まっすぐな廊下3
刀はすでに抜かれていた。
ウワバミの右手が持つ抜身の刃が、LED電球の光を反射している。
一陣の風は斬撃だったらしい。
「間に合ったようだな、由歌」
安堵の息を吐いたウワバミの姿を見て、またしても十年前の記憶が蘇ってくる。あのときも助けてくれたのは彼だった。彼だったんだ。
「……思い出した」
由歌が呟く。
ウワバミは、刀の峰で自分の肩をとんとんと叩いてから、巨大な鼠に相対する。
鼠は怒っているのか、大きく口を開けてキイキイと鳴き、威嚇してきた。それに委細構わず、ウワバミは刀を両手で持ち、目にも止まらぬ速さで振るった。
尾を引くような残光によって、瞬時に六回もの斬撃が飛んだのだと、由歌にはかろうじてわかった。
鼠が細切れになる。赤い血ではなく、黒い霧のようなものが飛び散った。それらは壁や床に付着することなく消えていった。
これもまた、十年前に見たのとまったく同じ光景だ。
「あ、ありがとう」
由歌がお礼を言うと、
「いいよ。君の中には大事なお酒があるしな」
ウワバミが軽い調子で答えた。やっぱりお酒のためか。
たとえそうだとしても、由歌のことを守ってくれたのには変わりがない。
ウワバミは延々と続く廊下を眺めて、
「しっかしな、鼠ってやつはほんと、どこにでも現れる。この家には俺の結界が張ってあったはずなのに」
「結界?」
急に呪術的な言葉が出てきて、由歌は驚いた。
「何年も前の話さ。百瀬家には、深淵と行き来できる能力のある奴がいたんだ。そいつは、自宅から深淵に行ければ便利だと考えて、この家を深淵の入り口として設計した」
そりゃ便利だろうけど、コンビニに行くのとはわけが違うだろ。
なんてはた迷惑な奴だ。
「この家は、条件を満たした人間が玄関から入れば、裏口が深淵に繋がるよう呪術的にデザインしてあるんだよ」
「僕は、その条件を満たしているってこと?」
「いや、満たしていない。由歌が襲われたのは別の理由だ」
別の理由?
「裏口の扉を開けた先に、二つの土蔵があるだろ。あれは百瀬家における守護方陣の要なんだよ。神社でいうところの、狛犬のようなもんだ。あの土蔵がしっかりと機能しているうちは、この廊下と深淵は繋がらず、怪異が入ってくることもないはずなんだが……」
ウワバミは肩をすくめてから続ける。
「あの巨大な鼠は、その名を穿鼠と言う。奴は何にでも穴を開けちまうんだ。百瀬家の土蔵に穴を開け、そこに張られている結界を破って深淵へと横穴を掘り、自分の好きなように空間を創りかえちまった。それがあの長い廊下の正体ってわけだ。十年前の由歌は、だから鼠に襲われたんだよ」
かつての祖父を悩ませたスーパーラットは、怪異の鼠――穿鼠だったようだ。そりゃあ駆除業者に頼んでもダメだろう。
「でもそれって十年前の話だよね。今回も同じ理由? 最近、土蔵に穴が空いているなんて話をおじいちゃんから聞かなかったけど」
祖父が言っていたヤバい鼠の話は過去のものだった。
土蔵が結界の要なら、今回は破られていないのだから、由歌が襲われたのは違う理由に因るはずだ。
ウワバミがこちらに向き直った。
長い前髪の隙間から覗く赤い瞳が、由歌のことを見つめている。
「君の存在が理由だろうな」
「僕?」
「俺のお酒を体内に入れている君がここに来たことで、結界にちょっとしたゆらぎが生じてしまったんだろう。その隙を逃さず、穿鼠はまたしても結界を破り、君を強襲した」
そしてお酒を体内に入れていたおかげで、由歌はウワバミに助けてもらえた。
マッチポンプのような気がしないでもない。
「十年前の穿鼠と個体こそ違うが、同種だろう。仲間が一度破っていた結界だったからな、おそらく道筋はついていた。鼠からすれば、踏みなれた獣道の入り口が、ひょんなことから復活したような感覚だったのかもな」
獣道を行くようなイメージで、あの無機質な一本道の廊下を生み出せるのか。
怪異とは、なんと恐ろしい。ウワバミがいなければ普通に死んでいた。
「……おじいちゃんはこのことを知っているの?」
「仁か? 知らないだろうな。あいつ、能力はあるけど鈍いから。こういった事態に巻き込まれても、なんとなく回避できるというか、逃げ出せちまうんだ」
ああ、祖父はそういうタイプな気がする。
少ししか会っていないけど、なんとなくわかる。
「でも君は違うだろ。要領が悪そうだ」
「……」
当たっているから反論もできない。
「こんなことが二度と起こらないよう、しっかり結界を張り直さなきゃな」
ウワバミが頭をかいた。
由歌は話を聞いていて、不思議に思うことがあった。
「どうしてウワバミは、結界を張ってくれるの? この家を――おじいちゃんと僕を守ってくれるってことだよね?」
「うーん。まあ、俺にもいろいろあるんだよ」
それ以上教えてくれる気はないのだろう、ウワバミは言葉を切って、気まずそうに視線を逸らした。由歌もその意を汲んで、質問を少し変えることにした。
「そもそもさ。十年前に、どうして僕を助けてくれたんだ?」
東屋が壊れそうになったときも、そして今回も、由歌の体内にお酒が入っているからウワバミは助けてくれた。
じゃあ最初の一回目――お酒を入れられる前の由歌を、どうしてウワバミは助けようと思ったのか。この前会ったときは、見どころがある人間にはお酒を入れると言ったけど、どうもそれだけじゃない因果を感じる。
この質問に対してもウワバミは、
「いずれ教えることがあるかもな」
とお茶を濁すだけだった。
情報が少しごちゃごちゃした気がする。
由歌は時系列を整理して、自分が何をわかっていないのか、しっかり把握することにした。
この家には、かつて深淵に行き来できる者がいたらしい。
そいつが百瀬家の廊下を、深淵と繋がるようデザインした。なんらかの条件を満たした状態で玄関から入ると、裏口が深淵に繋がるという仕組みだ。
裏口を出てすぐの場所に、米を保管しておくための土蔵が二つあり、これを百瀬家における守護方陣の要とすることで、深淵に住まう怪異がこっちの世界に来ることがないよう結界を張っていた。
十年前、そこに怪異の鼠――穿鼠が現れた。
この鼠は至る所に穴を開けるという習性を持っていて、土蔵の結界をも壊し、百瀬家の廊下を利用して深淵への横穴を掘った。
それが延々と続く廊下の正体だった。
十年前の由歌はそこに迷い込んでしまったが、ウワバミに助けられた。なぜ助けてくれたのかはわからない。ウワバミはこのとき、由歌の体内にお酒を入れた。
月日が経ち、由歌は再びこの家にやってきた。
土蔵は壊されておらず、また結界もしっかりと機能していた。
でも、ウワバミのお酒が体内に入っている由歌がこの家に足を踏み入れたことで、結界にゆらぎが生じてしまった。
十年前と、個体は違うが同種の穿鼠が目敏くやってきて、そのゆらぎを利用し、一度は閉じたはずの横穴を繋げてしまった。そして由歌は、その横穴に放り込まれる形で、穿鼠に襲われた。
ウワバミは、お酒を通じてその宿主である由歌の危機を察知し、助けに来てくれた。
こんな感じか。
わかったことも多いけど、わからないことも多かった。
特に百瀬家とウワバミの繋がりが不明だ。そしてウワバミは、現段階でその情報を明かすつもりはないらしい。
「君も、いろいろと巻き込まれやすい体質みたいだな」
ウワバミが苦笑しながら言った。由歌は頷き、
「そうみたい」
話していると、延々と続く一本道だった廊下が、ぐにゃりぐにゃりと生きているように曲がり始めた。空間自体がムリヤリ縮んでいくような感覚に、眩暈がする。
いつの間にか襖や引き戸、階段が復活し、裏口と玄関もどこからともなく落ちてくるようにして、元の場所に帰ってきた。
何度か瞬きをする間に、由歌のよく知る廊下に戻っていた。
すると、裏口の近くにある扉が開いた。中から光が漏れて、大きな人影がひょっこりと姿を見せた。またぞろ怪異でも現れたかと警戒したけど、寝ぼけ眼をこすっている祖父だった。
「どうした? ユウタもトイレか?」
「ああ、うん」
「おや?」
祖父は何度か瞬きをした。それから声を張り上げて、
「クロ? クロじゃないか!」
顔をパッと輝かせた。視線は由歌の足元付近に向けている。由歌も慌ててそちらを見た。
ウワバミが立っているはずの位置には誰もいなくて、その代わりに小さな黒猫がいた。
「久しぶりだなあ。二年ぶりか?」
祖父が嬉しそうに言うと、黒猫はふふんと胸を逸らすような仕草をした。
すらりとしたその立ち姿は気品に溢れているけれど、目つきは鋭く、どことなく荒々しさも伺える。そして何よりも特筆すべきは、瞳の色が金ではなく赤ということだった。
この黒猫が、あのウワバミなのだと由歌は直感した。
「ウワバミなの?」
一応、小声で訊いてみると、黒猫は人間のようにこくりと頷いた。
この形態では人間の言葉を喋れないのかもしれない。あるいは、祖父がいるから喋らないだけか。
「さっそく旧交を温めるとするか。やっぱり酒だよな?」
祖父が言うと、黒猫は「にゃあ」と鳴き、居間の方に向かって歩き出した。器用に引き戸を開けて、中に入ってしまう。祖父もその後に続いた。少ししてから振り返って、
「ユウタもどうだ? 晩酌に参加するか?」
「僕はお酒を飲めないけど」
「預かっている大事な孫に、酒を勧めるわけがないだろう。お前さんはお茶かジュースだ。それでも良ければ一緒に飲もうってこと」
「……お供させていただきます」
由歌も居間に行き、ソファに座った。時刻は午前二時を過ぎている。
こんな時間に家族で食事をしたことなんてなかった。
さすがの祖父も時間帯は気にしているらしい、
「今日だけだぞ。今日は特別だからな」
と念を押すように言った。
真夜中の居間は、なぜか昼間のときよりも狭く感じられる。
そんな空間に二人と一匹が集ったことで、生き物の熱と熱が混じり合うような、奇妙かつ親密な空気が出来上がった。
升に注いだ日本酒を黒猫が舐め、益子焼のコップに注いだビールを祖父が豪快に飲み、由歌は沸かしたお湯で入れたお茶をゆっくりと口に含んだ。
「どれ、長ネギでおつまみを作ってやろう。ちょっと待ってろ」
祖父がキッチンに立ち、長ネギを焼いて、そこに焼き肉のたれをかけるという簡単なおつまみを作ってくれた。口に入れると、ネギがとろけた。あまりの美味しさに、これは本当にネギなのか? と疑う由歌だった。
黒猫も祖父も、ゆっくりと渋くお酒を飲んだ。
言葉は少なかったけど、気持ちの良い温かさが周囲に漂っていた。心の底から安心できる食卓というものを、人生で初めて味わったような気がする。
たとえば祖父と黒猫の会話は、
「お前、二年前と全然変わっていないなあ。それともクロの子孫なのか?」
「うにゃあ」
「はっはっは。わからねえよ」
「うにゃ」
こういった感じで、つまり成立していないのだけれど、それでも二人は楽しそうだった。
「なあ、クロ。しばらくうちに泊まっていくか?」
「にゃあ」
「そうかそうか。いくらでも泊まっていくといい」
これは成立しているかもしれない。
どうやらウワバミは、由歌と同じように百瀬家に居候するらしい。結界の張り直しに時間が掛かるのかもしれない。
祖父は由歌のことも気にかけていて、合間合間に、
「もう一杯、お茶を飲むか? おつまみ食べるか?」
と話しかけてくれた。由歌はありがたく、祖父が作ってくれた長ネギ焼きをたくさん食べた。口の中に幸せが溢れてくるようだった。
この日から、黒猫ことウワバミは、百瀬家に住み着くようになった。
二人と一匹の奇妙な共同生活は、こうして始まった。




