雷を斬る3
七海と別れ、ウワバミと二人で帰路についた。
「さて、それじゃあ明日の用意をしなきゃな」
とウワバミは言い、由歌が「何か準備が必要なの?」と訊くと、
「昨日は夜更かししちゃったから、しっかり寝て英気を養うんだよ」
とのこと。彼にとっても睡眠は大切らしい。
「由歌も行くか?」
「うん。ついていく」
危険かもしれないけど、今回の怪異がどのような決着をつけるのか、由歌はこの目で直に見たかった。雷を斬るという対決は、心躍るものがある。
野次馬根性であることは認める。
家が近くなってきたので、ウワバミは如才なく猫の姿に戻った。
周囲に誰もいないから、会話をすることは可能だ。
「そういえばさ、七海さんは、怪異の魚に対して『通常の雷とは違って田畑に仇なす存在だ』みたいに言っていたけど、あれはどういう意味? 通常の雷は田畑に有益なの?」
ウワバミは、猫特有のくりっとした瞳を由歌に向けて、
「そこは人間の領分だろう。つまり科学だ。いや、化学かな。勉強しなさい」
普通に説教をしてきた。
まさか喋る黒猫に科学がどうとか言われるなんて。
「教えてくれてもいいじゃん」
「自分で調べた方が身に着くだろ。まったく、なんのための怪異だ。なんのための深淵だ」
少なくとも勉強するためじゃない。由歌はそう思ったけど、ウワバミの意見は違った。
「すべてを己の糧にしろよ」
その言葉は、由歌の胸にすとんと落ちた。素直にウワバミの忠告を受け入れることにした。
家に帰って、まずは祖父に訊いてみると、書斎に農業の歴史についての本がいくつかあるから、それを読むといいと教えてもらった。
祖父の部屋の隣にはちょっとした小部屋があって、そこは入り口以外の三方向を、床から天井まで本棚が埋め尽くしていた。
部屋の中央には木製の机とイスが置かれていて、それ以外に調度品は何もない。
由歌の父も書斎を持っていたけれど、あれよりも部屋は狭い。こっちは本の置き方も乱雑だし、種類も雑多で、どこか荒々しく、書斎というよりも秘密基地のようだ。
正直に言ってわくわくする由歌である。
父の書斎は、他人の目がそこにあった。ときどきお客様を呼んでいたし、人に見せるためにデザインされていたのだろう。
でも祖父の書斎はそうじゃない。徹頭徹尾、自分のためだけに作られている。
だからこんなにもわくわくするんだ!
祖父の部屋を経由しなければ行くことができないけれど、自由に出入りしていいと言われているから特に問題はなかった。
スマホで調べてもいいけれど、せっかくだからこの書斎を使わせてもらおう。
この段階ですでに情報の取捨は二の次となっていて、書斎に入ることが主目的と化していた。
というわけで書棚に入っている本をいくつか手に取った。
以下、調べた内容を要約してみる。
◇
窒素、リン、カリウム。
農業をする上で欠かすことのできない重要な元素たちだ。
昔は、土に窒素を供給させることが困難だった。それは空気中の窒素が『三重結合』という、共有結合の中でも、最も強力な形でくっついているからだ。
窒素分子の三重結合とは、雷ほどの莫大なエネルギーでようやく切断できるほどの、強固な結合だ。
雷によって引きはがされた窒素が雨に混じって大地に入り込むことで、やっと、土に窒素を供給することができる。昔の人は、雷が落ちると作物がよく育つことを知っていた。
他には輪作といって、定期的にマメ科の植物を植えることでも窒素を供給可能だが、基本的に土というものは、食物を植えれば植えるほどやせ衰えていく。だから良質な肥料は、どの国も喉から手が出るほど欲しがったのだ――。
ここでいったん、由歌は読書を中断した。
「農業も科学なんだ」
と、当たり前のことを由歌は呟いた。
それでいて、現在ウワバミが直面している問題は『雷に擬態した魚を斬る』というものだから面白い。ここまで非科学的な状況でありながら、ウワバミは現実の科学を重視するような発言をしていた。
どこに線引きがあるのだろう。
祖父が話してくれるような田舎の怪異譚と、いわゆるところのスピ系と呼ばれる話は何が違うのだろう。本質的な違いはなく、そこにビジネスやカルト、エセ科学が絡むかどうか、なのだろうか。
思考もそこそこにして、読書を再開した。
◇
1840年代のことである。
ペルーのチンチャ諸島には大量のグアノがあった。
グアノとは、海鳥の糞が堆積して鉱物化したものだ。何万年もかけて堆積した糞は、まるで雪が積もっているかのように、島を真っ白に染め上げていたらしい。
グアノは窒素やリン酸を豊富に含んでいて、良質な肥料となった。
この島――というか良質な肥料を巡って、スペインとペルーで戦争が起こったほどだ。しかし、そんなグアノも二十年ほどで底をついた。何万年もかけた糞の堆積も、人間が本気で掘れば二十年と保たなかった。
次に人々は、ペルーのアタカマ砂漠にある硝石に目を付けた。
グアノのときと同じように、各国が熾烈な争奪戦を繰り広げた。
ペルーとボリビア、チリは、この天然資源を巡って戦争を行った。
硝石戦争である。この戦争にはチリが勝利した。
ペルーやボリビアが支配していた硝石産地であるアタカマ砂漠は、このときにチリの領土となった。だからこの場所で採掘された硝石を『チリ硝石』と呼ぶ。これがあの有名なチリ硝石だ。チリ硝石の用途は肥料だけにとどまらず、火薬としても重宝された。
さて、このように各国が硝石の争奪戦を行う中で、危機感を抱いた国があった。
ドイツだ。
統一が遅れ、帝国主義に後から乗り込んできたドイツには、植民地をあまり持っていなかった。
もしもイギリスと戦争になり、海上を封鎖されてしまえば、硝石を輸入することができなくなる。そうなれば作物も火薬も十分に作れない。
そこでドイツは、なんとしても、空気中の窒素からアンモニアを作る方法を模索しなくてはならなくなった。
ここで二人の化学者が登場する。フリッツ・ハーバーとカール・ボッシュである。
ハーバーが空気中からアンモニアを作り出すことに成功し、ボッシュがその技術を、事業として展開できるまで拡大させた。だから、空気からアンモニアを合成する反応のことをハーバー・ボッシュ法と呼ぶ。
それは『空気からパンを作り出す魔法』と言われた――。
あまり関係のない部分まで読み込んでしまった。
いや、関係あるか。祖父が田畑に撒いている化学肥料は、こういう歴史を経て作られたものだ。
ドイツで試行錯誤の果てに生み出された技術が、今は日本の片田舎で普通に使われている。こういったことが、怪異と同じくらい不思議だと由歌は思う。
本を閉じて、棚に戻した。
「また今度、続きを読もう」
自室に戻ると、宣言通りウワバミがクッションの上で丸くなって寝ていた。明日に備えて英気を養っているのだろう。
由歌も畳の上にごろりと寝ころんだ。
午前三時に、スマホのアラームが鳴った。もちろん音量は最小にしてある。祖父に気づかれたら面倒だからだ。
今はまだ三月である。
夜に出歩くとなれば、暖かな格好をする必要がある。
というわけで耐水性の厚手のコートを羽織り、その下はしっかりと着込んだ状態で、抜き足差し足、ウワバミと一緒に廊下を歩いた。ちなみに廊下はいつも通りの廊下だったし、祖父に気づかれることもなかった。
ここから田畑までは徒歩五分ほどなので、時間を調整して、三時四十五分には家を出た。
夜気が頬を撫でる。外は思った通りの寒さで、由歌はコートの前をかき抱いた。
ウワバミはすぐに人間の姿になって、準備運動なのか肩をぐるりと回した。ベルトには錨やら酒瓶やらと一緒に、刀がしっかりと差されている。
空は分厚い雲が覆い隠していて、月明りも星明りもないため、スマホのライトを点けて進む必要があった。
そのうち、ぽつりぽつりと雨が降ってきた。予想していたことだったから、由歌は持ってきていた傘を広げた。ウワバミは濡れるに任せて進んだ。
「どうして傘を持たなかったの?」
「刀を抜くのに邪魔だから」
「そっか」
「だからさ、由歌。その傘に入れてくれないか? 濡れたくないんだ」
最初からそのつもりで傘を持ってこなかったのか。
「……いいよ」
心情的には嫌だけど、ウワバミの両手は開いていた方がいいと冷静に判断した。
とっさのときに対応できるのはウワバミだけだ。
由歌は、ウワバミが戦闘に専念できるよう、細かな配慮をした方がいいのかもしれない。というわけで嫌々ながら、由歌とウワバミは相合傘をして、夜の農道を歩いた。
この辺りは街灯もなく、また時間が時間なだけに車通りもまったくなかった。
一寸先は闇、という常套句が思い浮かんだ。深淵でなくとも、月がなければ世界はこんなにも暗い。でも隣に誰かがいてくれるだけで、少なくとも退屈せずにすむ。
ウワバミの身長は高く、由歌は傘を持つ手を、平素より上げなければならなかった。
「もうちょっと俺の方に傾けろ」
「ウワバミって風邪を引くの? 多分引かないでしょ。僕は人間だからさあ」
「だからなんだよ」
「濡れたら困るわけ」
「俺だって困るっての!」
まあ、こんな夜も悪くない。
雲のない夜道を歩いていると、初めて深淵に行った――というか引きずりこまれたときのことを思い出した。
「そういえば、ウツロって今も袖の中にいるの?」
深淵で道案内をしてくれた透明な魚のことだ。あのときから会っていないので、少し気になっていた。ウワバミは袖をひらひらと振った。
「袖の中というか、袖の中と繋がっている深淵にいる。あいつは深淵でしか生きられないからな。こっちの世界では会えないよ」
「そっか」
「由歌が気にしていたと、伝えておくよ」
なんて会話をしていると、すぐに祖父の田んぼに辿りついた。
まだ水を張っていないから、靴のまま踏み入ることができる。雨は降り始めたばかりで、土もぐずぐずになっていない。
「時間は?」
ウワバミが問い、由歌はスマホを確認した。
「午前三時五十五分」
「ちょうどいいな。由歌はもう少し離れていろ」
ウワバミは由歌を気遣い、濡れたら困ると言っていたことなど忘れたように傘から脱し、そのまま一人で、ぱしゃりぱしゃりと水音を立てながら田んぼの中央まで歩いた。
雨脚が強くなり、ウワバミの全身を叩くように地面へと落ちていく。由歌はあぜ道まで戻ってからスマホのライトを消した。点けていても、もう役に立たないだろう。
傘を叩く雨音がどんどん強くなっていく。
遠くの空でゴロゴロと音が鳴り始める。
ウワバミがすらりと刀を抜き放った。光のない中での抜刀に、刃は何も反射せず、闇に溶けるように黒かった。
由歌は今この瞬間まで、ウワバミがなんらかの策か、あるいは能力を駆使して雷を斬るのだと思っていた。どうやら違うらしいと、彼の所作を見ていて気がついた。力技で、雷を斬ろうとしている。いや、雷に擬態した魚だったか。
怪異の名前は雷霆鱗。
百瀬家の田畑に仇なす存在――。
一瞬、辺りが光った。ウワバミの横顔がくっきりと由歌の脳内に像を結んだ。すぐに轟音が鳴り響く。光と音の間隔の狭さから、近くに雷が落ちたのだとわかる。それが二、三度繰り返された。
ウワバミが、しゃがみ込むように体勢を低くした。刀を構える。
一呼吸の間があった。
不思議と、雨の音がいっせいに消えた。
奇妙な無音の中でウワバミは空高く跳び上がり、刀を振った。この町のすべてが光った。その光景は、後から脳内で補完することしかできない。あるいは見えてもいないのに、由歌の脳みそが勝手に創り出した映像かもしれない。
落ちてくる閃光と、斬撃の閃光が重なった。
線香花火のように、もしくは大樹の複雑な枝葉のように、スパークした雷が周囲に飛び散った。
まるで空にヒビが入ったかのような光景であり、その一瞬だけ光と影がはっきりと分かれ、陰影がすべての物体に焼き付いた。少なくとも由歌にはそう見えた。
同時に轟音が鳴り響いたけれど、どこか悲痛なその音は、雷――怪異の魚が引き裂かれたがゆえの悲鳴だったのかもしれない。
【参考文献】
トーマス・ヘイガー『大気を変える錬金術――ハーバー、ボッシュと化学の世紀』渡会圭子訳、みすず書房、2010年5月




