第百三話 奪還の狼煙
「なんだと!?」
フジムラ ソウタは、八番領地の領主邸にある執務室で、その報告を聞いた。
闇夜に沈んだ部屋では、蝋燭の炎だけがゆらゆらと揺れ、壁に歪な影を作り出している。
「ですから、リベリオンがエリュシオン西の駐屯地と、アテーナ北の駐屯地に兵を集結させています。間違いなく、戦の準備かと」
伝令から告げられた、淡々とした報告。
その言葉を聞いた瞬間、フジムラの顔から血の気が引いた。
「なんで……」
口から漏れた声には、怒りよりも恐怖の色が濃かった。
「つまり、二方向からここを攻められるように布陣している、ということだな」
レオンが静かに確認する。
「はい。そのように見えます」
「十三番領地はどうしている? 動きそうか?」
「いえ……確かなことはわかりませんが、今のところ動く気配はないとのことです」
伝令は、言葉を選ぶように視線を落とした。
(やられたな……)
レオンは胸中で舌打ちする。
十三番領地が動かない。
その事実から考えられる可能性は、二つ。
既にリベリオン側へ寝返っているか。
あるいは、十六番領地のイシダからの連絡を、律儀に待ち続けているかだ。
どちらにせよ、包囲網の一角としては、まるで機能していない。
包囲網とは、本来、中心にいる敵を縛るためのものだ。
敵がどこか一方向へ動けば、空いた場所を周囲の領地が突く。
だが、その一角が最初から動かないのであれば、包囲など成立しない。
猿でもわかる理屈だ。
それすら理解していない者たちが組んだ時点で、そもそも包囲網などと呼べる代物ではなかったのかもしれない。
レオンは腕を組み、ゆっくりと目を閉じた。
「とにかくだ! すぐに迎え撃つ準備をしろ!」
フジムラの怒声を聞き、レオンは目を開く。
「……お前、何をする気だ?」
低い声で問いかけた。
「何って、戦うに決まっているだろ!」
「包囲網が機能していない以上、ここを守り切るのは難しい。
今のうちに八番領地を捨て、九番領地まで退却するべきだ」
レオンは、できるだけフジムラを刺激しないよう、声を抑えて告げた。
だが――
「そんなみっともない真似ができるか!」
フジムラは机を激しく叩き、怒鳴り声を上げた。
蝋燭の炎が大きく揺れ、壁に映る影が歪む。
「……みっともない、だと?」
レオンは眉をひそめた。
「そうだ! 俺は三十番領地と、二層である八番領地を落としたんだぞ!」
その瞬間、レオンは悟った。
(ああ……そういうことか)
結局、こいつは自分の体裁しか見ていない。
二つの領地を奪い、周囲から持ち上げられ、自分を“選ばれた人間”だと思い込んでいる。
そして今、兵を退かせることすら“格好が悪い”と感じているのだ。
兵士の命より、自分の見栄。
領地を維持できるかどうかより、自分がどう見られるか。
その浅薄さに、怒りすら通り越し、レオンは呆れていた。
「……とにかくだ」
レオンはフジムラへ背を向ける。
「前線では、俺とオスワルドが時間を稼ぐ。その間に退却の準備を進めろ」
「なっ――!」
フジムラの顔に、怒りと驚愕が入り交じる。
だが、レオンはそれを無視し、そのまま部屋を後にした。
(ったく……なんて茶番だ)
部屋の前に控えていたメイドへ退却準備を手伝うよう命じると、レオンは見張りの兵士二人を連れ、前線へと向かう。
こういう時の領主邸の廊下は、やけに長く感じた。
窓から差し込む月明かりが、床の上に細長い影を落としている。
「あ、レオン様……ご報告が……」
廊下を進んでいる途中、一人の大柄な兵士が彼を呼び止めた。
「なんだ?」
レオンは足を止める。
だが、すぐに兵士の様子へ違和感を覚えた。
兵士は俯いたまま肩を震わせ、声も妙に上擦っている。
「あの……その……」
「……どうした?」
空気がおかしい。
レオンの本能が、激しく警鐘を鳴らしていた。
「十三番領地が、兵を動かしたとのことです」
「……その情報源は?」
問いかけた瞬間、兵士の喉がひくりと動く。
「それは……その……」
次の瞬間――
「リベリオンじゃ!」
「!?」
叫び声と同時に、大柄な兵士の背後から黒い影が飛び出した。
その手に握られているのは、一本の長刀。
迷いなく、正確に、レオンの喉元へ向けて振り抜かれる。
「チッ!」
レオンは咄嗟に大槍を具現化し、その斬撃を受け止めた。
甲高い金属音が、静まり返っていた廊下に響き渡る。
「やはり、現地で手駒にした者は演技が甘いのう」
反響する金属音の中、愉快そうな女の声が聞こえた。
「……イマリ」
レオンがその名を呟くと、黒い影は床を滑るように後方へ跳び、軽やかに距離を取った。
「久しいのう、レオン」
イマリは自分の背丈ほどもある長刀を肩に担ぎ、楽しそうな笑みを浮かべる。
「どれ、ワシらの領地を取り戻しに来たぞ」
レオンの背後にいた兵士たちが、一斉に剣を抜く。
先ほどまで震えていた大柄な兵士も、慌ててレオンの背後へ退き、イマリへ向けて武器を構えた。
「なんじゃ、その顔は」
イマリは、まるで世間話でもするような口調で問いかける。
「……なるほどな。最近流れてきた情報は、全部リベリオンのブラフだったわけか」
レオンは大槍を構え直した。
対するイマリは構えすら取らず、長刀を肩に乗せたままだ。
「いや、そうでもないぞ?」
イマリは肩をすくめる。
「兵を集めておるのは事実じゃ。エリュシオン西にも、アテーナ北にも、ちゃんとな」
「……」
「まあ、“集めておるだけ”じゃがのう!」
イマリが床を蹴った。
踏み込みと同時に、長刀の刃が銀色の軌跡を描く。
レオンも即座に大槍を振るい、迎え撃った。
刃と穂先が幾度となく衝突し、廊下に甲高い音が鳴り響く。
その応酬は、背後にいる兵士たちには、目で追うことすらできない速度だった。
圧倒的なステータスの差。
兵士たちは戦いに割って入ることもできず、唇を噛み締めることしかできない。
「お前ら! このことを皆に伝えろ!」
レオンが斬撃を受け止めながら叫ぶ。
「承知しました!」
兵士たちは即座に身を翻し、廊下の奥へ向けて駆け出した。
「ほう。良い判断じゃな」
イマリは斬撃の手を止めることなく言う。
「いいのか? あいつらを行かせて」
つばぜり合いの中、レオンが低い声で問いかけた。
「おそらく、侵入しているのはお前を含めたサブクラス持ち数人だけなんだろう?」
イマリは一度大きく距離を取り、ニヤリと笑った。
「リベリオンの軍師殿は、本当に嫌味な男でな」
「……」
「“嘘の中に混ぜた真実と、真実の中に隠した嘘ほど、人は見抜けぬ”などと、ほざいておったわ」
「なるほどな……」
レオンは苦々しげに顔を歪める。
「兵を集めているという情報そのものは真実だった。だから、報告を聞いても誰も疑わなかったわけか」
「そういうことじゃ」
「やりづれぇ……」
レオンは小さく毒づく。
「それと、お主は先ほど“奇襲”と言ったが、これは奇襲ではないぞ」
「あ?」
イマリは長刀を下ろすと、廊下の窓へ向かってゆっくりと歩き始めた。
無防備にも見える動き。
だが、その背中には一分の隙もない。
「結果的に奇襲になっただけじゃ。ワシらの中では、これは“強襲”じゃよ」
そう言って、イマリは懐へと手を入れる。
レオンは眉をひそめた。
強襲。
敵の備えが整う前に要所へ踏み込み、力ずくで制圧する戦い方。
だが、八番領地へ入り込んでいるのは、おそらく少数のサブクラス持ちだけ。
それだけの人数で、領主邸どころか、領地全体を制圧できるはずがない。
たとえ一人ひとりの力が強くとも、数十、数百という兵士に囲まれれば、いずれは押し潰される。
……普通なら。
(兵を動かさずに……領地全体へ強襲を仕掛ける方法……?)
「……まさか!」
レオンが目を見開く。
イマリの手には、見慣れない鉄の道具が握られていた。
短く、太い鉄筒。
武器とも工具ともつかない、異様な形状をしている。
「なんだ……それは?」
「んー? “フレアガン”というらしいぞ?」
イマリは窓を開き、鉄筒を夜空へ向ける。
「リベリオンの研究所とやらで作られた、試作品らしい」
「……フレアガン?」
「さて、答え合わせじゃ」
イマリの指が、引き金にかかる。
「ワシがなぜ、これを“強襲”と呼んだのか――その答えが、これじゃ」
次の瞬間。
轟音とともに、世界が真紅に染まった。
飛び出したのは、弾丸ではない。
夜空を焼き尽くすような、巨大な赤い光。
「なっ……!?」
レオンは反射的に腕を上げ、目を庇う。
光弾は火花を撒き散らしながら夜空を駆け上がり、頂点で大輪の赤を咲かせた。
血のような赤い光が、ゆっくりと闇へ滲んでいく。
まるで空そのものが裂け、血を流しているかのようだった。
やがて光は細くなり、黒煙だけを残して消えていく。
「のろし……まさか!」
「そうじゃ」
イマリは楽しそうに笑った。
「兵なら、既に“この地”におるではないか」
その瞬間。
八番領地の街中で、次々と火が灯った。
一つ。
また一つ。
通りの角。
家々の窓。
細い路地の奥。
真紅の光に応えるように、無数の灯火が夜の街へ浮かび上がっていく。
まるで八番領地そのものが目を覚まし、各所に潜んでいた兵たちが一斉に立ち上がったかのようだった。
「なっ……!」
レオンは窓の外を見つめ、息を呑む。
火は一か所や二か所ではない。
視界に入るだけでも、数十。
さらに遠くでも、闇の中から新たな光が次々と生まれていた。
(これだけの人数が……いつの間に入り込んだ?)
八番領地へ続く道は、常に監視させていた。
大規模な軍が近づけば、気づかないはずがない。
だが、目の前に広がる光景は、既に街の至るところへ敵が潜伏していたとしか思えなかった。
「お前ら……領民の中に兵を潜ませていたのか……!」
レオンの目が鋭く細められる。
「勘違いするでない」
イマリは静かに長刀を構えた。
「うちの姫様は、領民を盾にするような娘ではない」
「なら、あの火はなんだ!」
「さてのう?」
イマリは答えることなく、愉快そうに笑う。
その態度が、かえってレオンの警戒心を煽った。
既に領主邸の奥からは、慌ただしい足音と怒号が響き始めている。
「敵襲!」
「街の中に敵がいるぞ!」
「西側にも複数の火を確認!」
「何人だ!? どこから入り込んだ!」
錯綜する報告。
廊下を駆け回る兵士たち。
誰も、敵の正確な数も、居場所も把握できていない。
「チッ……!」
レオンは忌々しげに舌打ちした。
敵がどこにいるのかわからない。
どれだけの兵力が入り込んでいるのかもわからない。
街中に灯った無数の火が、その一つ一つに敵兵が潜んでいるのではないかという疑念を生み、兵士たちの冷静さを奪っていく。
「うちの姫様はな……甘い。甘すぎる」
イマリは、わずかに俯いた。
「人を信じ、誰かの痛みに寄り添い、他人のために泣ける……そんな、領主には向いておらぬ娘じゃ」
だが次の瞬間、その瞳に鋭い光が宿る。
「じゃがな――」
長刀の切っ先が、真っすぐレオンを指した。
「それこそが、ワシらの主!」
空気が裂けた。
先ほどまでとは比較にならない速度。
床板すら砕けるほどの勢いで、イマリが踏み込む。
「カワナミ サクラなんじゃ!!」
叫びとともに放たれた一閃。
それはもはや、単なる剣技ではない。
主への揺るぎない忠誠、そのものだった。
迫る白刃を前に、レオンは歯を食いしばり、大槍を振り上げる。
激突。
耳をつんざくような金属音とともに、二人の間で激しい火花が弾けた。
その直後、領主邸の各所から、さらに大きな怒号が響き渡る。
「北門付近にも敵影!」
「駐屯所へ援軍を回せ!」
「待て! 領主邸の守りを薄くするな!」
飛び交う命令は噛み合わず、兵士たちは右往左往している。
レオンはイマリの刃を受け止めながら、窓の外へ一瞬だけ視線を向けた。
闇の中で揺れる、無数の火。
その向こうに、どれだけの敵が潜んでいるのか。
今のレオンには、知る術がなかった。
ただ一つ、確かなことがある。
八番領地は既に、敵の手の中へ呑み込まれつつある。
そう思わせるほどの混乱が、街にも、領主邸にも広がっていた。
そして今――
どこにいるとも知れぬ敵への恐怖が、八番領地を守る兵士たちの心を、内側から崩し始めていた。




