雷を斬る2
なんのことはない、向かった先は近所の公園である。
空き地が広がっているサッカーや野球ができるような場所ではなく、山から下りてくる水の周りを日本庭園風にアレンジした自然公園だ。
ちょっとした滝と池を作り、その周囲に石橋や石畳を配置し、所々にベンチを置くことで、散歩やピクニックに最適な憩いの場になっている。
今時分は梅の木が満開に咲きほこり、桜よりも慎ましやかな白い花が、公園の天蓋を淡く彩っていた。
池に視線を向けると、魚の影がひょろひょろひょろと素早く動き、岩場の下に隠れるところだった。
魚って、意外と素早いな。
その池に背を向ける形で置かれているベンチに、一人の女性が座っていた。
二十代前半くらいだろうか。春風にゆれる茶髪は軽やかなエアリーショートで、見ようによっては、くせっ毛の少年のよう。
着ている服は膝まであるグレーのコート。すらりとした黒いストレートパンツを合わせていて、モノトーンでまとまっている。
「……っ!」
由歌は、思わず悲鳴を上げそうになった。
遠目からでも、その女性の『異常』が嫌でも目についた。
たくさんの白い手が、彼女の周囲に漂っている。手は二の腕から先がすうっと消えていて、まるで白い魚が宙を泳いでいるかのよう――と、ムリヤリならば優雅に例えることもできる。でもやっぱりどこをどう見てもそれは人間の手であり、生理的な嫌悪感を抱かずにはいられなかった。
「よう、七海」
いつの間にかウワバミは人間の姿に変化していた。つまり彼女は普通の人間じゃない。
まあ一目見ればわかるけど。
七海と呼ばれたその女性は、立ちあがってゆっくりと頭を下げた。
「お久しぶりです、淵屋様」
「淵屋~?」
由歌がウワバミを見ると、
「屋号だよ屋号。酒を売るときはそう名乗っているんだ」
ウワバミは鬱陶しそうに手をひらひらとさせた。
ウワバミにクロに淵屋に、どれだけの名前を使い分けているのだろう。
ウワバミは自分の背中に手を回して、何もない空間からまるで手品のように一升瓶を取り出した。羽織っているボロボロの着流しが、どこかの収納空間へと繋がっているのかもしれない。
「注文通りの品だ。十年物の深淵埋蔵酒」
一升瓶にはラベルが張られておらず、かといって安っぽい感じでもなかった。
良かった、豪勢な字体で『深淵埋蔵酒』と書かれていたらどうしようかと思った。それはそれで良いデザインな気もするけど。
そしてまた、お酒には名前がついていないらしかった。
埋蔵している場所や、熟成している年数でしか区別していないのかもしれない。
じゃあ由歌の体内のお酒は『由歌埋蔵酒』になるのか?
四歳のときに入れられて、取り出せるのは二十歳だから、売る時は十六年物ですってか?
そもそも売るのか?
少しやさぐれる由歌だった。
ウワバミが瓶を差し出すと、七海は頭を下げたまま受け取った。それからゆっくりと顔を上げて、
「ありがとうございます」
礼を言い、大事にその瓶を両手で抱えた。辺りに漂っている白い手のいくつかも、その一升瓶を支えている。絶対に落とすことがない、盤石の体勢である。
女性はここで、ようやく視線を由歌に向けて、首を傾げた。
「ああ、彼は水野由歌。俺の友達だ」
ウワバミが紹介してくれたけど、その内容に由歌は驚いた。
「いつから友達になったの?」
「二十歳になったら酒を飲もうって約束しただろ。友達じゃない奴に、そんな約束するか」
「う、うん」
「なんだよ、嫌か?」
由歌は慌てて首を横に振った。嫌じゃない、むしろ嬉しかった。そんな由歌の様子に満足したのか、ウワバミは得意げに「ふふん」と笑った。今度は由歌に向かって、
「こちらは木戸七海。赤ちゃんのときに深淵に捨てられ、そのまま怪異に育てられた人間だ。今はこっちの世界にいて歯科衛生士として働いているが、怪異との繋がりは健在だ。育ての親に酒を送るために俺と取引をしている」
さらりととんでもないことを言われた気がする。
「初めまして、水野由歌様」
七海が慇懃に頭を下げた。由歌は一歩下がって、
「そ、育ての親って?」
「この白い手が、私を育ててくれました」
七海が慈しむように、周囲の白い手を眺めた。
一点の曇りもないその表情に、由歌の背筋が震える。
質問するのも怖くて、由歌は助けを求めるようにウワバミを見た。
「まあ、そういうことだよ」
とウワバミは投げやりに答えた。続けて、
「七海は俺の酒を受け取る代わりに、白い手が見聞きした有益な情報を教えてくれる。そういう取引なんだ。白い手は深淵だけでなく、この世界にもいる。本当に、どこにでもいるんだ。草木のようにいると言っても過言ではないな。だからかなりの情報通ってわけだ。機嫌を損ねたら、寝ている間に首を絞められて殺されるかもしれないぜ」
「……冗談だよね」
「七海に訊いてみるといい」
ウワバミが言ったので、由歌はそのまま七海に視線を向けた。彼女は今のやり取りを聞いていたはずなのに、困ったように首を傾げるだけだった。あ、これは本当のことだ、と由歌は察した。
「今はこの辺りに住んでいるから、由歌も何かあったら彼女を頼るといい。相応の物を差し出せば、取引に応じてくれるぞ」
「ええ? この辺りに住んでいるの……?」
由歌が怯えたような声を出すと、
「いけませんか?」
柔らかな声で七海が答えた。由歌は勢いよく首を横に振った。
赤ちゃんのときに深淵に捨てられたって言ったよな。そして白い手が育てた。でも今は普通に働いている……。戸籍とかどうなっているのだろう。
「さて、それじゃあ情報をくれないか」
ウワバミが話を戻すと、七海は「承知いたしました」と言い、
「明日の午前四時きっかりに、百瀬家の田んぼに向かって、雷に擬態した魚が下りてきます。通常の雷とは違って田畑に仇なす存在でございますゆえ、できれば地面に到達する前に斬った方がよろしいでしょう」
「雷霆鱗か?」
それが怪異の名前なのだろう。七海が頷く。
「はい」
「つまり雷を斬れってことだよな」
ウワバミが確認するように言い、七海が訂正するように、
「雷に擬態した魚でございます」
「難易度は同じだろう?」
「そうですね」
これが有益な情報だって?
それこそ冗談だろ。
ただの無茶難題を吹っ掛けられただけのように思える。
でもウワバミと七海は平然と話を続けていて、
「なぜ百瀬家の田んぼが狙われたんだ?」
「淵屋様が百瀬家に戻ったことを快く思わないものたちの仕業でしょう」
「あ、俺のせいか」
ここで由歌はウワバミの袖を引っ張って、
「どういうこと?」
小声で話に割って入った。
「俺の酒を横取りしようと企み、返り討ちにしてやった奴らは山ほどいるんだ。俺はそこそこ恨みを買っているんだよ」
「ええ? 恨み?」
「仁と由歌には、迷惑を掛けないから」
「僕は昨日、鼠に殺されそうになったけど」
「あれは俺の仕業じゃない。変な家を作った百瀬家のご先祖様のせいだ」
たぶんそうなのだろう。由歌には真実を知る術がないから、ウワバミの言うままに信じるしかないけれど、嘘は言っていないように思える。
「迷惑を掛けることがあったとしても、助けた回数と合わせてプラスマイナスゼロだって。な? だから追い出さないでくれ」
「急に下手に出ないでよ。追い出さないって」
「ありがてえ、ありがてえ!」
「キャラ違くない?」
それこそ現状、結界が破られたときに張り直すことのできる存在がウワバミ以外にいないわけだし。
そう考えるとあの家はかなり危険だ。取り壊した方がいい気さえする。
祖父に建て替えるよう頼んでみようか。
……いや、今の関係性では、たとえ冗談でも口に出すことはできない。
祖父が何に怒り、何に悲しむのか、由歌はまだ何も知らない。祖父は、父や母のように簡単には怒らない。そのおおらかさが心地良いけれど、でもそんな祖父を一度でも怒らせてしまったら、由歌は終わりな気がする。
それこそ、家を追い出されてしまうだろう。
「責任をもって、俺が雷を斬るよ」
ウワバミが自信満々に言い、
「魚に擬態した雷でございます」
とやっぱり七海が訂正した。
由歌は怖かったけれど、ずっと気になっていたことを訊くことにした。
「あの、木戸さんは――」
「七海でいいですよ」
「わかりました。七海さんは育ての親である白い手に、お酒を送ってあげるんですよね?」
「そうです」
「白い手は、どうやってお酒を飲むんですか?」
七海は少し考えてから、
「熱燗にして」




