ハクビシンを捕まえた
延々と続く廊下は、怪異の鼠が生み出したものだった。
その鼠は何にでも穴を開けることができるため、十年前に土蔵の結界を破り深淵への横道を掘ったり、今回のように結界のゆらぎを察知して横道を復活させたりした。
由歌はその横道に追い立てられ、危うく鼠に狩られるところだった。
――などと、すべての不思議にこういったオチがついているわけじゃない。
百瀬家に来て早一週間。
あれはいったい何だったのかと、首を傾げるままに終わってしまった珍妙な出来事にも、すでにいくつか遭遇している。
今回はその内の一つを語りたい。
「お、ハクビシンが掛かっている」
祖父が、畑に置いてある檻を覗き込んだ。
いつものように由歌も一緒だ。
ウワバミは家で留守番をしている。人間の形態になって、居間でアニメを見ているかもしれない。
空は青く、空気も澄み切っている。遠くに見える山々も、四月になったというのに、相変わらず雪で真っ白に染まったままだ。
すでに新学期は始まっているものの、由歌は学校にもフリースクールにも通っていない。
勉強は動画配信サイトで独学している状態だ。
早いところ身の振り方を考えなければならないけど、できればもうしばらく今の生活を続けたい。
祖父には無理に決めなくてもいいと言われている。
とはいえ祖父はただ甘いだけの人ではなく、家にいるなら農業をしろ、高校生になるまでには生き方を決めろと、そういった条件も出されている。
農業の手伝いは楽しい。
土に触れていると、自分の中の嫌な気持ちが流れ出ていくような気がする。
雨の日は祖父の書斎にこもって、様々な本を読んだ。
そういった晴耕雨読の生活は、由歌の性に合っていた。
将来は農業の道に進みたい、とまでは考えていないけれど、今の生き方をしていればなんらかの方向性が見えてくるだろうという確信がある。
幼馴染の鰐川凛とも、頻度は高くないものの、ラインでやり取りをしている。ゴールデンウィークには遊びに来るらしい。
話をハクビシンに戻そう。
檻の中には、キツネのようなイタチのような不思議な動物が入りこんでいた。
顔の真ん中に白い一本線が入っているのが特徴的な動物だ。
こちらと目が合い、懇願するように見てきた。おそらくは気のせいだろう。
「町の農政課に電話して、引き取ってもらわなきゃならんな」
祖父は近くの日陰に置いといた鞄からスマホを取り出して、その場で電話をかけ始めた。
由歌はその間も、ハクビシンを観察した。
こっちを見て、人間のように口角を上げてニヤリと笑った。これもまた気のせいだろう。
正直に言えば不気味な生き物だと思った。
すべてのハクビシンがこうなのか、それとも目の前の個体だけなのか。
祖父の電話が繋がった。
「ああ、はい。そうです。ハクビシンです。今朝確認したら、檻に入っておりまして。ええ、はい。もちろん登録しています。はいはい。番号は012です。はい。百瀬仁です」
向こうが訊いているのは、檻の登録番号のことだ。
ある特定の動物を捕獲するための檻は、自分の敷地内であっても勝手に置いていいわけじゃない。
鳥獣保護管理法があるからだ。
猿やハクビシンといった動物は、この辺りにも頻繁に姿を現し、農作物に被害をもたらす。
こういった動物を捕まえるための檻を設置するには、役場に行き、何度か相談する必要がある。
まずは防護ネットや電気柵を試し、それでもダメなら檻の設置に許可が下りる。
このときに役場から登録番号を発行してもらい、その番号と管理者の名前を記載したプレートを、檻のわかりやすい場所にくくりつけなければならない。
捕まえた生き物の回収は、役場が行ってくれる。
ちなみに、鼠は鳥獣保護法の管理下にある動物ではないため、勝手に捕まえて始末しても構わないのだとか。
ホームセンターに鼠捕り用の罠が売られているのは、このためだ。
「すみません、お電話が遠いようで。もう一度おっしゃっていただけますか?」
祖父が通話を続けている。
近くの松の木に雀が止まった。
現在の鳥獣保護管理法が制定される以前にも、野鳥の捕獲を規制する法律は存在していた。
でも昔の田舎は、法令を遵守しようとする意識が欠けていた。
まあ、田舎だけじゃないかもしれないけど。
とにかく、雀を捕まえて丸焼きにし、食べることを、誰もおおげさなこととは考えていなかったらしい。祖父も子どもの頃に食べたことがあるのだとか。
祖父は戦後生まれで、電子レンジや冷蔵庫、洗濯機やテレビといったものがまだ家にない時代を経験している。
修学旅行で東京に行ったときは、汽車だったと話してくれた。
それが、たったの二世代でもうこんなにも時代が違う。
由歌が祖父の年齢になったとき、時代はどれくらい変わっているのだろう。
また話がズレてしまった。
「目玉をくり抜いておけ? ハクビシンの目玉をくり抜いておけと言いましたか?」
祖父が珍妙なことを喋っている。通話だから、相手の声が聞き取りにくいのかもしれない。
祖父の耳が遠いと感じるような兆候は見られないけど、もう結構な歳だしなぁ、なんて失礼なことを由歌が思っていると、
「できれば皮を剥いで、塩と胡椒もかけておけ? あなたは何を言っているのですか?」
祖父が声を荒げた。どうやら聞き間違いじゃないらしい。
いよいよこれはおかしなことになってきたぞと、由歌は身構えた。
最初の要求は、ハクビシンの目玉をくり抜いておけ。
次の要求は、皮を剥いで塩と胡椒もかけておけ。
どことなく『注文の多い料理店』を想起させる。
でもシチュエーションはまったく違う。
由歌と祖父が食われると感じるような要求ではない。
どちらかと言えば、食われるのはハクビシンだろう。
ギリギリ、いたずらの域を出ない。町役場の人間がいたずらをする理由なんてないから、やっぱり意味不明だけど。
「……あなたは、いや、お前はなんだ?」
祖父が問うた。それと同時に通話が切れたらしい。祖父はスマホを耳から離して、画面を確認していた。
「おかしい。やっぱりちゃんと町役場に掛けている」
こちらが掛け間違えた、というわけじゃないみたいだ。
スマホは嘘をつかない。
……本当にそうか?
電子機器に客観性が担保されているとしても、その画面を見て、脳内で現実を再構築しているのは自分自身に他ならない。
電磁波に干渉できる怪異が相手なら、見ているものすべてを信じることができなくなってしまう。
まあ、ここまで疑うのなら、なんでもありになるけれど。
祖父はもう一度、同じ番号に掛けなおした。繋がった。
「先ほどお電話した百瀬仁です。ええ? ああ。はい。そうですか。はいはい。いえ、ハクビシンが捕まりまして」
一から経緯を説明しなおしている。
相手の反応から察するに、さっきの電話はやっぱり役場に繋がっていなかったようだ。同じ番号に掛けなおしたはずなのに、一体なぜ?
「ええ、はい。よろしくお願いいたします」
今度の話し合いはスムーズに終わったらしい。
祖父は通話を切ってから、由歌に向かって肩をすくめた。
「この後、役場の農政課の人が来て、ハクビシンを回収してくれるって」
「最初のあれはなんだったの?」
「俺にもわからん。一回目と二回目で、同じ番号に掛けたがな」
「最初の電話は、何かのトラブルがあって、全然違う場所に掛かっちゃったんじゃない?」
そのトラブルには、おそらく怪異が絡んでいるだろう。
祖父は納得いかないのか、しきりに首をひねって、
「しかしなあ。二回目の電話に出た人は、最初の電話に出た人と同じ声だったよ」
◇
その後、約束通り役場の人がやってきてハクビシンを回収していった。
不審なところは何もなかった。
結局、最初の電話がなんだったのかわからないまま夜になった。
祖父は友達と飲みに行く予定があるからと出かけていき、由歌とウワバミの一人一匹で留守番をすることになった。
ウワバミはここぞとばかりに人間の姿に戻り、手酌でお酒を飲みながら、居間のテレビでサブスク型の動画配信サイトを起動させてアニメを見ていた。
由歌も自室に戻らず、ウワバミに絡まれながら一緒にアニメを見た。魔法少女のアニメだった。黒猫というモチーフに親近感を抱いたのかもしれない。
「やはり魔法少女には黒猫だよな」
と、わかったようなことを言っている。
時刻が午後の八時を回った。
ドンドンドンドンッ!
と、いきなり家の玄関が叩かれた。もちろん祖父ではない。鍵を忘れて出ていくような人じゃないし、そもそも祖父だったら「ユウタ、開けてくれ」と言うだろう。
玄関前にいるその誰かは、無言のままドアを叩いている。チャイムを押せばいいのに、どうしてこうも強く叩くのだろう。
いやいや、ちょっと待て。
この家の敷地に入る前に、鍵のかかった通用門があるはずだ。
来訪者はその門をなんらかの方法で通り抜けて、いきなり玄関前に現れたことになる。それ自体は難しいことじゃない。敷地を囲っている塀をよじ登れば誰でもできる。
問題は、そんな泥棒まがいの行為で侵入しておいて、玄関の扉は叩くという一貫性のない行動だ。何がしたいのかわからない。
玄関を叩く音は止まない。
由歌は足音を殺すようにして、玄関まで移動する。すりガラスの向こう側に、黒い人影が映っている。またこれかよ、と由歌は思った。勘弁してくれよ、と。すりガラス恐怖症になりそうだ。
「ハクビシンを引き取りにまいりました」
黒い人影が言った。
ウワバミが由歌の横に立ち、刀の柄に手を置いた。
「由歌。出るなよ。俺の結界が張ってあるから、中に入ってくることはできない」
「出ないよ」
玄関を叩く音がどんどん強くなる。これ以上叩けば扉が壊れてしまうだろう、というくらいに強く激しく叩き続ける。ガンガンガンッ! 誰かいませんか? ハクビシンを引き取りにまいりました。ガンガンガンッ! 誰かいませんか?
由歌とウワバミは返事をしない。すりガラスの向こうの影が、妙な形をしていることに気がついた。玄関を叩くように動いている腕の影が、多い。
ガンガンガンッ!
誰かいませんか? ハクビシ――、
音が止んだ。
夜の闇が、急に深くなった。肌を刺すほどの静けさの中で、由歌はごくりと唾を飲み込んだ。その音がやけに大きく聞こえた。
ウワバミはいつでも抜刀できる姿勢を崩さない。
「約束が違う」
とその黒い人影は言い残して、すりガラスの向こう側から、すうっと消えていった。
由歌はしばらくの間、その場に立ち尽くしていた。
約束ってなんだろう。
あのとき電話口で応対していた祖父は、謎の声と約束なんてしていなかったはず。そのことをウワバミに言うと、
「仁との電話を、自分勝手に解釈したのかもな」
「困るよ」
「怪異ってそういうところあるから」
フランクに言う。軽く流していい話題じゃないと由歌は思った。逆恨みどころか、きっかけや接点がなかったとしても一方的に恨まれる可能性がある。
「価値観が違うって、怖いことなんだね」
「まあ結局のところ、最終的にものを言うのは力だ。由歌も鍛えるといい」
野蛮だと思ったけど、よくよく考えたら人間もそんなに変わりない気がする。
「玄関こそ突破されなかったけど、敷地内には侵入されてしまった。強力な結界を張り直さなきゃな」
ウワバミがようやく、柄から手を離した。次の瞬間、かちりと玄関の鍵が回された。由歌は固まり、ウワバミは抜刀した。すりガラスの向こう側に誰かがいる。そいつはなかなか扉を開けない。何かに手間取っているらしい、がちゃがちゃと謎の音が聞こえる。
しばらくして、玄関が勢いよく開かれた。
「ただいま~」
祖父だった。
頬のあたりが、少し赤い。珍しく酔っぱらっているらしい。
ウワバミの変化の速さたるや、隣にいる由歌の目でもとらえきれなかった。いつの間にか、黒猫の姿に戻っていたのだ。
ウワバミのしおらしい様子から、さっきまでいた謎の人影が祖父のフリをして家に上がり込んできた、という事態じゃないとわかる。
目の前にいるのは、正真正銘、本物の祖父だ。
「おじいちゃんかぁ。良かった~」
「どうしたどうした。玄関まで出迎えに来てくれるなんて」
「おかえりなさい」
「おう、ただいま」
祖父は、謎の人影が去った後、割合すぐにやってきた。
家の前でその人影とすれ違っていても不思議じゃない時間差だ。
普通に考えれば危険な状況のはずだけど、祖父ならうまいこと回避していてもおかしくはない。とにかく危機回避能力がずば抜けているのだ。
だからこそ祖父は不思議な現象を信じ切れず、由歌も怪異のことを相談できないのだけれど。
「家の前で、誰かとすれ違った?」
「いや~? どうだったかな。誰もいなかったと思うが……」
しかし祖父は断言せず、何かを考えるように宙を睨み、
「ああ、いや。そういえばいた。遠目だったけど、門から出てくる人影を見たんだ」
「どんなやつだった?」
「腕が四本あった」
「……」
「まあ、見間違いだろうな。そんな奴いるわけないし」
少し飲みすぎてしまったかな――と、祖父は上機嫌に笑った。
ここまでおかしなシチュエーションではなかったけれど、半分くらい実話。




