第百八話 血路の廊下、烏と槍
領主邸の廊下で繰り広げられる戦いは、まさに一進一退だった。
イマリの長刀が閃けば、レオンの大槍が唸る。
幅の広い廊下の壁には無数の切り傷や刺し傷が刻まれ、石床には衝撃の跡がいくつも残されていた。
だが、それほどの激戦にもかかわらず、対峙する二人の身体には目立った傷がない。
互いに相手を捉えきれず、均衡を崩す決定打も放てない。
そんな拮抗した戦いが続いていた。
「こうして正面切ってやり合うのは初めてじゃが……」
イマリは流れるような太刀筋を途切れさせることなく言う。
「お主、なかなかやるではないか」
言葉を締めくくるように、鋭い一閃が放たれる。
だが、レオンはそれを大槍の柄で受け流し、大きく後方へ跳んで距離を取った。
甲高い金属音が、廊下に響き渡る。
「ったく……よく言うぜ」
レオンは改めて大槍を構え直した。
「お前、全然本気じゃねえだろ?」
「……それはお互い様じゃろうて」
イマリはニヤリと笑う。
レオンは小さく舌打ちした。
(ったく……本当にやりづらい相手だ)
レオンはすでに、イマリの前職に見当をつけていた。
和装の立ち姿。
サブクラス持ちというだけでは説明のつかない、異様なまでに洗練された体捌き。
そこから導き出される答えは、一つしかない。
「瑞穂国が誇る精鋭暗殺部隊が、こうも真正面から戦ってくれるとは思わなかったぜ」
探るようにレオンが言う。
「なに。宵闇の烏などという名じゃからな」
イマリは気にした様子もなく答えた。
「皆、闇夜に紛れて人を殺す連中だと思うらしい」
「違うのか?」
「諜報に携わる者など、皆そのように見られるものじゃ。人目を避けて動くことが多いからの」
そう言いながら、イマリはふと長刀へ視線を落とした。
「じゃが、お主は少し勘違いしておる」
その瞳が、再びレオンを捉える。
「烏は暗殺部隊ではない。“工作部隊”じゃ」
「工作部隊?」
「諜報もやる。潜入もやる。破壊もやる。暗殺もやる。必要なら戦場にも立つ」
イマリは肩をすくめた。
「兵として鍛えられ、その延長線上で暗殺もこなす。それだけの話じゃ」
「なるほどな」
レオンは小さく頷く。
「だから、正面からやり合うのも苦じゃねえってわけか」
「そういうことじゃ」
イマリは静かに答えた。
「そうか。なら、暗殺術とやらを警戒して、守りに徹する必要もなさそうだな」
レオンは大槍を握る手に力を込める。
だが、その思考は別の場所にあった。
(そろそろ……ソウタも逃げ切った頃か)
彼が守勢に徹していた理由は、ただ一つ。
フジムラ ソウタが領主邸から逃げ切るまで、イマリをこの廊下に足止めするためだった。
(できれば援軍でも連れて戻ってきてほしいが……高望みか)
サブクラス持ちであろうと、人間であることに変わりはない。
数で押せば、倒すことはできる。
だが、目の前の相手へ中途半端な人数で挑めば、こちらが壊滅するだけだ。
レオンはソウタの脱出を信じ、自らも離脱する機会を窺っていた。
その時だった。
「レオンよ」
イマリがふいに口を開く。
「お主も逃げるというのなら、ワシは追わんぞ?」
「……!」
レオンの目が見開かれる。
「さっきも言ったじゃろう。ワシらは、この地を取り返しに来たと」
「この機に、うちの大将の首を取らなくていいのか?」
「ああ。まぁ、目の前に首が転がってきたなら、遠慮なく貰うがの」
イマリはあっけらかんと笑った。
レオンは眉をひそめる。
ここは敵地。
奇襲は成功している。
ならば、敵の大将の首を狙うのが当然だ。
だが、イマリの言葉に嘘は感じられなかった。
(こいつ……案外、本当にそういう奴なのか)
レオンは賭けることにした。
「そうか」
ゆっくりと構えを解く。
「じゃあ、その慈悲に甘えて引かせてもらうぜ」
イマリは何も言わず、ただ微笑んだ。
レオンは警戒を解かぬまま、一歩ずつ後退していく。
(どうやら、本当に追う気は――)
その時だった。
「おい! レオン!」
廊下の角から怒鳴り声が響く。
「侵入者は殺したか!?」
レオンの顔から、さっと血の気が引いた。
廊下の角から現れたのは、よりにもよって、兵士たちを引き連れたフジムラ ソウタだった。
「お前……なぜ戻ってきた……!」
思わず振り返る。
そして、その一瞬だった。
轟音。
石床が爆ぜた。
レオンが反射的に視線を戻した時、そこにイマリの姿はなかった。
「しまっ――!」
先ほどまでの余裕ある立ち回りからは想像もつかない、爆発的な踏み込み。
低く構えられた長刀。
弾丸のような速度。
イマリは一直線に、ソウタへ向かっていた。
その目は、獲物を見つけた猛禽のように鋭く、口元は楽しげに吊り上がっている。
「え……?」
状況を理解できず、ソウタはその場に立ち尽くしていた。
「どけぇッ!! ソウタァァァ!!」
レオンは叫びながら地を蹴った。
思考する時間はない。
身体が勝手に動いていた。
ソウタとイマリを結ぶ直線へ、自らの身体を投げ込む。
(間に合え――!!)
大槍を横に構えた瞬間。
ガキィィィンッ!!
凄まじい衝撃が、レオンの全身を貫いた。
イマリの斬撃は大槍の柄を滑り、その勢いを僅かに削がれながらも、レオンの胸元を大きく切り裂いた。
「がっ……!」
鮮血が舞う。
視界が一瞬、赤く染まった。
だが、レオンは倒れない。
ここで倒れれば、背後にいる愚かな大将が死ぬ。
「おおおおおおっ!!」
怒号と共に、大槍を振り抜く。
命を削るような反撃。
さすがのイマリも受けきろうとはせず、長刀で軌道を逸らしながら大きく後退した。
「ふむ」
イマリは長刀についた血を振り払う。
「見事な反応じゃな。……じゃが、放っておけば致命傷になるぞ?」
レオンは荒い息を吐いた。
そして、背後を振り返る。
そこには腰を抜かし、震えることしかできないソウタがいた。
すべてを台無しにした男が。
「お前は……本当に使えねぇ大将だな……」
「ひっ……?」
次の瞬間。
ドゴンッ!!
レオンは大槍を反転させ、その石突きをソウタの鳩尾へ叩き込んだ。
「がふっ!?」
白目を剥いたソウタが、その場に崩れ落ちる。
「おい!!」
レオンは兵士たちを睨みつけた。
「こいつを担いで、今すぐ逃げろ!! 命令だ!!」
胸から血を流しながら放たれた怒号。
兵士たちは慌ててソウタを抱え上げ、来た道を駆け去っていく。
複数の足音が、廊下の奥へ遠ざかっていった。
それを確認してから、レオンはようやく正面へ向き直る。
その先には、長刀を携えた小柄な女が立っていた。
まるで、面白いものでも見るように。
「まだやるのか?」
イマリが尋ねる。
「当たり前だ」
レオンは大槍を構え直した。
「ここで俺が倒れたら、お前は絶対にあいつに追いつく」
流れた血は、決して少なくない。
意識を保っているだけでも不思議なほどの重傷だった。
それでも、レオンは立っていた。
ソウタを逃がす。
その執念だけで。
「……あれほど愚かな主を、それでも命を懸けて守るか」
イマリはしばらく無言でレオンを見つめていた。
やがて、小さく息を吐く。
その顔には、呆れと感心が入り混じっている。
「なぁ、レオンよ」
静かに問いかける。
「お主は何故、あんな馬鹿を庇う?」
レオンは答えない。
ただ、大槍を握る手に力を込めた。
廊下の窓から差し込む月光が、血に濡れた石床を白く照らしている。
ソウタを連れた兵士たちの足音は、もう聞こえない。
残されたのは、血を流しながらなお大槍を構えるレオンと、長刀を下げたイマリだけだった。
イマリは、そんな彼を真っ直ぐに見つめる。
「その忠義も、その腕も……ここで失うには惜しい」
刃の音を失った廊下に、イマリの声が静かに響き渡る。
「ワシらのもとへ来んか?」




