかけた。
「ん?」
「出発前夜、陛下と大層お楽しみだったようですね」
バシャーン!
ひと際大きな水音が、用水路の中に響き渡った。
「ミスラ様? 大丈夫?」
後方から響いた大きな音に、リリィが心配そうに振り返る。
「え、ええ。大丈夫よ。大きな音を立ててごめんなさい」
足を滑らせたミスラが、顔を真っ赤にして答えた。
リリィはミスラの動揺には気づかず、「よかった」とつぶやいて前へ向き直る。
「あなた、こんな時に何を言い出すのよ」
リリィが前を向いたことを確認すると、ミスラは後ろを振り返り、小声でシェリーを咎めた。
「緊張を解いて差し上げようかと」
シェリーは悪戯な笑みを浮かべながら言う。
「まったく。
まるで、快楽を知った兎のようですね。
まあ、そのくらいの歳なら理解もできますが」
シェリーは、呆れたように続けた。
「やめなさい!」
ミスラが慌てて止めようとする。
「何を恥ずかしがっているのですか?
愛し合う男女がお互いを求め、一つになる。
これは自然の摂理であり、健康体そのものですよ?」
ミスラの顔が、ますます赤くなる。
その顔を隠すように前へ向き直り、再び歩き始めた。
それに続くように、シェリーも歩を進める。
「殿下。また、陛下とつながりたいですか? その肌に触れたいですか?」
ミスラにだけ聞こえるほどの小さな声で、シェリーは問いかける。
しかし、ミスラは俯いたまま答えなかった。
だが、少なくともシェリーには、その沈黙そのものが肯定の意思表示に思えた。
「ならば、生きなければなりません」
そう告げるシェリーの顔からは、先ほどまでの悪戯な笑みが消えていた。
「生きて帰らねばなりません」
静かな声だった。
だが、その言葉には強い意志が込められている。
「あの方には、あなたが必要です」
シェリーは前を向いたまま言う。
「陛下は強い方です」
「ですが、あなたがいなくても平気なほど、強くはありません」
「だから――」
一拍置く。
「必ず帰りましょう」
シェリーは独り言のように呟いた。
その言葉が、ミスラの心へ深く突き刺さる。
シェリーは、いつだってそうだった。
歪んだ形ではあっても、何よりタイシのことを優先する。
今だってそうだ。
ミスラを焚きつけているのは、彼女自身を心配しているからではない。
すべては、タイシのためだった。
『失うのが嫌なら……絶対に離れない』
ミスラは、まだ首都を移す前――アレースにあったタイシの部屋で、自分が彼に告げた言葉を思い出す。
(そうよ。私は必ず、あそこに戻るんだから)
ミスラは強く拳を握った。
脳裏に浮かぶのは、エリュシオンの街並み。
王城。
仲間たち。
そして――タイシ。
自分を見つめる優しい瞳。
自分の名を呼ぶ声。
あの温もり。
最初は、目的のためだった。
彼のそばにいることも。
彼の力になることも。
すべては、自分の望みを叶えるための手段に過ぎなかった。
だが、いつからだろう。
気づけば彼は、絶対に失いたくない存在になっていた。
(必ずやり遂げる)
(必ず生きて帰る)
(そして――)
(タイシのもとへ帰る)
ミスラは顔を上げた。
その瞳に、もう迷いはなかった。
暗い用水路の先には、敵が待ち構えているかもしれない。
罠が仕掛けられているかもしれない。
それでも、進む。
守りたいものがあるからだ。
罠への警戒は、今も消えていない。
だが、先ほどまで彼女の表情に浮かんでいた迷いは、もうなかった。
その瞳に宿るのは、ただ一つ。
必ず任務を果たし、生きてタイシのもとへ帰るという、強い決意だけだった。




