第百五話 静寂の十六番領地
十六番領地――その領主邸を抱く村は、夜の帳に沈み込み、不気味なほど静まり返っていた。
もともとこの領地は、領主であるイシダ タクミの統治方針もあり、人の気配が薄い。
活気よりも統制を優先した結果、その空気は、昼間でさえ息苦しさを覚えるほどだった。
だが今夜は、それがさらに異様なものとなっている。
デンスの策に従い、十六番領地の西側で一斉に焚かれた火。
それをリベリオン軍の侵攻と誤認した兵士たちは、西方へ集中して配置されていた。
西からリベリオンが侵攻してくる――そんな報が領内を駆け巡り、十六番領地は完全な臨戦態勢へ移行している。
兵士たちは各地へ出払っていた。
本来なら配置されているはずの見張りすらまばらで、村の路上には、申し訳程度のかがり火だけが揺れている。
風が吹くたび、火は頼りなく明滅し、石畳に歪んだ影を落としていく。
そんな静寂の中。
建物の壁沿いを縫うように、村の中心部へ向かう四つの影があった。
全員が黒装束に身を包み、人目を避けながら慎重に進んでいる。
「……まったく、本当に薄気味悪いところね」
静寂を破ったのは、小さくも澄んだ少女の声だった。
「ええ。前回来た時も、昼間だというのに不気味でしたからね」
別の女性が、声を潜めて応じる。
「こうも人の気配がないと……逆に罠のようにも感じますね」
さらに別の声が続いた。
四人は、建物と建物の隙間を滑るように移動していく。
足音すら極力殺し、わずかな物音にも反応できるよう、神経を尖らせていた。
その時だった。
一番小柄な影が、不用意に通りを横切ろうとした瞬間――
「こら! リリィ!」
「うげっ!?」
ぐいっと襟首を掴まれ、リリィの身体が宙で止まる。
「慎重に動きなさいって言ったでしょ!」
「ご、ごめんなさいぃ……」
喉元を押さえながら、リリィが情けない声を漏らした。
「ふふ。本当にシェリー殿は、リリィのお母さんのようですね」
最後尾を歩いていたイリスが、小さく笑う。
「だってこの子、今日すっごく張り切ってるんだもの。タイシに初めて頼られたんだから」
ミスラが悪戯っぽく笑いながら、リリィの肩を抱いた。
「うぅ……そ、そんなことないもん!」
否定しながらも、リリィの頬は分かりやすく赤くなっている。
張り詰めていた四人の空気が、ほんのわずかに和らいだ。
「さあ、皆さん。おしゃべりはほどほどにして、先へ進みますよ」
シェリーは柔らかな笑みを浮かべながらも、視線だけは鋭く左右を確認する。
そして、再び先導するように歩き出した。
「それにしても驚いたなぁ。まさかメイド長も、私と同じ“あの”武器の所有者だったなんて」
後ろを歩きながら、リリィがぽつりと漏らす。
「まぁ、ただ者じゃないとは思ってたけど……」
「私を見抜けないなんて、リリィもまだまだですね」
シェリーは前を向いたまま、どこか楽しそうに返した。
「いや、さすがに持っている武器の能力まで見抜くのは無理でしょ……」
ミスラが呆れたように肩をすくめる。
「ええ。それに、まさかシェリー殿が“ハウンド”の出身だったとは……」
最後尾のイリスも、感心したように呟いた。
「うん……。それに、私と同じ聖王国出身だったなんて、初めて知った」
リリィは、少しだけ視線を落とす。
「どうした、リリィ?」
イリスが優しく問いかけた。
「……私、メイド長のこと、なんにも知らなかったんだなって……」
その素直な言葉に、三人は自然と柔らかな笑みを浮かべる。
「ほら、シェリー。リリィがもっと親交を深めたいみたいよ?」
ミスラが意地悪そうに笑った。
「そうですか、そうですか。では朝昼晩、休みなくメイド道を叩き込まなくてはいけませんね」
「ち、違うっ! そういう意味じゃない!」
リリィが慌てて否定する。
声を殺した笑いが、わずかに四人の間を和ませた。
だが――その穏やかな空気は、一瞬で凍りつく。
「なんだ……たった四人かよ」
「――っ!?」
頭上から降ってきた男の声。
四人は反射的に距離を取り、瞬時に臨戦態勢へ入った。
「お前は……」
屋根の上。
片膝を立てて座る男を見上げ、イリスが息を呑む。
「アダチ リュウヤ!」
その名を口にした瞬間、ミスラの表情が変わった。
怒り。
それも、理性を焼き尽くすほど濃い怒気だった。
「おいおい。そんな目を向けるんじゃねぇよ。殺したくなっちまうだろうが」
アダチは口角を吊り上げながら、愉快そうに笑う。
「情報では、竜血四侯の影はないはずでしたが……これは……」
シェリーは静かにリリィの前へ立ちながら呟いた。
今回の作戦を立てる上で、最も危険視されていた存在。
それが竜血四侯だった。
もし遭遇した場合は、即時撤退。
それが絶対条件だった。
シェリーは冷静に周囲を観察しながら、この場からどう離脱するか、高速で思考を巡らせる。
だが――
「そこの女。別に撤退する必要はねぇぞ」
その言葉に、シェリーの眉がぴくりと動いた。
思考を読まれた。
あるいは、目線の動きで察知された。
どちらにせよ、気味が悪い。
「撤退する必要がないとは……どういうことだ?」
イリスが警戒を解かぬまま問い返す。
「そのままの意味だ。俺はもう、この領地とは組んでねぇ」
アダチは鼻で笑った。
「だから、お前らを排除する義理もない。むしろ、応援してる側だ」
四人は怪訝な表情を浮かべる。
その言葉が真実かどうかは分からない。
ただ、少なくともアダチからは、以前対峙した時のような、今すぐ襲いかかってくる殺気は感じられなかった。
「応援? なぜそんなことを?」
四人を代表して、イリスが問いかける。
「俺がそこの姫さんと戦った時、ワカナが言ってただろ」
アダチの視線が、鋭くミスラを射抜いた。
「“竜への挑戦権”を持たねぇ領民を殺したら、俺自身が罰を受けるってな」
「……」
「つまりだ。俺はお前らに、さっさと“挑戦権”を手に入れてほしいんだよ」
その目に宿るのは、狂気じみた執着。
「その女を殺すためにな」
ミスラもまた視線を逸らさず、アダチを睨み返していた。
「お前らの王が、ここの領主――イシダを殺せば、支配領地は四つ。さらに配下の十七番領地まで転がり込めば、五つになる」
「……」
「五つ以上の領地を支配する勢力は、“竜への挑戦権”を得る」
「竜への挑戦権……」
リリィが小さく呟く。
「ああ。あのクソ竜をぶっ殺す資格ってわけだ」
「……残念だが、十七番領地は六番領地へ譲渡する盟約になっている」
イリスが冷静に返した。
「チッ……もたもたしやがって……」
アダチは露骨に舌打ちする。
「まぁいい。時間の問題だろ」
そう言って、ゆっくりと立ち上がった。
四人の緊張が一気に高まる。
だがアダチは、そんな空気など意にも介さず続けた。
「この先にデカい用水路がある。そこから侵入しろ」
「……!?」
「正面には見張りがいる。だが、用水路にはいねぇ。そんなところまで頭の回る連中じゃないからな」
「なぜ、そんな情報を?」
「だから言ってるだろ。応援してるって」
アダチは肩をすくめた。
「まぁ、信じるかどうかは勝手だ。だが、その女に今死なれちゃ困る」
そう言い残し、彼は四人に背を向ける。
「じゃあな」
次の瞬間。
アダチの姿は、闇の中へ溶けるように消えていた。
「ちょっ……待ちなさい!」
ミスラが思わず叫ぶ。
「ミスラ様!」
リリィが慌てて、その服を掴んだ。
「……くっ」
ミスラは拳を強く握り締める。
だが、心配そうに見上げるリリィの顔を見て、ゆっくりと息を吐いた。
「大丈夫よ、リリィ」
そう答えながらも、ミスラの視線は、アダチが消えていった闇を見つめ続けていた。
「どうしますか?」
イリスの問いに、シェリーはアダチが示した方向へ目を向ける。
「彼を信用するつもりはありません。ですが、確認する価値はあります」
「罠の可能性もあるわよ?」
ミスラが警戒を滲ませる。
「ええ。ですから、まずは用水路の手前まで進み、周囲を確認しましょう。少しでも異変があれば、すぐに別の経路を探します」
シェリーの提案に、三人は静かに頷いた。
そして四人は再び、闇の中へ溶け込むように歩き出す。
「そろそろ、八番領地でも戦いが始まる頃ね……」
ミスラの呟きを攫うように、冷たい夜風が吹き抜けた。
人気のない通りの奥で、かがり火がぼうっと揺れる。
誰もいない窓。
閉ざされた扉。
沈黙した村。
まるで街そのものが息を潜め、これから起きる惨劇を待ち構えているかのようだった。




