プロローグ:『台本』
月見坂市が『次世代型スマートシティ』としての基本区画設定を完了し、都市機能の全面的なネットワーク統合を高らかに宣言してから、今年でちょうど三十周年という記念すべき節目を迎える。
街の地下深くに葉脈のように張り巡らされた巨大な光ファイバー網と、無数に配置された環境センサー群は、交差点の信号機の点滅間隔から地下水道の流量、さらにはビル風の温度や湿度に至るまでを二十四時間体制で監視し、最適化している。市民のスマートフォン端末と連動したパーソナルデータは、高度に匿名化されつつも常に都市のメインアルゴリズムに吸い上げられ、誰もが渋滞のストレスを知らず、誰もが快適な空調の下で暮らし、誰もが『安全』という見えない分厚い毛布に包まれて生きている。それが、この月見坂市という完璧に統制された箱庭の正体であった。
そんな祝祭の空気に、月見坂市に拠点を置く地方テレビ局『月見坂放送』の社屋もまた、異様な熱気と野心を帯びていた。
空調の効きが悪い第三会議室の澱んだ空気の中、長机の上に分厚い企画書が勢いよく滑らされる。真新しいクリアファイルに綴じられた表紙には、極太の明朝体で『月見坂を創った一族・如月コンツェルン独占密着特番〜三十年目の真実〜』と仰々しく印字されていた。
「三十周年というこの絶好のタイミングで、月見坂の心臓部たる如月家を真正面から取り上げる。これが通れば、間違いなくうちの局の開局以来、歴代トップの最高視聴率を叩き出せます。メインスポンサーの食いつきも既にリサーチ済みです。どこもこの企画には予算を惜しまないはずです」
企画書を提出した入社一年目の新人アシスタント・ディレクター、桜野美紀は、興奮でわずかに声を上擦らせながら熱弁を振るった。彼女の目は血走っており、この企画を練り上げるために何日徹夜したのか、目元には濃い隈がくっきりと刻まれている。
向かいの席で、腕を組みながら企画書をパラパラと捲っているのは、敏腕ディレクターとして局内で幅を利かせている泊宗一である。彼はオーダーメイドの高級スーツに身を包み、手首にはこれみよがしに海外製の分厚い機械式時計を光らせていた。彼は企画書の数ページを眺めた後、鼻で笑うように息を吐き出し、唇の端を歪めて笑った。
「悪くない。いや、素材としては最高だ。如月コンツェルンといえば、この月見坂市のインフラから経済、果ては市民の生活ラインまで、すべてを牛耳っている実質的な王族だからな。会長の弦十郎氏や社長の彰氏の言葉には、それだけで画面に釘付けにさせる力がある。だが、桜野。それだけじゃあ、ただの退屈な企業PR番組、よくある御用達のヨイショ・ドキュメンタリーで終わっちまうんだよ」
「退屈、ですか。しかし、如月家の内部にテレビカメラが本格的に入るだけでも、市民の関心は圧倒的だと……」
「視聴者が本当に求めているのは、完璧な一族の『素顔』という名の綻びなんだよ」
泊は手元の企画書を指先で弾き、野心に満ちた鋭い視線を桜野に向けた。
「ドキュメンタリー枠で権威と歴史を見せつけつつ、クイズ番組や対談というバラエティの枠に彼らを引きずり下ろす。ここがこの企画の肝だ。特に、メディアにほとんど顔を出さない二人の令嬢、如月翡翠と如月瑠璃。この二人をスタジオの強い照明の下に立たせ、台本通りの『愛らしくも少し世間知らずで、どこかズレているお嬢様』として徹底的に演出する。計算し尽くされたクイズの回答や、庶民の生活とのギャップを笑いに変えるんだ。美しく、気高く、そしてスキャンダラスに消費させる。それがテレビという媒体が持つ、最大の魔法というものだよ。権威を一度持ち上げ、そして視聴者の目線まで引きずり下ろして親近感を抱かせる。これで視聴率は三十パーセントを確実に超える」
泊の瞳には、野心という名のギラギラとした欲望が泥水のように渦巻いていた。桜野は一瞬その圧力と、あまりにも露悪的なテレビマンとしての思考回路に気圧されたが、自身の渾身の企画が通った喜びに打ち震え、深く頭を下げた。
こうして、電波という名の巨大な虚飾の網が、月見坂の支配者である如月家に向けて無遠慮に投げ込まれることになったのである。
しかし、泊宗一は一つだけ、致命的な計算違いをしていた。
彼がレンズ越しに御そうとしている如月コンツェルンの次女、如月瑠璃という少女が、テレビの台本など一切意に介さない、極めて特異な物理的観察眼と情動の視座を持った存在であるという事実を。
**
僕の平穏な日常は、いつだって唐突かつ理不尽に終わりを告げる。
放課後の自室。僕はベッドの上にだらしなく寝転がりながら、推しの地下アイドル『魚魚ラブ』の最新ライブ映像をタブレット端末で鑑賞し、至福の時間を過ごしていた。センターを務める箱崎彩華ちゃんの躍動感あふれるダンスと、画面越しに伝わってくるファンの熱気に包まれ、僕は月見坂市の喧騒からも、学校の煩わしい人間関係からも完全に隔離された安全地帯を満喫していた。手元には、先日ようやく手に入れた限定版のペンライトが転がっている。
枕元に放り投げていたスマートフォンのバイブレーションが、無機質で暴力的な振動音を立てたのは、まさにライブが最高潮に達しようとしていた瞬間だった。画面に表示された発信者の名前を見て、僕は心臓がそのまま冷水に浸かったような錯覚を覚えた。
『如月彰』
如月コンツェルンの現社長であり、僕のクラスメイトである如月瑠璃の父親だ。以前、別荘地への招待や、如月コンツェルン絡みのことでで何度か言葉を交わしたことはあるが、直接個人のスマートフォンに電話がかかってくるような間柄では断じてない。そもそも、一介の高校生が大企業のトップから直接連絡を受けること自体が異常事態なのだ。
僕は震える指で通話ボタンをタップし、勢いよくベッドから立ち上がった。タブレットの中で箱崎さやかが歌う声が、ひどく遠くに聞こえた。
「は、はい。朔光太郎です」
『唐突ですまないね、光太郎くん。君に折り入って頼みたい仕事があるんだ』
電話越しの声は、大企業のトップとは思えないほど穏やかで理知的だったが、その背後には絶対に断れないという巨大な資本の威圧感がどっしりと潜んでいた。社長室の重厚な革張りの椅子に座り、市内の夜景を見下ろしながら話している姿が目に浮かぶようだった。
「仕事、ですか。僕にできることなら……いや、僕みたいな一般の高校生にできることなんて、たかが知れていると思いますが」
『単刀直入に言おう。瑠璃がテレビに出ることになった』
「はい?」
予想の斜め上をいく単語の組み合わせに、僕は思わず間の抜けた声を出してしまった。
あの如月さんが、テレビに。
他人の評価や世間の流行に一切の興味を持たず、公園の砂場に落ちている卵焼きのルーツを探ることや、雨ざらしの自転車の経歴を辿ることにのみ情熱を燃やす、あの孤高の天才である如月さんが。不特定多数の目に晒されるマスメディアに出演するなど、天地がひっくり返ってもあり得ない。
『月見坂市の三十周年特番だ。会長である父さんも、この街の三十年の歩みを総括するという企画の趣旨にすっかりノリ気でね。瑠璃は最初、当然のように一切の興味を示さなかった。だが、番組制作の裏側、つまり電波という形のない媒体が、どのようにして情報を歪曲し、モノのルーツを捏造して大衆に送り届けているのか。そのシステム自体を直接観察してやると言い出して、あろうことかクイズ番組の出演を快諾してしまったんだよ』
「それ、絶対に出演する動機を間違えてます。間違いなく放送事故になりますよ」
『私も全く同意見だ。だからこそ、君に頼みたい』
電話の向こうで、如月彰という男が、社長としてではなく一人の疲労困憊した父親として深く息を吐く気配がした。
『瑠璃には決して悪意はない。しかし、彼女の語る真実は往々にして鋭利すぎ、虚構を前提とした大人の世界を無慈悲に切り裂く。君には、特番の撮影期間中、如月コンツェルンの臨時嘱託員として現場に同行してもらいたい。名目は瑠璃の現場ケア担当、要するに彼女の暴走を未然に防ぎ、テレビ局の人間たちとの間に立つ安全装置だ』
「ちょっと待ってください。僕、ただの高校生ですよ。テレビ局の撮影現場なんて、どう立ち回ればいいか全く分かりませんし、そもそも如月さんが僕の言うことなんか聞くわけがありません。それに、僕は図書委員でもなんでもないのに、いつも如月さんに振り回されて……」
『彼女が心を許し、その特殊な言葉の真意を現世の言葉に翻訳できるのは、光太郎くん、君だけだ。頼んだよ。嘱託員としての報酬は弾む。最新のタブレット端末でも、その……アイドルの限定グッズでも、君の望むものを好きなだけ経費で落とすと約束しよう。では、よろしく頼む』
通話は無情にも一方的に切断された。
僕は手の中のスマートフォンを呆然と見つめた。大企業の社長から直々に『娘の放送事故を防ぐ防波堤になれ』と命じられたのだ。断るという選択肢は、初めから存在しなかった。僕は深くため息をつき、タブレットの電源を落として、しわくちゃになった制服のブレザーを羽織った。向かう先は決まっている。
**
放課後。僕は深い絶望と共に、旧校舎の図書室に立っていた。
ここは本来、生徒が立ち入ることのない廃棄されたような場所だ。床板は歩くたびに軋み、カビと古い紙の匂いが立ち込める空間だが、如月さんが勝手にアンティーク家具や高級な茶器、ふかふかの絨毯を持ち込み、我が物顔で占拠している彼女の絶対的な拠点である。
今日も如月さんは、学園のブレザー姿のまま豪奢な背もたれのある椅子に深く腰掛け、マイセンのティーカップを優雅に傾けていた。白く細い指先が繊細な模様の入った取っ手を掴み、銀の匙が微かに磁器に触れる音だけが静寂な室内に響いている。傍らのサイドテーブルには、彼女が鑑定時にのみ身に着ける純白の手袋と銀のルーペが、古い革の手帳とともに整然と置かれていた。
その艶やかな漆黒のストレートヘアは窓から差し込む斜陽を反射して微かに光を帯びており、ただそこに座っているだけで一枚の歴史画のような完成度を誇っていた。
「というわけで、僕が如月さんの監視役というか、お世話係として現場に同行することになりました。社長直々の命令です」
僕が疲労感たっぷりに報告すると、如月さんはゆっくりとカップをソーサーに置き、アメジストのように深い紫の瞳を細めた。
「監視役とはご大層な身分じゃな、サクタロウ。わしはただ、電波という虚飾の箱が、いかにして無価値な映像を垂れ流し、人々の情動をコントロールしようとしているのかをこの目で確かめに行くだけじゃ。お主はそこで、大人たちが己の作った虚構に押し潰されて阿鼻叫喚する様を眺めておればよい」
「すでに現場を破壊する気満々じゃないですか。お願いですから、テレビ局の人たちの前では、あまり専門的な鑑定とか、空気を読まない発言は控えてくださいね。彼らは真実を求めているわけじゃなくて、番組というショーを作りに来ているんですから」
僕が必死に懇願していると、図書室の重厚な木製の扉が、遠慮のない乱暴なノックと共に開かれた。
現れたのは、首から派手なストラップで入館証を下げた大人の男女だった。一人は小柄で、どこか怯えたようにきょろきょろと室内を見回している若い女性。もう一人は、いかにも業界人といった風貌の、自信に満ち溢れた足取りで踏み込んできた男性だった。
「失礼します。月見坂放送の泊です。如月瑠璃お嬢様ですね、本日は事前の打ち合わせと、ご挨拶に伺いました。こちらはADの桜野です。いやはや、歴史を感じさせる素晴らしいお部屋ですね」
泊と名乗った男性は、如月さんの姿を見るなり、その人間離れした美しさと威厳に一瞬息を呑んだようだったが、すぐに手慣れた様子で貼り付けたような営業スマイルを浮かべた。彼は室内のアンティーク家具を一瞥し、値踏みするような視線を送った。
「いやあ、お美しい。カメラ映えすること間違いなしです。今回の特番では、如月家の歴史を振り返りつつ、お嬢様の普段の素顔や、少しお茶目な一面なども視聴者にお届けできればと考えておりまして。お嬢様にはクイズ番組の解答者として、お姉様である翡翠様とご一緒に出演していただきます。もちろん、難しい問題には事前にヒントをお出ししますので、ご心配なく」
泊は手元の企画書を広げながら、ペラペラと調子の良い言葉を並べ立てる。如月さんは表情一つ変えず、ティーカップの縁を指でなぞりながら、ただ冷ややかな視線を泊の足元から頭のてっぺんまで往復させた。
ふと、泊の視線が、部屋の隅で所在なげに立っている僕に向けられた。
「ところで、そちらの少年は? 申し訳ないが、これから番組の根幹に関わる重要な打ち合わせをしたい。部外者は席を外してくれないか」
シッシッ、と犬でも追い払うような手つきをされる。僕は反射的に「すみません」と頭を下げて図書室を出ようとした。彼らにとって僕はただの高校生であり、この場にいる理由などないのだ。これで現場から解放されるなら、安い挑発だ。このまま家に帰って、アイドルの配信の続きを見よう。
「待つのじゃ、サクタロウ」
凛とした、しかし絶対的な冷たさを孕んだ声が、図書室の澱んだ空気を震わせた。
如月さんは静かに立ち上がった。彼女の身の丈は百四十七センチとひどく小柄だが、その存在感は眼前の大人二人を完全に圧倒していた。如月さんは一切の感情を排した声で言い放った。
「その者はわしの下僕であり、優秀な助手じゃ。わしの言葉を現世の愚鈍な言葉に翻訳する機能を持っておる。彼がいなければ、わしはお主たちの用意した薄っぺらな台本とやらを一切理解できぬし、理解するつもりもない。彼が同席せぬというのであれば、この話はここまでじゃ」
「なっ。下僕、ですか。いや、しかし部外者を撮影現場に入れるわけには……コンプライアンスの問題もありますし」
「ならば帰るがよい。わしはお主たちの作ろうとしている虚像には興味がない。興味があるのは、お主たちがどのようにしてその虚像を編み上げるかという、その姑息な手段のみじゃ」
如月さんは冷たく言い捨て、再び椅子に腰を下ろそうとした。
焦ったのは泊と桜野の方だ。ここで出演交渉が決裂すれば、彼らの目論見はすべて水泡に帰す。如月家の令嬢が出演拒否となれば、特番の目玉が一つ消滅するのだ。泊は顔を引きつらせながら、慌てて両手を振った。
「わ、分かりました。特別に関係者として現場への同行を許可しましょう。ただし、カメラの画角には絶対に入らないように。……チッ、現場の空気を乱さなきゃいいが」
泊は忌々しげに舌打ちをし、僕を睨みつけた。
僕は深くため息をついた。現場の空気を乱すのは僕ではなく、あなたの目の前に座っている、常に銀のルーペと懐中時計を持ち歩く美少女の方ですよ、と喉まで出かかった言葉を必死に飲み込む。
かくして、如月コンツェルンの臨時嘱託員という重すぎる肩書きを背負わされた僕は、テレビという巨大な虚構の世界へと、如月さんと共に足を踏み入れることになったのである。この先に待ち受けるのが、大人たちの悲鳴と台本の崩壊という地獄絵図であることを、僕はこの時すでに確信していた。




