雷を斬る4
……斬った。本当に斬った!
由歌が喜んで近づこうとしたところで、
「仕留め損ねた!」
ウワバミが叫んだ。滞空時間が長く、まだ宙に浮いている。よっぽど焦っているのか、彼の足だけが猫に変化し始めていた。着地と同時に追撃するつもりなのだろう。
しかし天より落ちてきた魚の方に分があった。
手負いの怪異は先に地面へと到達し、体を光らせながら、土の上を流れている雨水に混じって、するすると由歌の方に近づいてきた。さすがにもう雷のような速度ではなかったが、それでもかなりの素早さだ。
目的は由歌の手前にある農業用の側溝だろう。
「もはや電気は纏っていない。その光は見掛け倒しだ。踏め!」
ウワバミが叫び、由歌は傘を放り投げて構えた。そのとたん、魚は進路を変えて、由歌の右斜め前に向かった。
魚にしてみれば、なにも由歌の真正面に行くという危険を冒す必要なんてない、もう少し離れたところから側溝に落ちればいいという判断だろう。
ウワバミはまだ宙にいる。
魚は今にも側溝に飛び込もうとしている。
由歌は走って止めようとしたが、間に合わない。するすると動く魚の方が速い。
白い魚が二匹、どこからともなく現れた。その二匹が、雷霆鱗を囲い込むように動いた。突然の闖入者に困惑したのか、雷霆鱗は少し右往左往してから、由歌の真正面に進路を変えた。
「踏め!」
ウワバミが叫ぶ。
タイミングは難しい。でもここで役に立たなければ、ウワバミと一緒にいる意味がない。
全神経を視力に集中させた。雨音が遠のく。
ただ一瞬、ほんの一瞬だけでいい。
自分の体のすべてを思う通りにコントロールする。右足を上げて、思い切り下ろした。それだけの動作に、寿命が一年縮まるほどの集中力を要した。
ぐにゅ。
――という、いわく言い難い奇妙な感触がした。
雷霆鱗を踏んだのだ。
怪異は靴の下で暴れまわり、バチバチにスパークまでしているけれど、由歌に影響はなかった。ウワバミの言った通り、今の電気は見掛け倒しなのだろう。
必要以上に爆ぜて光ってこちらを脅して、隙を見て逃げようとしている。
辺りを見回したけれど、二匹の白い魚はどこにもいなかった。精神的に追い詰められた由歌の見た幻だったのかもしれない。
でも近づいてきたウワバミが怒ったような表情をして、
「七海の奴、どういうつもりだぁ?」
「え? 七海さん?」
思わぬ人物の名前が飛び出てきて、由歌は驚いた。
もちろん七海当人がこの場にいるわけではない。
「白い手が二つ、助けに入っただろ。あれは七海の護衛だ」
あれは魚じゃなくて、手だったのか。
「なんで俺たちに手を貸したんだ?」
「僕に聞かれても……」
「まあ、そうだな。今度会ったら訊いてみるかな。まったく、借りができちまった」
「ごめん。僕が上手く動けなかったせいで」
「由歌のせいじゃない。俺が一撃で斬れなかったせいだ」
「でも僕が」
「いや俺が」
「僕が」
「俺が」
二人してぷっと吹き出し、
「まあ、どっちのせいもでないな」
ウワバミがさっぱりした声音で言った。彼は「さて」と言いながらしゃがみ込んで、由歌の靴の下でもがいている雷霆鱗を素手で掴んだ。
由歌はここで、やっと足に込めていた力を抜くことができた。ウワバミは立ち上がり、雷霆鱗を着流しの袖にするっと入れてしまった。
「その着流しって、どこに繋がっているの?」
「俺の知り合いのとこ」
「雷霆鱗をどうするつもり?」
「もちろん酒にする。漬けると美味いぜ」
舌がびりびりしそうだ。
「怪異が怪異を食べるのって、共食いにならないの?」
「枠がでかすぎるよ。人間が魚を食べていることに対して、有機物が有機物を食べているのは共食いにならないのかって言っているようなものだ」
なるほど。
「それじゃあ帰ろうか」
ウワバミが親指をくいっと上げて、百瀬家の方を指した。由歌は頷き、放り投げた傘を拾った。雨がいつの間にか弱くなっていた。分厚い雲も流され、柔らかな星空が見える。日の出にはまだ早い時間だけど、濃紺の闇はすでに薄くなっていて、朝日の燃えるような気配が山の稜線から立ち上っていた。
ウワバミと並んで歩く。二人とも雨でびっしょりだった。
「お風呂に入りたいな」
「おじいちゃんに見つからずに入るのは無理だよ」
家から静かに出るのとはわけが違う。さすがに、そこまでのステルスアクションは不可能だ。お風呂は絶対に無理だけど、こっそりと家に帰って濡れた体をタオルで乾かし、何食わぬ顔で朝ごはんを食べる必要はある。
「なあに、大丈夫さ」
ウワバミが楽観的に言った。
結論から言うと、全然大丈夫ではなかった。
玄関前に、祖父が腕を組んで仁王立ちをしていたのだ。
ウワバミは如才なく黒猫の姿に戻っている。つまり責任を負うべきは由歌一人になってしまったという構図だ。それでもウワバミはどこかに逃げてしまうということはせず、由歌の足元で神妙に頭を下げていた。
祖父の目は鋭く由歌を見据えており、昨日まであったはずの柔らかな空気がまったく感じ感じられなかった。別人かと思うほどだ。その視線だけで、由歌の肌がピリピリと刺激を受けているかのように反応した。
ウワバミも恐怖を感じているのか、祖父と視線を合わさない。
「こんな時間に、どこに出かけていた?」
祖父が、喋りながら組んでいた腕をほどいた。より一層、すごみが増したような気がする。隙のないその立ち姿に、由歌は怯えた。
「え、えっと……ウワバミ、じゃなかった、クロの散歩に……」
「散歩だと?」
祖父はウワバミに視線を向けた。
ウワバミがびくっと全身を震わせた。
「クロ。本当か?」
もちろんウワバミは答えない。でも彼が冷や汗をかいていることだけはわかる。
祖父は由歌に視線を戻して、
「こんな時間に散歩?」
「う、うん」
「なぜ嘘をつく」
「……」
「俺に言えないことか」
「……」
由歌は返事もできなくなっていた。祖父には言えないことだ。でも、なぜ言えないのだろう。怪異のことを相談しても、由歌のことを馬鹿にはしない気がする。すべてを受け入れてくれる気がする。
この家に住み、ウワバミと行動を共にする限り、今日のようなことは何回も起こるだろう。そのたびに嘘をつくつもりか、そんなことができるだろうかと由歌は自問自答した。
足元にいるウワバミを見たけれど、気まずそうに視線を下げたままだ。彼もここで正体を現して、祖父に事情を説明する気はないらしい。
怪異のことを相談して、祖父に心配をかけたくない。
でも、言わないことで別の心配をかけている。
おそらくは理屈じゃない。
延々と続く廊下。白い手を引き連れた女性。雷に擬態した魚。そして自分の体内に埋まっているお酒。こういった話を、どうやって伝えればいいのかわからないのだ。
いずれ言えるときが来るかもしれない。
でも、今じゃない。
由歌は黙ったまま、足元の飛び石を見つめ続けた。
「そうか」
と、祖父が重々しく言った。何に納得したのかわからなかった。
――ああ、終わった。
由歌はそう思った。祖父の家に来てまだ一週間も経っていない。
でももう、一緒に住むことはできないだろう。追い出されて、東京に送り返される。
自分はそれだけのことをしたのだ。
祖父の信頼を裏切り、怒らせた。
「理由が言えないのならそれでもいい。だが、どんな事情があっても夜遅くに一人で出歩くようなことはするな」
「……」
「いきなりこんな家に来て、いろいろと思うことはあるだろう。俺には言えないことも多いだろう。俺も訊かん。だがな、俺たちは一緒に暮らしているんだよ。この先も一緒に暮らすんだよ。そのことを肝に銘じて行動してくれ」
「……え? この先?」
「何を驚いたような顔をしている」
「僕は追い出されないの?」
「追い出す? なぜだ」
「なぜって、おじいちゃんのことを怒らせたから」
祖父は一瞬だけ、とんでもなく険しい顔をした。でもすぐに顔を下げてしまい、息を長く吐いた。再び顔を上げたときには、いつもの柔和な表情に戻っていた。
「はあ、まったく。あの馬鹿娘が。どんな子育てをしていたんだ。怒るっていうのは、そういうことじゃねえだろうが」
由歌には、祖父の言っている言葉の意味がよくわからなかった。
「早く風呂に入れ。風邪を引くぞ」
「……この家にいてもいいの?」
「もちろんだ」
「怒っていないの?」
「怒っているが、お前さんの思っている怒りとは、全然違う。だがそのことを言ってもわからんだろう」
「たぶん」
祖父は困ったように頭をかいた。
「まあ、とにかくだな。追い出すことはしない。夜遅くに出歩くな。それだけだ。体も冷えているだろうし、説教はこれで終わり」
祖父は玄関の扉を開けたまま、家に入ってしまった。由歌とウワバミも、おそるおそる後に続く。靴まで濡れていて、たぷたぷと水を滴らせたままの状態で三和土に上がる。
「ちょっとそこで待ってろ」
と祖父は言い、脱衣所に行った。しばらくしてからタオルを持ってきて、
「体を拭いてから上がりなさい。足もちゃんと綺麗にするように」
由歌は素直に頷き、言われた通りにした。ウワバミの体は祖父が拭いていた。それから一人と一匹は揃ってお風呂場に直行した。
お湯は沸かしてあった。
まずは体を洗い、湯船に入る。熱いというより、痛いと思った。
でも湯船の温度はそんなに高くなった。
今日はいろんなことがあったな。まだ朝日も出ていないのに、一日が終わってしまったかのような疲労感だ。
緊張によって粟立っていた肌の力が抜けていく。
体の周りを覆うように被さっていた祖父の威圧感が溶けていく。
お風呂の温かさは、心の芯まで柔らかくしていく。
ウワバミは黒猫の姿のまま、たらいに入れたお湯に浸かった。ふい~、とおっさんのような声を上げた後、
「怖かったな」
「ウワバミも、おじいちゃんは怖いんだ」
「なんでかな。怖いんだよ。迫力があるんだよ」
「わかる。でも――」
これまでの人生で、父や母に感じていた恐怖とは、ちょっと違った。
「でも、なんだ?」
ウワバミが訊いてきた。
由歌は笑って首を振り、
「なんでもない」
湯船に浸かって、冷えた体をゆっくりとほぐした。
お風呂から出ると、祖父が朝食の用意をして待っていた。お味噌汁と白米、鮭の塩焼きに卵焼きと、かなり豪勢な食卓だ。
「お腹が減っただろう。さあ、ご飯を食べよう」
祖父が、にかっと笑った。
ああ、この家には、
本当に、僕の居場所があるんだ――由歌は生まれて初めて、そう思えた。
◇
後日、由歌とウワバミは町中で七海とすれ違った。いつぞやに会話をした公園の近くの並木道である。相変わらず白い手が、彼女の周囲を漂っている。
これで会うのは二回目だけど、見慣れたとは言えない光景だ。
向こうもこちらを認識したようで、軽く会釈してきた。
由歌とウワバミは近づいて挨拶を交わした。
雑談もそこそこにして、
「雷霆鱗を捕獲するとき、どうして助けてくれたんですか?」
と訊いてみた。
七海は小首を傾げて、
「助けた、とは?」
白を切った。いや、本当に知らないのか?
由歌がなおも質問を重ねようとしたところで、
「ああ、そうかい。じゃあ俺の見間違いだったみたいだな」
黒猫姿のウワバミが言った。ここは引き下がるらしい。七海はそれに対して、
「ええ、そうですね」
と柔らかく答えた。どことなく興が削がれたような空気になり、その後は会話をすることなく七海と別れた。
由歌とウワバミは無言のまま歩いた。
しばらくしてからウワバミが周囲を警戒するように小声で、
「善意から助けてくれたのか、他の理由があったのかはわからないが、ともかく向こうは助けていないと言っている。今回のことは借りに思わなくてもいいと、まあそういうことだろうな」
「ありがたいこと、だよね」
「さあな。七海の思惑次第だ。もしかしたら白い手と雷霆鱗も敵対していて、俺は都合よく使われただけ、かもしれない」
まあ、考えるだけ無駄だ――ウワバミはそう言った後、あくびをした。
由歌は振り返って、遠ざかっていく七海の背中を見つめた。白い手が、彼女を守るようにぐるぐると泳ぎ回っている。
人間に捨てられ、怪異に拾われた女性。彼女が何を思い、何を考えて生きているのか、由歌にはまったく想像できなかった。




