まっすぐな廊下1
三和土は広く、畳二畳ほどのスペースはあるだろう。
靴を脱いだその先には、檜の柱が剥き出しのまま設置されていて、この家を力強く支えている。
玄関から伸びる廊下はまっすぐ裏口まで続いていて、左側には居間やキッチン、右側には上座敷や下座敷と、洋風和風で家の中が左右に真っ二つに分かれている。まるで家全体を貫くトンネルのような廊下だ。
どことなく古めかしい木の匂いがして――ああ、そういえばこんな感じだったなと、由歌は懐かしく思った。
今のところ、嫌な予感はしない。
かつての自分が体験したらしい『怖いもの』とやらの、片鱗は感じ取れない。
……ただ少しだけ、廊下の奥が気になる。
「とりあえず荷物を下ろしてきなさい。二階の和室が空いているから、自由に使うといい」
祖父の言葉に頷いたけれど、まず由歌は廊下を突っ切って、気になっていた裏口を開けてみた。
土蔵が二つ建っているだけで、これといっておかしなものは何もない。
確かあの中に、祖父自身が育てたお米を保管していたはずだ。なんとなく覚えている。
土蔵の近くにある松の木や石灯籠にも、異常は見当たらない。
ただ、やっぱりこの辺りは妙な胸騒ぎがする。
――この気持ちは、ただの勘違い?
これ以上見ても何もなさそうだと、由歌はひとまず納得した。
裏口を閉めてからお座敷横にある階段を上る。
二階は左に一室、右に一室あり、どちらが空いているのかわからなかったので、まずは左の部屋を開けた。物置として使っているのか、タンスやちょっとしたラックのようなものが所狭しと置かれている。この部屋ではなさそうだ。
右側の扉を開けると、こちらは八畳ほどの和室だった。調度品は文机と空っぽの本棚しかないけれど、あまり物欲がない由歌にはちょうど良い。窓の外からはアルプスの雄大な山々が見え、その贅沢な眺めをしばし堪能した。
一週間もすれば日常の景色と化してしまうのだろうか。
部屋の隅にリュックを下ろして、ぐぐっと背伸びをする。いくつか持ってきた本をリュックから取り出し、本棚に入れた。階下から、
「お茶を入れたぞ」
と祖父の声が聞こえたので、「今行くー」と返事をした。もう一度、窓の外の景色を見てから部屋を出た。
居間の扉はすりガラスの引き戸で、開けるときにガラガラと大きな音が鳴った。壁際には四十インチのテレビ、その手前には四人くらいなら簡単に座れそうなほどの大きなソファが、テーブルを囲むようにコの字型に置かれている。奥には仏壇もある。
居間とキッチンは境なく繋がっていて、コンロでお湯を沸かした祖父が、急須にそのお湯を注いでいるところだった。
「長旅で疲れただろう」
祖父が漆の湯呑を二つ持ってやってきた。そして、由歌の右にあるソファに腰を落ち着けた。
由歌は湯呑に手を伸ばした。
「ありがとうございます」
「敬語じゃなくていい」
祖父は笑った。
漆の湯呑は熱伝導率が低く、手に持っても全然熱くなかった。
温かなお茶を一口飲むと、胃の腑に落ちるまでの軌跡を感じ取ることができ、自分の体が冷えているのだとわかった。
時間をかけて、ゆっくりとお茶を飲んだ。体の中がほぐれていくような心地よさに、思わず「ほう」と息を吐く。
そんな由歌のことを、祖父は、何が楽しいのかにこにこしながら見つめていた。
二人でお茶を飲みながら雑談をし、家のWi-Fiのパスワードや、契約している動画系のサブスクについても教えてもらった。
祖父は洋画を見るためにサブスク契約したのだが、最近ではアニメも結構見ると言っていた。意外だ。
テレビ番組はもうほとんど見ておらず、もっぱら動画専用のディスプレイと化しているらしい。由歌も自由に見ていいとのこと。
「あ、そういえばおじいちゃん」
由歌は伝言を頼まれていたことを思い出した。
「ん? どうした?」
「ウワバミって人、知っている?」
「いや、知らん」
祖父の返答はあっさりしたものだった。続けて、
「それは本名か? 違うよな。じゃあ、あだ名か?」
「……たぶん」
由歌にも詳しいことはわからない。
「そいつがどうしたんだ」
「おじいちゃんに『近いうちに行くからよろしく頼む』って言付かっているんだけど」
「ううむ」
祖父は腕を組んだまま宙を睨み、考え込んでしまった。しばらく待ってみたけれど、やっぱり思い当たる節はなかったらしい。
「それで、そいつはどんな奴だった?」
「ボサボサの黒髪に、ボロボロの着流しを着ていて、でも帯じゃなくてベルトを締めていて……そこに錨やら酒瓶やら、いろいろなものをじゃらじゃらと括りつけている人」
「変人じゃないか」
確かに。
深淵で出会ったとか、刀を差していたとか、ウツロという透明な魚を友人に持っているとか、そういうことは言わない方がいいかもしれない。
たとえば祖父に霊感があって、その道のプロであるとか対処法を知っているとかだったら相談することにも意味があるだろう。
でも祖父は、人よりも不思議なことを経験したことがあるだけの、普通の人だ。あるいはその経験こそが霊感の証明であり、つまり霊感自体はあるのかもしれない。でもその特性に悩まされないでも生きていける人でもある。
そもそも、この不思議――怪異に遭遇する能力を、霊感と呼称していいのか迷う。もっと違った能力の気がする。条件さえそろえば誰でも遭遇してしまうような……。
いずれにしろ、祖父に心配をかけたくなかった。
「しかし、そんな奴がいったい俺に、何の用だ? 知り合いだとしたら、どこで出会った?」
祖父が独り言のように呟いた。
由歌はもう一口、お茶を飲んだ。ちらりと視界の隅を何かが横切った。何の気なしに視線を向けると、長い廊下を、背の低い何かが通り過ぎていくのが見えた。
すりガラス越しだから、はっきりとその姿が見えたわけじゃない。
玄関から猫でも入ったかと、由歌はソファから立ち上がって居間の扉を開けた。顔を出して廊下の左右を見渡したけれど何もいなかったし、玄関も裏口もしっかりと閉まっていた。
「どうした?」
祖父が訊いてきたので、
「今、廊下を猫か何かが通り過ぎたような気がしたんだけど……」
「猫? クロか?」
祖父は慌ただしく立ち上がって、由歌の横にやってきた。同じように廊下の左右を見渡してから、やっぱり何も見えなかったのだろう、ため息を吐いた。
祖父に促されるようにして、ソファに座りなおす。
「クロって?」
由歌が訊くと、祖父は頭の中を整理するように、湯呑に手を伸ばして一口飲んだ。
「何年も前のことだ。鼠が土蔵の壁に穴を空けて入りこんでなぁ。結構、米を食い荒らされたんだよ。あのときは本当に参った」
「それって、珍しいことなの?」
「ああ。珍しい。あの土蔵はなんでか知らないが、それまで鼠や害獣が入ったことはなかったんだ」
当時を思い返したのだろう、祖父は眉根を寄せた。
「穴を塞いでも塞いでも、次の日には別の場所に穴を開けて中へ入り込んでくるんだ。土蔵の漆喰壁だぞ? いったいどれだけ丈夫な歯をしているのやら。罠を仕掛けても、鼠駆除の専門業者を呼んでもダメだった。頭の良い鼠でな。打つ手なしだった」
とんでもない鼠がいたもんだ。
とはいえこの時点では完全に他人事であり、昔話を聞くような感覚でいたのだけど、由歌の記憶の中にふっと巨大な鼠の影がよぎった。
自分は、この鼠を見たことがある……?
いや、ダメだ。思い出せない。
「そんなときに、どこからともなく一匹の黒猫が現れて、鼠をすべて退治してくれたんだ」
祖父の顔が和らいだ。続けて、
「俺は感激して『何か欲しいものはあるか』って、その猫に訊いたんだよ。あいつは不思議な猫でな。人間の言葉を理解しているのか、すっと家の中に入って居間の引き戸を自力で開け、カウンターによじ登って、そこに置いてあった酒瓶を前足でとんとんと叩いたんだ」
酒か。
「しかも雪中埋蔵酒の純米大吟醸だった」
それも埋蔵酒か。
奇妙な符号の一致にも、由歌はあまり驚かなかった。
「猫が酒を飲むなんて話は聞いたことがなかったし、そもそも猫にとってアルコールは毒だ。俺はダメだと言ったんだがな。奴は『いいからよこせ』と喋った。『よこさなきゃ祟るぞ』とな」
喋った?
「こいつは普通の猫じゃないと思った。とりあえず栓を開けて、升に注いでやった。するとその猫は、まあ、ぴちゃぴちゃと美味しそうに舐めてな。一応、経過観察してみたが、どうやらアルコールを無毒化できるようだ。俺の米を守るためにご先祖さまが遣わせてくれた、守り神かもしれないと思ったよ」
「……」
「それ以来、喋ってはくれんがね」
その猫が、ウワバミなんじゃない?
深淵という不思議を経験した由歌は、もはや猫が人間に化けたくらいでは驚かない。
そういえば、由歌とウワバミは十年前に一度会っている。そのときに、体の中にお酒を入れられたのだから。
「その出来事があったのって、十年前?」
よもやと思い、訊いてみた。
「うん? まあ、それくらい前だな」
「僕がまだ、この家に来ていたころのこと?」
「そう言われれば、そうだったような気がするな。俺が土蔵のことで騒いでいるときに、夏子とユウタもいたかもしれん。一緒に、壁に空いた穴を見たような……。う~ん。ユウタは覚えているのか?」
逆に問い返されたけど、由歌は首を横に振った。
鼠の事件も、黒猫のことも記憶にない。でも、まったく知らないという感じもしない。
心のどこかに引っかかる。
キーワードを思い返してみるか。
十年前の由歌がこの家で見たという『怖いもの』。
過去に一度出会っているはずのウワバミ。
そのとき体内に入れられたお酒。
同じく十年前。何回も土蔵に穴を開ける鼠が出現。
その鼠を退治したというお酒を飲む黒猫――。
肝心の『怖いもの』という核がわからないまま、断片の情報がどんどん集まっている。全部繋がっているような気がするけど、ただの勘違いのような気もする。
それにしても、ウワバミは「祖父の世話になった」と言っていたけれど、今の話を聞く限り祖父の方が世話になったように思える。
「おじいちゃんは、その黒猫のことをクロと呼んでいるの?」
「そうそう。クロは数か月おきにやってきては酒を所望するような奴なんだが、ここ二、三年は姿を見ていなかったな。今頃どうしているだろう」
祖父が柔和な表情で、廊下を眺めた。
すりガラスの向こうにいた影がクロであればいいなと、由歌も思った。
※本物の猫に、お酒を与えてはいけません




