第百一話 涙の誓願
八番領地を実効支配する九番領地への対策――。
その議題について話し合うため、会議は短い休憩を挟み、再開されることとなった。
エリュシオン城の会議室には、休憩を終えた幹部達が次々と戻ってくる。
先ほどまで漂っていた張り詰めた空気は幾分か和らぎ、それぞれの表情にも落ち着きが見えていた。
「あとはカワナミさんとイマリ、それに二人を呼びに行ったアリアだけか」
自席へ腰を下ろしながら、俺は会議室を見渡して呟く。
「そうね」
ミスラが静かに頷いた、その時だった。
重厚な会議室の扉が、ゆっくりと開かれる。
「遅く……なった……です……」
申し訳なさそうに顔を覗かせたのは、アリアだった。
その後ろには、カワナミさんとイマリの姿も続いている。
「いや、構わないよ。席に着いてくれ」
俺がそう声を掛けると、アリアはぺこりと頭を下げ、そのまま慌てた様子で自分の席へ向かっていった。
本来なら、客人を席へ案内してから自分が座るべきなのだろう。
だが、アリアはまだメイドとして半人前だ。
そんな彼女の様子を見て、隣に座るメイド長――シェリーが小さく息を吐いた。
「アリア。まずはお客様を席までご案内してから、自分の席に着くのですよ」
叱責というより、教え導くような優しい声だった。
「あ……ご、ごめんなさい……です……!」
アリアは慌てて立ち上がる。
俺はそのやり取りを、どこか微笑ましく眺めていた。
だが、その時。
「いえ、私達はこのままで大丈夫です」
そう言ってアリアを止めたのは、意外にもカワナミさんだった。
長机を挟み、俺の正面に立つ彼女は、じっとこちらを見つめている。
しかし次の瞬間、その視線はアリアへと向けられた。
「案内してくれてありがとうございました。とても助かりました」
柔らかな微笑み。
その表情に、アリアはぽかんと目を丸くする。
いや――驚いたのは、アリアだけではない。
俺もだった。
日本にいた頃ですら見たことのない、慈愛に満ちた笑顔。
それが、彼女の整った顔立ちに浮かんでいた。
(……こんな顔もするのか)
彼女が案内を断った理由を考えるより先に、その笑顔に見惚れてしまっていた。
「コホン」
そんな俺を見かねたのか、ミスラがわざとらしく咳払いをする。
「あ、えっと……アリア。二人から何か話があるみたいだから、そのまま座っていてくれ」
慌てて言うと、アリアはカワナミさんへ一礼し、そのまま席へ戻った。
カワナミさんは、アリアが着席するのを確認すると、改めて俺へ視線を向ける。
「会議を始める前に、私から一つ、いいでしょうか?」
先ほどまでの柔らかな笑みは、もうない。
代わりにそこにあったのは、静かな決意だった。
俺は何も言わず、ただ一つ頷く。
「ありがとうございます」
そう返した彼女は、一度深く息を吸い込んだ。
そして、正面を見据えながら口を開く。
「先ほどは、私達八番領地の提案を議題に上げていただき、ありがとうございました。また、リオデルカさんに発言の機会を与えていただいたにもかかわらず、領主である私自身が何も言えずにいたことを……申し訳なく思っています」
そう言って、彼女は深々と頭を下げた。
その光景に、会議室にいる多くの者達が驚きを露わにする。
「その上で、今こうして発言する無礼をお許しください」
再び顔を上げた彼女の瞳には、揺るがぬ意志が宿っていた。
「従属の提案を断られた理由が、私の不甲斐なさにあることは分かっています」
堂々と、真正面から言い切る。
「その判断が、アサヒ君……いえ、陛下の優しさから来ていることも」
「カワナミさん。陛下はやめてくれ。それに、そんなに畏まらなくていい。いつも通りで頼むよ」
同級生から“陛下”と呼ばれることに、どうにもむず痒さを感じてしまう。
するとミスラが、どこか面白そうに口を挟んだ。
「そうよ。なんたって、あなたの騎士は、うちのメイドを顎で使おうとするくらいなんですもの」
「んー? なんのことじゃか、ワシにはさっぱり分からんのう」
イマリは悪戯っぽい笑みを浮かべる。
そのやり取りに、張り詰めていた空気が少しだけ和らいだ。
「……うん、分かった。ありがとう、アサヒ君」
カワナミさんも小さく笑みを浮かべる。
そして一拍置き、再び真剣な表情へと戻った。
「イマリちゃんに聞いたんだ。アサヒ君が何かを決断する時は、いつだって“誰か”のためだって」
「……」
俺は答えなかった。
いや、答えられなかった。
自分では、そんなつもりはなかったからだ。
「今回もそう。思い上がりだって言われるかもしれないけど……心が壊れていた私のためだった」
真っ直ぐな視線が、俺を射抜く。
「私も……私だって、このままじゃ駄目だと思ってる」
彼女は身体の横で、ぎゅっと拳を握り締めた。
「八番領地のみんなを助けたい……そして、謝りたい」
その目には、涙が浮かんでいた。
けれど彼女は、それを決して流そうとはしない。
「だから……皆さんにお願いです……」
会議室全体を見渡しながら、彼女は言った。
「私達に、力を貸してください」
その言葉と共に、再び深く頭を下げる。
後ろに控えるイマリもまた、同じように頭を下げた。
会議室は静まり返っていた。
まるで、俺の返事を待っているかのように。
だが、最初に口を開いたのは俺ではなかった。
「それは、八番領地奪還のために兵を貸せ――ということでしょうかね?」
どこか試すような声音。
声の主は、デンスだった。
笑みを浮かべながらも、その目は鋭くカワナミさんを見据えている。
カワナミさんはゆっくりと顔を上げ、デンスの鋭い視線を正面から受け止めた。
「そういうことになります」
迷いのない声だった。
デンスは何も答えない。
その沈黙を破ったのは、ミスラだった。
「思い出すわね。あなたが初めてデンス達に頭を下げた日のこと」
ミリィが命を絶ってから数日後。
俺が決断を下した、あの日。
自分の不甲斐なさを詫び、デンス達に頭を下げた時のことだ。
「……やめてくれよ、ミスラ……」
俺は苦笑しながらそう返すと、カワナミさんを見る。
「カワナミさん。もとより、そのつもりだよ」
できるだけ優しい声で、言葉を続ける。
「もちろん、西側の防衛を考慮した上でだけど――俺達は、八番領地を取り戻すつもりだ」
リオデルカをはじめ、会議室にいる面々が静かに頷いた。
その言葉と光景に、カワナミさんは驚いたように息を呑む。
堪えていた涙が、とうとう頬を伝った。
「ありがとう……アサヒ君……ありがとうございます……」
俯いたまま、震える声でそう言う。
「さあ、席に着いてくれ。その話を今からしよう」
俺が促すと、彼女は小さく頷いた。
その背に、イマリがそっと手を添える。
“よくやった”
そう語りかけているような表情だった。
やがて二人が席へ着くと、これまで成り行きを見守っていたリオデルカが口を開く。
「さて、八番領地を支配している九番領地についてだが、ハンスに調べさせた」
ハンス・バトン。
リオデルカの治めるアテーナで、彼の右腕として働くパラディンだ。
「九番領地の領主は、フジムラ・ソウタという男だが……陛下、サクラ殿。どのような印象を持っておる?」
リオデルカは、俺とカワナミさんを交互に見ながら尋ねる。
「俺は……そうですね。クラスの一軍連中にはいたけど、中心人物って感じじゃなかったです。なんというか、流されやすそうな印象でした」
「一軍連中って……なんて表現よ……」
ミスラが呆れたように言う。
「私も、同じ印象かな……」
カワナミさんも、俺の言葉に同意するように頷いた。
「となれば、その男が八番領地を奇襲し、陥落させる策を立てたとは考えにくい。……やはり、あやつか」
「そうですね……」
アランも同意するように頷く。
「あやつ?」
俺が聞き返すと、リオデルカが答えた。
「レオン・バスカビル。ミスラも知っておろう。“無冠の傑物”と呼ばれていた男だ。武勇にも知略にも優れておる」
その名前が出た瞬間、ミスラの表情が一変した。
リンウェルもまた、驚きを隠せない様子で僅かに身を乗り出す。
「あの人が、ここに来ているの!?」
「あの方が……」
二人の反応は違えど、共通していたのは驚愕だった。
「どんな奴なんだ?」
俺が尋ねると、アランが代わりに説明を始める。
「レオン・バスカビル。かつてシルフィード王国で部隊長を務めていた男です。
平民出身ながら、その能力は群を抜いており、いずれ騎士団長にまで上り詰めると言われていました」
「なるほど」
「ですが、彼は貴族に対しても歯に衣着せぬ物言いをする人物でした。
貴族社会であるシルフィードでは、それが致命的だったのです」
「あぁ……」
なんとなく察しがつき、俺は苦笑する。
「その結果、出世街道から外され、“無冠の傑物”という二つ名だけが残った……というわけです」
アランはそう締めくくった。
そして、さらに言葉を続ける。
「加えて、九番領地にはオスワルド・サネもいるという情報があります」
その瞬間、会議室の空気がざわついた。
「オスワルドは……そうですね。この中だと、セシル殿と同じザブラ王国出身の戦士です」
「ん……たぶん、一対一なら……この中で一番強い……」
普段ほとんど口を開かないセシルが、無表情のまま言った。
「強敵だな……」
思わず漏れた呟きに、再び会議室が静まり返る。
知略に優れたレオンと、一騎打ちではこの場の誰よりも強いというオスワルド。
九番領地には、頭脳と武力――その両方が揃っていることになる。
(さて……どうしたものか……)
そう考えていた時だった。
「陛下、今回の件ですが――私に任せていただけませんか?」
静寂を切り裂いたのは、デンスの明るい声だった。
その瞬間、リオデルカの目が僅かに鋭くなる。
「任せるって、どうするつもりだ?」
「いえ。せっかくですし、ちょっかいを掛けてきた十六番領地も含めて、まとめて懲らしめてやろうかと」
どこか楽しげに笑うデンス。
俺はリオデルカを見る。
リオデルカはしばらく考え込むように目を伏せた後、小さく頷き、デンスへ視線を向けた。
「お主、無茶をするでないぞ」
その言葉を、この場にいるほとんどの者は、“命を粗末にするな”という意味に受け取っただろう。
だが、俺には違って聞こえた。
“血塗られた軍師”。
その異名を知る者として――。
きっとリオデルカは、非道な真似をするなと釘を刺したのだ。
そして、当のデンス本人も、その意味を理解していた。
「承知しました。過ちは繰り返しません」
そう答えたデンスの顔からは、いつもの笑みが消えていた。
いつの間にか、窓の外では夕日が大きく傾いている。
橙色の光が長机の上へ差し込み、広げられた地図に幾つもの長い影を落としていた。
八番領地。
九番領地。
そして、十六番領地。
デンスの影は、まるでそのすべてを覆い隠すかのように、地図の上を長く伸びている。
八番領地を取り戻す。
その目的を果たすための策が今、“血塗られた軍師”の頭の中で、静かに組み上がり始めていた。




