深淵3
中学三年生の春から、祖父の家で暮らすことになった。
母方の祖父だ。
父と母は、由歌のことを厄介払いできてほっとしている様子だった。
こちらとしても気が楽だから、お互い様かもしれない。
父も母も、今まで通りの東京暮らしを続けるらしい。
あれだけ仲が悪いのに、由歌がいなくなっても一緒に暮らすのだろうか。
それとも、もはや家族という形に拘ることなく好き勝手に生きるのだろうか。
考えたところで仕方がない、由歌は自分の新生活のことだけに集中した。
転校の手続きは済ませたし、新しく通うことになる中学校にも、母が由歌の事情を説明してくれた。町にあるフリースクールに通うか、そういったところにも通わず家で勉強を進めるか、なるべく早く決めなくてはならない。
ちなみに、転校するに当たって連絡をくれたのは、幼馴染の鰐川凛だけだった。
「頑張れよ。新生活に慣れたら遊びに行くから」
とSNSでメッセージをくれた。
凛の場合は、これだけでも温度感がわかった。
由歌のことを心配してくれているらしい。
頻繁にやり取りをする仲ではないので、「ありがとう」と答えてから返事はない。これくらいの気安さの方がありがたい。
特急の車窓から、外の景色を眺める。視界の中で、緑色の占める割合がどんどん増えていく。
そのまま二時間ほど乗っていると、N県の中部に着く。そこからさらにローカル線へと乗り換えて、寂れた無人駅で下りた。
やっぱり東京よりも寒い。リュックからマフラーを取り出して首に巻いた。
一息ついてから、視線をぐるりと一周させた。
どの方角を見ても巨大な山々が連なっていて、昔の人はどうやってこの町から移動していたのだろう、なんてことを考える。
今は三月だけど、遠くの山は真っ白で、パキッと割れそうなほど固く尖っていた。
空には雲一つなく、深い青がどこまでも広がっている。どれほど山が高くても、空を圧迫するわけじゃないんだ。
道を歩いていると、雪中埋蔵酒で有名な造り酒屋の看板が見えた。
この町で一番有名な酒だろう。そのイメージが脳内に刷り込まれているせいなのか、空気も匂いも、雪のよう白く静謐な気がする。
爽やかな香りさえ漂っているように思う。
改めて、胸いっぱいに空気を吸い込んでみる。やっぱり美味しい、と由歌は思う。
脳内イメージが先行しすぎて、本当はどんな匂いなのか、もはやわからないけれど。
駅から出て、祖父の家に歩いて向かう。
辺りには、民家と田んぼと畑くらいしかない。
網の目のように農道が伸びていて、そこでは車の他に農業用トラクターなども頻繁に行き交っていた。
懐かしいな。
前に来てから十年くらい経っているはずだ。
そのときにウワバミと出会い、お酒を体内に入れられたらしいけど、さっぱり覚えていなかった。
近いうちに祖父を訪ねてくると言っていたけどまた会えるのかな。
ウワバミと深淵には、どうしようもない由歌の人生を好転させるだけの何かがあるような気がする。
たとえそれが勘違いだったとしても、もうここに引っ越してしまった。
きっかっけがなんであれ、由歌は自分を変えたくて動き出したのだ。
スマホを取り出して時刻を確認する。午後一時を過ぎていた。
そういえば深淵埋蔵酒という単語を各種SNSで検索してみたけれど、それらしい情報はヒットしなかった。
あの異世界――深淵や、そこに住まう怪異のことを知っている人間が由歌の他にいるのだとしても、ネットに情報を上げるようなことはしていないらしい。
つまり情報を共有したければ、そういった人と現実で出会うしかないのだ。
◇
そのまま三十分ほど歩き、祖父の家に辿りついた。
まず敷地の前に、屋根瓦つきの門が、ででんと待ち構えている。
門柱にあるチャイムを押すと、インターフォンからちょっとしたノイズのような音が聞こえてきた。
向こう側にいる人間の動作音を拾っているのだろう、少ししてから、
「ちょっと待ってろ」
応答があった。しわがれた声だ。
由歌は待っている間、敷地の周囲を眺めた。
見える範囲にある家は、どれも漆喰の塀が囲っている。
民家が密集しているというわけではなく、田んぼや畑が家と家の合間に点在していて、窮屈な印象がない。
中には浮島のように、四方を田んぼに囲まれている家もあった。
ざっざっざと、足音が近づいてくる。
由歌は意味もなく咳払いをして、声の調子を整えた。
喉がからからに乾いていることに今更気がついた。
緊張するのも仕方がない、なんせ会うのは十年ぶりなんだ。
母はよくこの実家に帰っていたけれど、父と由歌はそれに帯同せず東京で留守番をしていた。父は、この家と義父のことが嫌いだった。
でも由歌は違う。じゃあなぜ由歌は母についていかなかったのか。
……何か、嫌なことがあった気がする。思い出せない。
木製の門扉は引き戸で、大きな音を立てながら横にスライドした。
灰色の髪を後ろに撫でつけるような髪型をした、背筋のしゃんと伸びている老人がいた。
「よう、ユウタ。元気にしていたか」
「おじいちゃん!」
「大きくなったなあ」
祖父の百瀬仁が、にかっと笑った。
口が大きく、それでいて顔のしわがくしゃくしゃになるような、豪快な笑顔だ。
記憶の中とまったく変わらないその立ち姿に、由歌は驚いていた。
御年七十を超えるだろうに、未だ矍鑠としている。柔道と空手、剣道の有段者であり、今でもかなり動けるだろうと、姿勢だけでわかった。
「さあ、上がってくれ」
祖父が背を向けて歩き出したので、由歌も敷地の中に足を踏み入れた。少し頭がくらっとしたけれど、眩暈はすぐに治った。
門扉を閉めて、後を追う。
門から玄関までは十メートルほどあり、玉砂利の中に浮かび上がる飛び石が、戸口まで誘導してくれる。
そこかしこに選定された庭木があり、その他、梅や椿といった樹木も植えられていた。
規則的に石灯籠も配置されていて、まさに日本の庭といった趣だ。
「ねえ、おじいちゃん」
玄関前で呼びかけると、祖父が振り返った。
位置的に百瀬家を背にしているせいなのか、まるで家の番人のように見える。
百瀬家のすべてを背負っているというか、もはや家そのもののようだ。
向こうは威圧しているわけじゃないだろうけど、由歌は怯えた。ごくり、とつばを飲み込む。喉の渇きはおさまっていなかった。
「どうした?」
祖父は首を傾げた。
「僕って、どうしてこの家に来なくなったんだっけ?」
「ああ、そりゃあ、ユウタが泣きわめいたからだよ」
「泣きわめいた?」
大仰な言葉が飛び出してきた。
「この家には、怖いものが出るってな」
怖いもの?
だいぶ抽象的な言い方だ。出るという言い回しも気になる。
由歌は何も覚えていなかった。
いや、思い出したくない……のか?
胸の奥がざわざわする。心臓の辺りの服をぎゅっとつかんだ。
「おじいちゃんは、僕の言葉に思い当たるようなことはないの?」
「ないねえ。俺にとっては住みやすい家だよ。田舎だけど、お化けとか妖怪とか、そういったものも見たことないがないし」
祖父には霊感がないらしい。じゃあ、深淵で出会ったウワバミとはどういう関係なのか。向こうは世話になっているって言っていたけど。
「まあでも、不思議な経験はしたことがあるな」
「不思議な経験?」
「根曲がり竹を取りに行った先で竹の迷宮に入りこんでしまったり、畑仕事をしているときに土の下から喋りかけられたり、山の稜線の上を歩いている縮尺不明の巨人を見たり」
「……それがお化けとか妖怪とかなんじゃないの?」
由歌は呆れてしまった。
「そうか? お化けは知らんが、妖怪ってもっとこうわかりやすいものだろ。珍妙な形に古めかしい服装というか、水木しげるが描いたような感じというか」
と祖父は言う。確かに由歌の考える妖怪もそのイメージだった。
今ここでお化けや妖怪の定義について云々《うんぬん》するつもりはなかったから、話を戻す。
「僕がこの家で遭遇した『怖いもの』も、そういった不思議な何かだったのかな」
「わからんが、そうかもしれんな。俺はこの家で怖い経験をしたことはないが」
念を押すように言う祖父だった。続けて、
「だから、ユウタがここに引っ越したいって聞いたときは驚いたよ。事情は、夏子から少し聞いている」
夏子は、母の名前だ。
「不登校なんだって?」
「うん」
不思議から不登校へ、話がシームレスに移行する。
「まあ、人生そういうときも必要だろ。ちょっとゆっくりしていけばいい」
祖父の言葉は甘く、優しかった。それがどの程度の真剣さを帯びているのか、由歌にはわからなかった。
どうでもいいから優しいのか、それとももっと違う理由があるのか。
祖父が、家に入るように目線で促してきた。でも由歌の足は動かない。
「おじいちゃんは、本当にそう思っている?」
由歌が質問をすると、祖父は片方の眉を少し上げた。由歌の質問の意図を探っているのか、何も言わずにこちらの瞳をじっと見てくる。
由歌は目を逸らさずに、真正面から見返した。
祖父はしばらくしてから、
「思っているよ」
と言った。もちろんその一言では納得できない。
「なんで?」
「お前さんが何を訊きたいのか、俺にはよくわからんが……そうだな」
祖父は続けて、
「この年まで生きているとな、人生ってやつは、本当にいろいろなことが起こるもんだと痛感させられるんだよ。会社が潰れたり、人に騙されたり、殺されかけたりとかな。そういった出来事の最たる例が、香苗さんの事故死だ」
香苗は祖母の名前だ。
由歌が生まれる前に亡くなっている。
「俺は運よくこの年まで生きてこられたが、世の中の不条理に潰れてしまった奴、壊れてしまった奴、腐ってしまった奴――まあ、いろいろ見てきたよ」
「……」
「ゆっくり休む時間が必要なときってのは、あるもんさ。俺は体感として知っている。ただそれだけのことだ」
たくさんの悲しみを見てきたからこそ、出てきた言葉なのだろうか。
もうすぐ中学三年生になる由歌には、祖父の真意を測るための物差しがなかった。
自分の伴侶が亡くなることの辛さを、由歌は想像すらできない。父と母はどうだろう。お互いの死を悲しむのか。それともせいせいしたと思うのか。由歌を厄介払いした今、二人は何を想い、どういう風に生きているのか。
思考が少し飛んだ。今は祖父との会話が重要だ。
「納得したか?」
「うん」
祖父の真意は、今の由歌には絶対にわからない。
おそらく、長く生きなければわからないのだろう。
でも、少なくとも由歌のことを『どうでもいい』とは思っていない。それは感じ取れた。それだけで充分だった。
「せっかくだから農作業を手伝ってもらうぞ」
「うん、わかった」
体を動かすことは嫌いじゃない。
「ようこそ、百瀬家へ。今日からここが、お前さんの居場所だ」
今度こそ祖父は背中を向けて、玄関に入っていった。
由歌も足を踏み出して、後に続いた。
本当に、ここが居場所になってくれればいいなと願いながら。




