まっすぐな廊下2
祖父が春起こしをしている。
春起こしというのは、田起こしの地域的な表現だ。
田植えの一か月ほど前、トラクターで田んぼに入り、冬の間に固く締まった土を掘り起こして、かき混ぜる作業を指す。
由歌に手伝えることは何もなかったけど、それでも田んぼや畑を見たくて祖父の後についてきた。
家から徒歩五分ほどの場所に、土と用水路、土手しかないような敷地が広がっている。
祖父が言うには、この区画の中で田んぼ三反歩、畑一反歩が百瀬家の物なのだとか。そう説明されても単位になじみがなく、どれくらい大きいのかわからなかったので、スマホで調べてみた。
田んぼ一反はおよそ千㎡で、三百坪のことらしい。つまり三反歩はおよそ三千㎡だ。などと数字で言われてもピンと来ないが、要するに小学校の校庭くらいの広さだ。
祖父が小さめのトラクターに乗って、ごうんごうんと、土をかき混ぜている。日差しはちょうどよく、吹く風も心地よかった。
由歌は何をするでもなく祖父の作業を見つめた。トラクターに掘り返された後の土の上には、虫がたくさんいた。ちょうどいい餌場だと思ったのか、カラスやメジロといった鳥も集まってきた。
賑やかだな~。
田んぼをちょこちょこ歩く鳥の姿は愛らしい。
この町に来てから、三日が経っていた。
休憩のために作業を中断した祖父は、トラクターから下りて、畑の隅に建っているプレハブ小屋の中に腰を下ろした。由歌も祖父の隣に座る。
家から持ってきておいたクーラーボックスを開けて、祖父にはペットボトルのお茶を渡し、由歌はジンジャーエールを取り出した。
「おう、ありがとう」
祖父がお茶を豪快に飲んだ。荒々しいけど下品な感じではない。
由歌もジンジャーエールを口に入れた。強烈な炭酸が、喉をバチバチに刺激しながら通り抜けていく。勢いよく傾け過ぎてしまい、口の端から少し零れる。
甘い炭酸飲料水が、ぽたぽたと地面にシミをつけた。ふと、足元近くの土に穴が空いているのが見えた。直径が数センチほどの小さな穴だ。
周囲を観察してみると、穴はそこら中に空いていた。
「この穴って何? アリの巣じゃないみたいだけど」
「ん? ああ、これは鼠やモグラが空けた穴だ」
祖父が教えてくれた。続けて、視線をトラクターの方に向ける。
「二週間後には、田んぼの溝堀りをしなくちゃならんな」
「みぞほりって?」
「田んぼの縁に沿うようにして、シャベルで溝を掘るんだ。その溝に、長い樹脂製のシートを入れていく。畔シートと言うんだがな。最後にその畔シートが動かないよう杭を打ち、固定させる」
田んぼの内側を囲むようにシートを入れる、という認識で合っている?
田植えを手伝ったことのない由歌にはうまく想像できなかった。
「何のために?」
「鼠やモグラが、田んぼの土手に穴を開けてしまうからだよ。すると、せっかく張った水が、隣の田んぼや畑に流れ出てしまう。それを防ぐために畔シートを入れて、動物が穴を開けないようにするんだ。畔塗りといって、機械を使って土手の土を固めてしまうやり方もあるけど、俺はシート派だな。三反歩しかないし」
三反歩しか、と祖父は言うけれど、由歌の目にはかなりの広さに思える。機械があっても、一人で作業するには大変な大きさだろう。昔の百瀬家は、これの三倍の土地面積である一町歩で米を作っていたと祖父が教えてくれた。親戚を総動員しての農作業だったとか。想像するだけでも恐ろしい。
「鼠は本当に厄介だ。あいつら、何にでも穴を開けて、どこにでも侵入してくる」
祖父が吐き捨てるように言った。そして、由歌の足元に空いている穴に小石を置き、蓋をしてしまった。もちろんこんなことをしても意味がない。穴は、そこら中に空いているのだから。
◇
尿意を覚えて、真夜中に目が覚めた。
枕元に置いてあるスマホを確認すると、夜の一時を過ぎていた。
窓の外は暗く、自室から見える範囲に、明かりの点いている民家は一つもない。ぽつぽつと電柱の明かりだけが断続的に光っているだけだ。
ぶるっと背筋が震える。
悠長に窓の外を眺めている場合じゃない、トイレに行かなくちゃ。
スマホを置きなおし、自室の扉を開けて階段を下りた。壁際のスイッチを押して明かりを点け、半分寝ているような状態で廊下を歩く。
何かがおかしいと無意識が警告していた。でも意識のほとんどがまだ夢の世界にいたせいで、その異常に気がつくのが遅れた。
「あれ?」
歩いても歩いても、トイレに辿りつかない。
一度、振り返ってみた。合わせ鏡を想起させるほど、廊下が伸びている。裏口があるはずの場所には何もない。さらに振り返って、自分の前方をしっかりと確認する。さっきは気がつかなかったけど、こちらも廊下が延々と続いている。当然、玄関もない。
何度か、前方と後方を振り返る。目をこすってから、さらに振り返る。
どれだけ見返しても、果てしのない廊下が続いているだけだった。
さすがに眠気も尿意もふっとんだ。
おいおい、勘弁してくれよ。
家の中くらいは安全地帯であってほしい。
自分の頬を両手で軽く叩き、ムリヤリ頭を動かす。
まずは左右の壁を確認する。普段だったら上座敷や下座敷に繋がっているはずの襖はなく、居間やキッチンに至るための引き戸もない。洗面所やお風呂場への扉もなかった。
漆喰の壁が隙間なく続き、下は板張りの床が、天井は明かりの点いているLEDの電球がひたすら続いている。
風は吹いておらず、また匂いもしない。空気は気怠く停滞していて、どこかに繋がっているような気配がまったくしない。
深淵ともまた違う、不思議な空間だ。
あちらは粘つくように広がる闇で、こちらは無機質な一本道という違いはあれど、どうしようもないという点で一致している。
「……さて、と」
意味もなく声を出す。
一応ポケットの中を探ってみたけれど、スマホはなかった。時間を確認した後、枕元に置きなおしてしまったからだ。とはいえ、持っていたところでこの空間では使えなかっただろうけど。
とりあえず歩いてみるか。
他にやることがないという消極的な理由で、歩を進めた。どこまで行っても景色は変わらず、そのうち自分が歩いているのか止まっているのかさえもわからなくなった。どれくらいの時間が経ったのかも判然としない。
疲れてきたので足を止めた。
奇妙な言い方もしれないけど、歩くのを止めたことで、自分は歩いていたのだと認識できた。
変わらない景色は、時間感覚だけでなく身体感覚もマヒさせるらしい。そんな中でも、足に溜まった重たい疲労感だけが妙にリアルだった。
壁に背中を預け、楽な姿勢で休憩する。
この廊下で餓死してしまうという可能性はあるだろうか。
ない、とは言い切れない。由歌は今、明確に閉じ込められている。
十年前に経験した『怖いもの』って、これのことか?
いや、違う。『怖いこと』じゃないんだ。
幼少期の由歌は、現象ではなく、存在と出会っている。
廊下の奥にあるLED電球の明かりが、一つ消えた。まるで暗闇がこちらに迫ってくるように、明かりがどんどん消えていく。暗闇はあっという間に由歌を追い越して、廊下の電球をすべて消してしまった。
光源のまったくない暗闇に、手探りでも進めなくなってしまう。事態はより一層悪化したけれど、それでも変化があった。変化があるのなら、そこに付け入る隙だって生じるかもしれない。
由歌の右手は壁を触っている。左手を伸ばすと、やはりこちらも壁に手がついた。空間には変化がなく、一本道の廊下のままだろう。
自分を落ち着かせるために、何度か深呼吸をした。
闇と共に沈黙が充満する。
「……キィ」
という音が聞こえた。
由歌は必死に耳を澄ます。
「……キィ」
勘違いではない。やっぱり聞こえる。これが脱出への糸口になるかもしれないと思い、ほんの幽かな音も聞き漏らさないよう集中した。
その必要はなかった。
最初は遠くから響くように鳴っていたその音が、どんどんこちらに向かって近づいてきたのだ。
「キキキ……キキキ……」
断続的に響くその音の合間に、「はあはあ」と吐息の漏れるような別の音が混じりはじめる。続けて、生暖かい風が由歌の全身を通り抜けていった。外から吹く風ではない。臭い。獣臭がする。
思わず鼻と口を押えた。
「キキ……キィ……」
何かが、すぐ近くにいる。
濃密な生き物の気配がする。
消えていた電球たちが、いっせいにパッと点いた。
光に目が慣れるまでもなく、そいつがなんなのかすぐにわかった。巨大な鼠が、目の前にいたのだ。人間を齧り殺せそうなほどの大きな口を開け、よだれが糸を引くように垂れている。
由歌の判断は早かった。
一瞬の間を置き、身を翻して走り出した。その背中に、
「ギイギイギギギ!」
と金属音のような鳴き声がぶつかる。振り返ると、巨大な鼠が追ってきていた。由歌は前を向き、全速力で走る。悲鳴を上げる暇もなく、走り続ける。
この空間は一本道だ。
横道も、隠れられるような遮蔽物もない。あの大きさでは鼠の方が速いだろう。その証拠に、急なスタートで離していた距離もどんどん詰められている。もう振り返って確認する必要もないほど、背中に濃密な気配が覆いかぶさっていた。
電気が点いたのは僥倖だった。暗闇の中で、壁に手をついたまま走っても、すぐに追いつかれてしまっただろうから。
足が重たい。でも疲労を感じている場合じゃない。
胸が苦しい、お腹が痛い。でも立ち止まったら死んでしまう。
限界を超えてなおも走り続ける。
走って走って走って、どこまでも走って、それでも景色が一向に変わらなくて――これが無意味な行動なのだと、ようやく諦めがついた。
ああ、ダメだこれは。逃げ切れない。
この廊下に行き止まりはないけれど、由歌はまさに袋の鼠だった。
立ち止まり、膝に手をついて息を吐く。
汗が板張りの床に落ち、そのすぐ近くに巨大な影が伸びた。
振り返る。
眼前に鼠がいた。まるで人間のように口元歪ませて、ニィと笑った。
電気が点いたのは僥倖? とんでもない勘違いだ。
鼠は狩りを楽しんでいる。自分の姿をわざと見せつけて、適度に追い込んで、絶望した相手の表情を眺め、味わい、ゆっくりと咀嚼しようとしている。
ふいに、十年前の記憶がフラッシュバックした。四歳のときの由歌も、今と全く同じ経験をした。延々と続く廊下。どこからともなく現れた巨大な鼠。逃げ惑い、諦めた自分。
この家は、確かに怖いものが出る。
かつての自分が泣きわめき、二度と来たくないと思ったのも当然だ。こんなにも恐ろしい経験をしてしまえば、その後の人格形成にまで影響があるだろう。夜ごとのフラッシュバックで眠れなくなってもおかしくない。
おそらくは、これらすべての経験を忘れることで、由歌は自分の心を守ったのだ。
いやいや、ちょっと待て。
四歳のときの自分は、この状況から逃げおおせている。
いったいどうやって?
今にも食われそうな状況下で、由歌の脳みそがフル回転した。記憶の中から、生き永らえる術を必死にサルベージしようとしている。
鼠が大きく口を開けた。その中に深淵が渦巻いている。深淵?
「助けてくれ! ウワバミ!」
由歌が叫んだ直後、一陣の風が吹いた。あまりにも激しい突風にたたらを踏み、壁に手をついて転ばないよう、踏ん張った。
俯いている由歌の頭上で硬質な音が響き、少ししてから顔を上げる。
特徴的な鼠の前歯が二本、叩き折られていた。
「呼んだか?」
前回会った時と同じ――裾がボロボロの着流しを羽織り、黒いシャツに黒いパンツ、腰にはごついベルトを巻き、そこに錨やら酒瓶やら刀やらをジャラジャラと括りつけている男がいた。




