深淵2
男の身長は百九十センチくらいあるだろうか、由歌のことを見下ろしている。長い前髪の隙間からチラチラと見え隠れしている赤い瞳は、雲間にある不吉な満月のようだ。
由歌は見返すように顔を上げた。自分の口元を覆っていた手をどかして、
「何が割れるって?」
「雪中埋蔵酒って知っているか?」
男は由歌の質問に答えず、話題を飛ばした。
由歌はただ「知っている」とだけ答えた。
雪中埋蔵酒とはその名前の通り、雪の中に入れて熟成させたお酒のことだ。
まずは雪を集めて雪室を作り、そこに瓶詰したお酒を入れる。
雪は空気を大量に含んでいるため優秀な断熱材になり、日中でも室の温度があまり変わらない。つまり日本酒を熟成させるのに適した環境となるわけだ。
春になり雪解けの時期がやってくると、室を壊して中のお酒を取り出す。
なぜ未成年の由歌がこんなに詳しく知っているのかというと、母方の祖父の住んでいる町がこの雪中埋蔵酒で有名であり、当の祖父も愛飲していたからだった。
十年会っていないけど、このお酒はかなり印象的で、由歌の記憶の奥底に刻み込まれていた。
雪の中で熟成させているといっても、お酒の成分に雪が含まれているわけではない。
それでも由歌は、雪中埋蔵酒という言葉のイメージと、瓶に貼られているラベルや箱、パッケージの清廉な写真から、どうしてもかき氷のような味を想像してしまうのだった。
二十歳になったら、いの一番に飲んでみたいお酒だ。
……それまで自分が生きているとは思えないけれど。
「知っているなら話は早い。俺はな、君の中にお酒を埋蔵しているんだよ。要するに人間埋蔵酒さ。ん? 厳密に言うと人間中埋蔵酒か。でも語呂が悪いな」
「え? 僕の中!?」
あまりにも意味不明な言葉に驚き、とりあえず由歌は自分の体をぺたぺたと触った。
もちろんどこかに穴が空いているわけではない。
「見どころのある人間に出会ったら、そいつの体内に瓶詰の酒を入れて熟成させる。その人間が二十歳になったら酒を取り出して、怪異や人間たちに売ってやるのさ」
由歌の動揺を気にせず、男は得意げに語った。その内容は単に情報量が多いだけでなく、不穏なワードが至る所に散りばめられていた。
「これがまた美味いのなんのって!」
「……は、はあ?」
「つまり君には、二十歳になる前に死なれたら困るってわけ」
なんだこいつは。
なんなんだよ、こいつは!
由歌の中で、困惑だけがどんどん大きくなっていく。
いろいろと言いたいことがある。訊きたいことがある。
いったん頭の中を整理して、文脈から質問を考える。
「僕の中にお酒が入っているって言いましたよね」
「言ったよ」
「じゃあ、あなたと出会うのは二度目ってこと?」
過去のどこかでこの男と出会い、そのときにお酒を入れられた。
そのお酒は由歌が二十歳になったときに取り出す予定らしい。でも由歌がその年齢に達する前に死にそうだったから、助けたと。そういうことか?
男は由歌の顔をじっと覗き込んできた。
「君さ。仁のお孫さんだろ」
仁は、母方の祖父の名前だ。名字は百瀬である。
どうして、この男が祖父のことを知っている?
「仁には世話になっているからな。あいつの家で、君と何回か会ったことがある。確か名前は、由歌だったよな?」
「名前は合っています。でも、あなたと会ったことは覚えていないです」
「小さかったからか? まあいいや。そのときに、君の体の中にお酒を入れた。もう十年近く前になるかな。いやあ、懐かしいな」
何を勝手なことを! と怒っていいのか迷う。懐かしがられても困る。
あまりにも異常な事態で、由歌は自分の感情を決めきれずにいた。
「君には見どころがあるからな」
さっきもそう言っていた。
「見どころって何?」
「ふむ、そうだな。強いて言葉にするのなら、『形のないものに触れることができる才能』かな」
自身が抱えている問題についての、あまりにもクリティカルな表現に由歌は衝撃を受けた。
誰にもわかってもらえなかった『言葉の手触り』のことを考える。
この特質のせいで、由歌はうまく生きられなかった。
それを才能だと、目の前の男は言っている。
不思議と、怒りの気持ちは湧かなかった。
かといって誇らしい気分にもならないけど。
才能ね……。
しばらく口を開くことができない。
少し時間を置いてから、
「お酒を僕の体に入れているんでしょ? 悪影響はないの?」
と話題を変えた。さっきまで死んでもいいと思っていたはずなのに、今は自分の体が気になる。
こういうことは理屈じゃないのだろう。
「ないない。雪室に影響がないのと一緒」
「お酒を取り出すときは崩すじゃないですか」
「君、なかなか頭の回転早いな」
ここで褒められても嬉しくない。男は続けて、
「人間は雪室とは違う」
「最初にそう例えたのはあなたですけど」
「そりゃそうだが、例えの方に引っ張られても面倒だ。端的に言うが、君は大丈夫。何も問題はない。デメリットもない。君が二十歳になる前に死んで困るのは、俺だけ。だから助けた」
助けた、か。
男の言葉をそのまま信じたわけじゃないけど、助けてくれたのは本当らしい。
「自分の命を大事にしろ。頼むから」
完全に利己的な理由から言っているのがわかる。
ここまで心に響かない説教は初めてだ。
お礼を言った方がいいのか迷っていると、
「二十歳になったら、君の中の酒を一緒に飲もうぜ」
まるで親戚の叔父さんのように気安く誘われてしまった。
不思議と心が軽くなる。こんなのはただの口約束だ。リップサービスかもしれない。
でも、嬉しかった。
見知らぬ相手であっても、未来について約束をするのはこんなにも嬉しいのだと、初めて知った。
自分の中の、感情の動きに戸惑い、由歌は一歩下がった。
それにしても、体内で熟成したお酒か。飲みたいような飲みたくないような、これまた返答に困る言葉だ。
由歌は話題を変えることにした。
「そういえば、ここはどこなんですか?」
「深淵だよ」
「しんえん?」
「怪異の住んでいる場所さ」
訊けば訊くほど、わからないことが増える。
だから必然、質問攻めになる。
「その、怪異ってなんですか?」
「なんだろうなあ。君たちの言葉にするなら、妖怪とか神様が近いか? 生き物ってわけじゃないけど、無機物でもない。だが生死の概念はある。意思のある奴とない奴がいる。存在というよりも現象に近い奴もいる。闇に潜み、さまざまな境界の隙間から現れては、人間の世界にちょっかいをかけるというか――まあ、そんな感じの奴らさ」
抽象的だ。これ以上訊いても、よりあやふやな答えが返ってきそうだったから、由歌は簡単に、妖怪のような存在をイメージした。
次に気になったのは、
「あなたはここで何を?」
「俺は人間の中だけでなく、至る所に酒を隠している。もちろんここ――深淵にもな。つまり深淵埋蔵酒もあるってわけさ。ん? 厳密に言えば深淵中埋蔵酒か。でも語呂がな」
さっきと同じようなことを言う。
「まあいい。とにかく、深淵で熟成中の酒を確認しに向かったら、君が命の危機であるとわかってね。深淵は、俺が酒を隠したありとあらゆる場所へと通じている。そこでとっさに君を引っ張ったってわけ」
「どうして僕が命の危機だってわかったんですか?」
「はあ、さっきから質問ばかりだな」
ため息を吐かれてしまった。でも気になるのだから仕方がない。
「酒を隠している場所には、監視をつけているから」
いったい何が由歌のことを見張っているのか知りたかったけど、これは訊かない方がいいかもしれないと思った。
由歌は咳ばらいをしてから、
「それで……あなたは人間なんですか?」
一番気になっていたことを訊いた。
「俺は怪異の側の存在だが、人間であるとも言える」
「なんですかそれ」
「これ以上は説明が面倒だ」
秘密ってことか。
「名前くらいは教えてくれますか?」
「知り合いからはウワバミと言われているよ」
ウワバミねえ。
彼の正体は大蛇なのか、それとも単に大酒飲み故の呼称か。
由歌が次に何を訊こうか考えていると、謎の男――ウワバミは、両手をパンと打ち鳴らし、「さて」と言った。
「人間がこんな場所に長居してはいけない。そろそろ帰りなさい。俺の友達のウツロが送ってくれるから」
「ウツロ?」
「ああ、こいつ」
ウワバミが羽織っている着流しの袂から、透明な魚がすっと泳ぎ出た。
とはいえ内臓が見えているわけじゃなく、輪郭線以外に何も見えない、と表現した方が近いかもしれない。
まるで版画の線だけが浮き出てきたような魚だ。
その魚――ウツロは、瞳だけが赤く色づき、懐中電灯のように暗闇を照らしている。
そのおかげで足元が朧気ながら見えた。
土なのか砂利なのかコンクリートなのかわからない、素材不明の何かに接地していると認識できる程度の明かりだけど、それでもありがたい。
ちなみに、魚が宙に浮いていることに関しては、不思議だと思わなかった。
この闇は、呼吸ができる水のようなものだからだ。
つまり浮いているのではなく、単に泳いでいるだけと言える。
「こいつの後についていけば、帰れる」
ウワバミは、まるで猫を撫でるような手つきでウツロの腹に優しく触った。
透明に見えるだけで実体はあるらしい。
「信じてもいいんですか?」
「はは! 信じるも何も、君は、一人では絶対に元の世界に帰れない。俺の言う通りにするしかないだろ」
絶対に、という言葉が引っかかった。
とはいえ「試してみなければわからないだろ」と啖呵を切るようなことはしないし、できない。
おそらくウワバミの言っていることは正しい。
由歌は意味のない反論を飲み込んだ。
ウワバミが一歩下がった。ただそれだけの動作で、ほとんど彼の体は見えなくなってしまった。
この暗闇は、ほんの少し先も見通すことができない。ウツロが足元を照らしてくれなければ、歩くことすらできないだろう。
ウワバミが、闇の中へと溶けていく。彼の赤い瞳が幽かに残って、
「ああ、そうだ。仁に、『近いうちに会いに行くからよろしく』と伝えておいてくれ」
最後に声だけが、闇に響いた。
後には、ウツロと、由歌だけが残される。
急に心細くなった。
四方の闇がこちらを圧し潰すかのように迫ってくる。それでいて、耳の奥には痛いほどの静けさが充満している。
ウワバミがいかに騒がしく、そして存在感があったのか、いなくなって初めて意識することができた。
あの男の存在感が、由歌のことを守ってくれていたのかもしれない。
そんな闇を祓うかのように、魚のウツロが由歌の前でぐるりとわかりやすく横に回転した。
まるで「自分の後についてこい」と言わんばかりの動きだ。
由歌が頷くと、ウツロは闇の中を泳ぎ出した。
どこをどう辿ったのか覚えていない。
上下左右の感覚が薄れ、まるで魂が剥き出しになったかのような心細さの中で、それでも足を動かし続けていると、岩でできているアーチのような場所に行き当たった。
ウツロはそれ以上先に進まない。
どうやら道案内はここまでのようだ。
「ありがとう」
由歌はウツロにお礼を言って、一人でアーチの下をくぐった。瞬間、辺り一面が白に染まった。光ではなく、降り積もった雪だ。
風が吹き、肌を刺すような冷気が体を通り抜けていく。
由歌は服を着ていた。
もっと言うなら体があった。魂は剥き出しなんかじゃなかったと、安堵した。
自分の手のひらを、意味もなく閉じたり開いたりする。
由歌の目の前には潰れた東屋があった。
凍った用水路があった。
杉の木が重なるように生えていて、足元には柔らかい土があった。
そういった土や木、葉や雪などの自然が複雑に絡まり合って、命の匂いを形成していた。つまり元の世界に戻ってきたのだ。
由歌の体から、ふっと力が抜けた。どうやら無意識のうちに緊張していたらしい、ゆっくりと呼吸を繰り返して、まだ残っている力みを抜いていく。
ただの白昼夢だったのかもしれない。
そう思って近くの用水路に目を向けると、凍っている水面の下を、黒く巨大な何かが這うように蠢いた。
そいつは巨体に似合わない素早さで、するりと用水路を通り抜けていった。
「やっぱり、夢じゃなかったかも……」
由歌は一人呟き、ため息を吐いた。
近くにある、倒壊した東屋に視線を向ける。
一歩、間違っていたら死んでいた。
それで良かったのに、と思った。
でも由歌のことを助けてくれたあの男――ウワバミは、二十歳になったら一緒にお酒を飲もうと言ってくれた。
死の絶望が少し足を止める程度のものだとしたら、生きる希望だってこの程度の口約束でいいのかもしれない。
由歌はウワバミに頼まれていたことを思い出した。
「おじいちゃんに、よろしくって伝えなきゃ」




