雷を斬る1
昨日の夜は、結構遅くまで晩酌をしてしまった。
それでも二人と一匹は、朝の六時にしっかりと目を覚ましたのだった。
今日も今日とてウワバミはお酒を舐めている。その光景を祖父と眺めながら、
「朝からお酒を飲んでいるけど、いいの?」
「許してやってくれ。クロは我が家の守り神なんだ」
「それは、そうだね」
なぜかはわからないけど、百瀬家を守ってくれていることだけは確かだ。
祖父は念を押すように、
「俺はな、比喩ではなく本当に守り神だと思っているよ。あれは普通の猫じゃない。そうじゃなきゃ、酒などやらない」
「……怖くないの?」
「なぜだ? 守り神だと言っただろ。俺たちを守ってくれている存在を怖がるわけがない」
それは、確かにそうか。
「でもさ、おじいちゃんって、『お化けとか妖怪とかは見たことがない』って言っていなかった?」
「ああ、見たことがないよ。クロは神様だ」
なるほど。理屈は通っている。
それに祖父は最初から『不思議な経験はしている』と言っていた。
目の前の黒猫が異常な存在だとわかっていても、特に不安にならず、掘り下げもせず、平静に日常生活を送っている。
この距離感が由歌には心地よい。
「お酒以外に、何か食べているところを見ていないけど」
「俺が作った米は食べるよ」
とのこと。酒を飲んで白米を食べて、まるで人間のようだ。
あるいは神様のようだ、とも言えるか。
結局、ウワバミの正体はなんなのだろう。
人間なのか黒猫なのか、怪異なのか神様なのか……。
当のウワバミはどこ吹く風といった様子でお酒を舐めている。祖父が炊いたばかりの白米を持ってくると、それも器用に食べ始めた。どうやら猫舌ではないらしい。
どうして祖父の作った米は食べるのだろう。
裏口にある土蔵はこの家を守るために配置されているらしいけど、中で保管している米にも、何か特殊な力が宿っているのだろうか。
疑問の尽きない由歌である。ずっとウワバミを観察していて注意が散漫だったのか、テーブルの上のコップに手が当たり、水を零してしまった。由歌はすぐに祖父の顔色を伺った。怒声が飛んでくると思って、体にぎゅっと力を入れた。でも祖父は、
「おー、活きのいいコップだなあ」
と言い、立ち上がって布巾を持ってきた。由歌も慌てて席を立つ。
「ご、ごめんなさい」
「いいっていいって」
祖父は穏やかな表情のまま、テーブルを拭く。その後、何事もなかったように食事は続けられた。そのことが由歌には信じられなかった。
朝食を食べ終えて、由歌はもう一度祖父にお礼を言ってから自室に引っ込んだ。そんな由歌の後を追って、ウワバミもするりと部屋の中に入ってきた。
クッションが二つあって良かった。
一つは自分に、もう一つはウワバミに投げる。ウワバミはいつの間にか人間の姿になって、
「お、ふかふかだ」
と言いながら胡坐をかいていた。
いつもと同じ格好をしているが、ベルトには何もつけておらず、またごついブーツも履いていなかった。室内でくつろぐための格好だ。
「深淵以外でも、その姿になれるんだ」
「なれるさ。姿形は自由自在だ」
「ウワバミの正体は猫なの? それとも人間なの?」
「どちらでもない。猫や人間以外の生き物にも変化することができる」
そして実際に、黒い犬に変化して見せ、
「ほらな」
と犬の形のまま喋った。何とも言えない奇妙な光景に、脳みそが少しごちゃついた。
そんな由歌をからかうようにウワバミは、トンビ、イワナ、ライオンに虎といった動物に次々と変化した。
どの動物も、黒い色に赤い瞳という共通点を持っていた。
ウワバミの名に恥じない巨大な黒蛇の姿になったときは、あまりのおどろおどろしさに、見ているだけで腰が抜けそうになった。やっぱりこれこそが彼の正体なんじゃないかと思ったほどだ。
目を丸くしている由歌に向かってその黒蛇は、
「ははははは!」
と人間のように笑った。昨日の晩酌のときも、喋ろうと思えば喋れたのだろう。にゃあにゃあと可愛らしく鳴いていたのは、ただのフリだったのだ。あざとい。
足音が聞こえた。
誰かが階段を上ってくる。
その誰かは由歌の部屋の前で止まり、律儀にもとんとんとんとノックをしてきた。
「ユウタ? どうした? 誰かいるのか?」
誰かも何もない、祖父だ。他に候補がいるはずもないのに。
ここ最近いろいろなことが起こりすぎて、当然の事柄であっても断定できなくなっている由歌だった。
「開けてもいいか?」
祖父が言う。おそるおそる、といった様子が扉越しでもわかる。気を使ってくれている。
由歌がウワバミに目配せをするまでもなく、ウワバミは黒猫の姿に戻っていた。
「いいよ~」
由歌が答えると、扉が開き、祖父が顔を出した。
ぐるりと部屋の中を確認し、
「あまり詮索するつもりはなかったんだが……話し声が聞こえるし、奇妙な悪寒もするしで、ちょっと気になってな」
話し声はともかく、悪寒?
ウワバミの七変化が、階下にいる祖父の五感に、何かを訴えかけたのかもしれない。鈍いようでいて、さすがに鋭い。
「ああ、うん。友達と通話していた」
「そうか。まあ、それならいいんだが……」
あまり納得していない様子だ。
でも最初に言った通り、詮索する気はないらしい。
視線を黒猫に向けて、
「クロもここにいたのか。ユウタのこと、よろしく頼むぞ」
と言った。クロ――ウワバミは、任せろとでも言うように、「にゃあ!」と勢いよく返事をした。祖父は満足そうに頷き、居間に戻った。
しばらく間を置いてから、
「にゃあ、じゃないよ」
由歌が言うと、ウワバミは黒猫の姿のまま、
「ワンと答えれば良かったか?」
「どうして祖父の前では黒猫なの?」
「結局のところ、俺はちゃんとした人間じゃあないからな。特別な事情でもない限り、人間の前では他の動物に擬態していた方がいいのさ。雉も鳴かずば撃たれまいってな」
わざわざ雉の姿に変化したウワバミがうそぶいた。
もしかしたら、怪異に敵対する勢力がいるのかもしれない。ウワバミの口調から、漫然とそういった対立を感じ取ることができる。
あるいは怪異同士で敵対しているのか……。
それにしても、祖父の前で動物の姿をしている理由は教えてくれたけど、それが黒猫である理由までは答えていない気がする。
特に意味はないのだろうか。
「仁は、俺が普通の猫じゃないってわかっているがな。それでも一応、あいつの前では猫の姿でいたいんだよ。これはもう理屈じゃなくて、ただの意地かもな」
「僕の前では黒猫じゃなくていいの?」
「由歌は特別だから」
自分がウワバミの特別である、ということが少しだけ嬉しかった。
たとえそれが、由歌の中にあるお酒を守るという事情に因るとしても。
窓の外を眺める。相変わらず、突き抜けるような青空だった。山の稜線はまだまだ白く、標高が高いところは雪が溶けていない。少し前までは東京にいたのに、と不思議な気持ちになる。
「おじいちゃんって、怒ることがあるのかな」
「訊いてみれば?」
ウワバミの答えは素っ気ない。
由歌は窓の外から視線を戻して、
「結局、深淵ってなんなの?」
改めて訊いてみたけれど、ウワバミは肩をすくめて、
「俺にもよくわかんねえよ」
「深淵は、怪異の住まう場所なんでしょ?」
確か、そんな風に言っていたような気がする。
「基本的にはそうだが、俺のように、現世に居を移した怪異もたくさんいる。昨日の鼠もそうだな。奴はこっち側から結界を破壊したわけだし」
「行き来は自由なの?」
「俺は自由だ。でも、決められた入り口しか通り抜けられない怪異もいれば、誤ってこっちの世界に来てしまい、帰れなくなってしまった怪異もいる」
いろいろなパターンがあるらしい。
「君にはちょうどいいタイミングかもな」
ウワバミはそう言いながら黒猫の姿に戻り、四つん這いで背中を伸ばすという猫特有の背伸びをした。
「これから知り合いの怪異に酒を届けに行く予定だが、由歌もついてくるか?」
猫の姿のまま喋る。
「危険じゃない?」
「そいつは危険じゃない」
じゃあ安全だね、とはならない。でもあの鼠に襲われてから、怪異に対して無知なままでいてはいけないと思うようになった。由歌に対抗手段がないのだとしても、ある程度の知識は蓄えておいた方がいいだろう。
「わかった。僕も行くよ」
由歌も、両手の指を絡ませてからそれを上に向かって伸ばすという、人間特有の背伸びをしてから、ゆっくりと立ち上がった。




