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第百二話 狂気は玉座に座る

――同日夜、十六番領地・領主邸。



「おい、まだ連絡は来ないのか! いつまで僕を待たせるつもりだ!」



豪奢な装飾など一つもない、殺風景な領主の間に、イシダ タクミの怒声が鋭く響き渡った。


玉座に腰掛けた彼は、苛立ちを隠そうともせず、激しく足を揺すっている。



「申し訳ありません、タクミ様。未だ連絡は――」



玉座の前に跪く黒装束の一団。


その中の一人が言いかけた瞬間、外で轟いた雷鳴が言葉を呑み込んだ。


窓の外では、叩きつけるような豪雨が闇夜を覆っている。


絶え間なく降り注ぐ雨音は、まるで領主の間そのものを外界から閉ざしてしまったかのようだった。


湿気を含んだ重い空気が肌にまとわりつき、息を吸うたび、肺の奥まで淀んでいくように感じられる。


だが、この場を支配しているのは、雷鳴でも雨音でもない。


玉座に座る、イシダ タクミその人だった。


今にも爆ぜそうな危うさ。


刃物の切っ先を喉元へ突き付けられているかのような、鋭く冷たい緊張感が部屋全体を満たしていた。



「チッ……」



返ってきた報告に、イシダは焦燥を滲ませながら自らの爪を噛む。



「だから反対だったんだ! ほかの領地の連中と協力するなんて!」



癇癪混じりの怒声。


十六番領地では、もはや見慣れた光景だった。


イシダは些細なことで感情を爆発させる。


そして、その矛先が誰かに向いた時――命が消えることも珍しくはない。


黒装束の一団に、緊張が走った。



「ああ……ごめんよ……。ごめんよ、カエデ……」



不意にイシダは立ち上がり、虚空を見上げながら玉座の周囲を歩き始める。


泣き出したかと思えば怒鳴り、怒鳴ったかと思えば、今度は誰もいない虚空へ謝罪を繰り返す。


その姿からは、もはや理性と狂気の境界すら判別できなかった。


そして彼は、七番領地の“アサヒナ カエデ”に異常なまでに執着している。


その執着は、病的ですらあった。


気を紛らわせようと、美しい女達を侍らせたこともある。


だが、イシダは誰一人として興味を示さなかった。


彼の心に存在するのは、アサヒナ カエデただ一人。


――その彼女は、もう死んでいる。


それでも、イシダは彼女を求め続けた。


すでに土の下で朽ち始めているはずの遺体でさえ、彼は自分のものにしようとしていた。



「それで? 僕はまだ待たなきゃいけないのか?」



唐突に足を止め、イシダが問う。



「はい。この同盟の提案者である九番領地のフジムラ ソウタから、未だ連絡がありませんので……」



その言葉に、場の空気がさらに重く沈んだ。


九番領地の名代として現れた女。


“シリー”と名乗ったその女は、ただ者ではなかった。


身のこなしは暗殺者を思わせ、纏う空気も異様だった。


だが、領主であるイシダが“その目”で確認しても、表示されるのは何の変哲もない街娘の情報だけ。


少なくとも、そうとしか認識できなかった。


彼女が持ち込んだ提案――リベリオン包囲網。


十六番領地は、すでにその一角に組み込まれている。


勝手な行動は許されない。


いや、仮に単独で動いたところで、十七番領地を落とした程度の戦力では、リベリオン相手に太刀打ちなどできないだろう。


だからこそ、黒装束の一団はイシダを説得し続けた。


しかし、その交渉は困難を極めた。


なにせ、イシダの目的はただ一つ。


アサヒナ カエデだけだったからだ。


当然のように、最初は包囲網への参加を強く拒絶された。


だが――。


共に説得にあたった九番領地の女が、静かに放った一言で、すべてが変わった。



「聞いた話によりますと……あなたの大切なアサヒナ カエデは、死の間際、アサヒ タイシに唇を奪われたそうではありませんか」



女は、イシダの顔を覗き込むようにして微笑んだ。



「それはつまり――彼女が穢されたということでは?」



その瞬間。


イシダの表情が変わった。


アサヒナへの執着は、やがてリベリオンの王――アサヒ タイシへの憎悪へと姿を変えていったのだ。


結果として、十六番領地は包囲網へ加わることになった。



「とにかくだ……連絡が来たら、すぐに動けるようにしておけ!」



怒鳴るように言い放ち、イシダは再び玉座へ腰を下ろす。


次に何を言えば怒りを買うのか分からず、一団は返事すらできなかった。


だが、そんなことには興味もないのだろう。


イシダは俯いたまま、再び爪を噛み始める。



「僕が……僕が……アサヒを殺す……」



掠れた呟き。



「僕からカエデを奪った、あいつを……」



今度は、はっきりと聞こえた。


領主の間には、爪を噛む嫌な音だけが響き続ける。


一刻も早く、この場から離れたい。


黒装束の誰もが、そう願っていた。


――その時だった。



「失礼します!!」



領主の間の扉が、乱暴に開け放たれる。


冷たい風と雨粒が吹き込み、一瞬だけ室内の蝋燭が大きく揺れた。


飛び込んできたのは、同じ黒装束を纏った一人の男。



「なんだ!?」



怒声を上げたのは、イシダではない。


跪く一団の先頭にいた男だった。


その声には、この最悪な空気を少しでも変えてくれという願いと、さらに悪化することへの恐れ。


その両方が滲んでいた。



「は、はい!」



報告に現れた男は直立不動のまま、大きく息を吸い込む。


そして――。



「リベリオンが……攻めてきました!」



その報告に、イシダの顔つきが変わった。



「ど、どういうことだ!?」



イシダの怒声が、再び領主の間を震わせる。


報告役の男が萎縮したところで、一団の先頭にいた男が落ち着いた声を掛けた。



「慌てなくていい。順を追って説明しろ」



「は、はい! 現在、リベリオンのアレース方面から武装集団が進軍中との報告が入りました! 目標は、西の村と思われます!」



「アレースだと……?」



部屋にどよめきが走る。


万が一、リベリオンが進軍してくるとしても、誰もがエリュシオン方面からだと考えていた。


主力となるサブクラス持ちの多くが、首都へ集結していると見ていたからだ。


それが、アレースから現れた。


完全に想定していなかった方向からの進軍だった。



「陽動か?」



「その可能性が高い」



「だが、無視はできん……」



一団の中から、次々と声が上がる。


しかし、それらを掻き消したのは――。



「ええい! お前達、なんとかしろ!!!」



イシダの怒鳴り声だった。


作戦もなければ、具体的な指示もない。


アサヒナに関係すること以外は、すべて他人任せ。


だが、黒装束の一団にとって、それはある意味やりやすくもあった。



「承知しました」



先頭の男が短く答える。


それを合図に、一団は素早く立ち上がり、それぞれの役目を果たすため領主の間を後にした。


やがて、人影はすべて消える。


残されたのは、イシダただ一人。



「アサヒ……アサヒ……アサヒ……ッ! アサヒィィィィッ!!」



狂気じみた叫びが、広い領主の間に虚しく反響する。


壁に掛けられた燭台の炎が、その声に怯えるように揺らめいた。


窓の外では激しい雨がなおも降り続き、雷光が一瞬だけ室内を白く照らし出す。


玉座に座るイシダの影は、そのたびに歪み、まるで化け物のように壁へと伸びた。



「僕が必ず……殺す」



最後に漏れた声は、激しい雨音に呑み込まれていった。


遠くでは、十六番領地へ向かう軍勢が、雨に紛れて着実に歩みを進めている。


だが、そのことを知らないイシダは、ただ玉座の上で爪を噛み続けていた。


カリ、カリ、と。


狂気が己のもとへ迫る罠にも気づかぬまま――。

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