深淵1
その男は、至る所にお酒を隠していると言った。
廃村の奥にある寂れた神社の床下、怪異たちの住処である深淵、妖力が集まってできた結晶の中心、そして僕の体の中にも。
◇
中学生になり、周りがいきなり大人になった――水野由歌はそう感じた。
今の時代、早い子は小学生のうちから、遅くとも中学生のときにはスマホを買ってもらえる。
由歌も御多分に漏れず、その便利な機器を手にしたのは小学六年生のときだった。
まずは未成年でも利用可能なSNSに触れ、現実の友達とだけ繋がった。
生来の性格として臆病者である由歌は、それ以上ネットとの距離を縮めることなく、暇つぶしに動画を見る程度の使い方をしていたし、それで充分だった。
スマホに触れていないときは、父の書斎に入って一人で読書をしていた。
由歌は紙の匂いが好きだ。本の重みが好きだ。本棚が好きだ。そこにずらりと並ぶ背表紙を眺めるのが好きだ。
その一方で電子書籍は苦手だった。
由歌は、本の内容を三次元の空間として記憶している。
300ページの本は、それだけの厚みがある箱として脳内に保管し、何ページに何が書かれていたのかを立体で把握していた。
だからタブレットの厚みしかない、ページ数と厚さが釣り合っていない電子書籍は、上手く頭に入らなかったのだ。
自分は遅れているかもしれないと、中学生になって思った。
周りの子たちは、スマホをどんどん使いこなしていった。
投稿した動画についた「いいね」の数や再生回数を競い合い、由歌の知らないインフルエンサーの話で盛り上がる。コメントに返信が来たと喜んだかと思えば、理由もなくブロックされたと愚痴をこぼし、「ムカつくから通報しちゃおうかな」と笑い合う。
そんな会話が、由歌の耳にも当たり前のように入ってくるようになった。
本だけでなく言葉にも手触りのようなものが必要だと、由歌はこのときに理解した。
より具体的に言い換えるならそれは文字以外の、実際に言葉を発している人の顔や仕草、声音、その場を包み込んでいる空気や匂いなど、そういった複合的な情報のことだ。
それらが脳内で像を結ぶようにして浮かび上がり、やっと相手の言っていることがわかるという始末だった。
「相手が動画で喋っている場合はどうなの? 匂いはないけど、仕草はあるよ」
と幼馴染の鰐川凛が言う。
青みがかった黒のショートカットをしている女の子で、スカートよりもショートパンツを好むスポーティなタイプだ。
由歌が喋ることのできる、数少ない友達でもある。
由歌は少し考えて、
「動画なら、まあ……わかる、かな」
「それって共感覚ってやつ?」
「違う違う。なんかもっとこう、なんだろう。ただの記憶方法? 自分の脳みそがあまり融通利かないだけというか」
「ふうん」
と、凛は頷いたけれど、ピンと来ていないらしい。
「ああでも、凛くらい一緒にいる人なら、文字だけでもわかるよ」
「そりゃ、そうでしょうよ」
凛は得意げに胸を張った。
ネットに書かれている言葉は手触りが感じられないのに鋭くて、厚みがないのに巨大な壁のようなイメージがした。
由歌は周りの子たちと同じように、ネットの世界にうまく溶け込むことができなかった。英語以上の共通言語を使えないようなものだ。
どうしようもないのに焦燥感だけがどんどん膨らんでいき、ある日限界を迎えた。
由歌は、学校に通えなくなった。
現実に居場所のない子は得てしてネットに居場所があるものだけど、由歌はネットの中にさえも居場所がなかった。
◇
中学二年生の冬。
由歌が不登校になってから一年以上が経つ。
もともとそんなに仲の良くなかった父と母が、頻繁に口論するようになった。
内容はもちろん由歌のことだ。
子育てが上手くいかなかったのはどっちのせいなのか、毎日責任を擦り付け合っていた。
「確か、お前の実家って田舎だよな。いっそのこと、お義父さんのところに行かせればどうだ? 環境を変えれば、学校に行けるかもしれないぞ。由歌のようなノロい性格は、東京よりも田舎の方が向いているだろ」
「由歌のことを厄介払いする気? だいたい、結婚後は一度だって私の実家に行ったことなんてなかったのに。都合のいいときだけ頼るの?」
「あの立地じゃあ、こんなときくらいしか役に立たないだろ」
「ねえ、馬鹿にしてるよね」
「してねえよ。そういうお前だって、俺の実家にあまり行きたがらないじゃないか」
「『行きたがらない』と『行かない』は全然違うんだよ! 私はちゃんと、あんたの家に義理を通してんだよ!」
「怒鳴るな。お前がそんな性格だから、由歌も言いたいことが言えない子に育ったんだろ」
といった会話が聞こえてくる。
由歌は親に対して申し訳がなかった。
こんな風に生まれてしまってごめんなさいと、心の中でいつも謝っていた。罪悪感が心の中に降り積もるようだった。
◇
しんしんと雪が降る平日の昼間。
他の子たちが学校に行っている時間帯。
由歌は、家の近くにある用水路沿いの道を散歩していた。用水路の両側に樹木が連なっていて、林道のようになっている。人通りもなく歩きやすい。
日課というほど毎日歩いているわけじゃないけれど、結構な頻度でここに来ていた。
途中にある、ちょっとした東屋で休憩することにした。
用水路の水は凍っていた。そんな氷の上に雪が落ちては、積もらずに溶けていく。
氷の下では、幽かに水の流れている気配がする。その他に命の匂いはしなかった。
水を、生きていると表現していいのかわからないけど。
頭上で重なる杉の木が、ときどき頭を垂れて、葉に乗っている雪を落とした。
ドサドサと、重たい音が断続的に聞こえる。
さらにどこからか、みしみしと嫌な音まで聞こえてきた。
初めは気のせいかと思ったけど、違った。
由歌を囲むように、音がどんどん大きくなっていったからだ。
すぐに東屋から出れば何事もなかっただろう、でも由歌の足は動かなかった。
死にたいわけじゃないけれど、積極的に生きるという選択肢を選ぶだけの理由もなかった。
雪が降る。
無音の一呼吸を置いて、
東屋が一気に倒壊した。
雪の重みで潰れたのだ。
バキバキバキッと、雷が落ちたかのような轟音が鳴り響き、辺り一帯に雪と煙が舞い上がった。由歌は、大量の木材と地面に挟まれ、潰れてしまうはずだった。
――とぷん、と足元が沈んだ。
何かに地面の下へ引き込まれたのだと、遅れて気がついた。
足をつかまれたような感覚があったのだ。
でも、下には何もいない。
さらに右を見ても左を見ても、暗闇しか広がっていなかった。
無重力なんて体験したことはないけれど、まるで宇宙に浮かんでいるような感覚だ。ただしこの場所には星がない。
見上げると、暗闇が同心円の波紋を広げている。
宇宙ではなく、夜の海の中の方が近いかもしれない。
いずれにしろ粘性を帯びるような暗闇が充満していることだけは確かだ。
少し息苦しい気がして、胸の辺りをぎゅっとつかんだ。
呼吸をすれば闇が肺の中にまで入ってきてしまうかもしれない、そんなイメージを抱いたけれど、ずっと息を止めているわけにはいかない。
口元を手で覆って、精一杯の抵抗を試みた。
「おいおい、俺が助けなければ潰れていたぜ」
闇に響くような声が聞こえた。
そして、その男はすぐ近くの闇から、ぬっと姿を現した。
どうやらこの暗黒は透明度がだいぶ低いらしい。光源はないはずなのに、その男のことはよく見えた。
ボサボサの黒髪が目元を隠していて、瞳がしっかり見えない。
口は大きく、肉食獣を思わせる。
群青色の着流しを着ているが、前を止めず和風コートのように羽織っている。
その下は黒いシャツと黒いパンツ、足元はごつい安全靴だ。
腰には、帯ではなくベルトを巻いていて、錨やら刀やら酒瓶やらをジャラジャラと取り付けていた。
エアコンの取り付け作業に来てくれた電気工事の人を思い出す由歌である。
着流しの裾はボロボロで、世捨て人のようにも、職人のようにも見える。
「なあ、困るよ。割れちまう」
とその男は言った。




