過去を掘り返すイノシシ1
祖父と一緒に、山菜を採りに行くことになった。
家のすぐ裏手にある小高い山だ。
距離は近いが徒歩で行くわけじゃない。祖父が運転するジムニーに乗って向かう。後ろの席にはウワバミも乗っている。もちろん黒猫の姿だ。
「でも、いいの? 勝手に山に入って」
「俺の持ち山だから。自由に取り放題」
山を所有しているなんて、祖父はなんて金持ちなのだろうと由歌は思ったけれど、詳しく話を聞いてみると資産的な価値はないらしい。
さすがに二束三文ではないけれど、固定資産税を払ってまで所有している意味はあまりないのだとか。
とはいえ手放すにしても買い手がいない。
不法投棄をする輩がたまにいるから、定期的に山に入る必要がある。
先祖代々の土地だからなんとなく引き継いだけど、山菜取りくらいにしか使えないと祖父は嘆いていた。
「松茸は出ないの?」
由歌が訊くと、
「昔は出たらしいぞ。ここにはアカマツ林もあるからな」
「……昔?」
「俺が子どもの頃は、まだ灯油なんて気軽に使える時代じゃなかった。学校じゃ薪ストーブを焚いていてな。子どもたちは各々、ストーブ用の薪を持って登校しなければならなかったんだ。この山は私有地だが、俺の爺さんはそういったことを気にする人じゃあなくてな。たくさんの人が毎日山に入って、落ち葉や枯れ枝といったものを拾っていたんだ。そうして人の手が入っていた頃の山は、今よりずっときれいだった。そんな山じゃ松茸もよく出たもんだが、今じゃ山も荒れて、めっきり見かけなくなっちまった」
由歌はがっかりした。
「松茸は取れないが、山菜は採れる。山菜は美味いぞ」
「へえ」
「その山菜採りも、近年は熊が出るから危険だがな」
「ニュースで見たよ。日本全国で熊の被害が増えているって」
市街地でも襲われる世の中だ。こんな山奥では、何をかいわんや。
祖父も、命を懸けてまで山菜を採るつもりはないらしい。
山道のすぐ脇に生えているフキノトウだけに焦点を絞り、素早くドアを開けて摘む。
そしてすぐにドアを閉めなおす。
車から外に出る時間は一秒もないし、ドアの開閉前には周囲の確認を怠らない。
この行動を徹底することで、危険をなるべく排除していた。
まあ、いざとなったらウワバミがなんとかしてくれるはず。たぶん。
怪異と熊はどちらが強いのだろう、なんてことを由歌は考える。
怪異の熊がいたら、そいつが最強かもしれない。
「本当は、この林を歩いた先にいっぱいあるんだけどな。今は怖くて歩けない」
残念そうに祖父が言う。続けて、
「……ああ、まったくなあ。ユウタにたらふく食べさせてあげたかったなあ」
本当に残念そうだ。
「いや、命の方が大事だから。車から出ちゃダメだよ」
「わかっているさ。タラの芽や、コシアブラは庭にいっぱい生えているから。それで我慢してくれ」
「う、うん」
山菜を食べたことがないのだから、我慢するも何もない。
酸っぱいブドウだって、そもそもブドウの味を知っているから成り立つのだ。
未知の食材が記憶の中の味覚を刺激することはあり得ない。
そんなに美味しいのか、と想像するだけである。
車からすぐに採れる範囲だけでも、フキノトウはどっさりあった。
由歌の目には、ちょっとぽってりしただけの草にしか見えないけれど。
どんな草であっても、天ぷらにしてしまえば美味しいのだろうと、その程度の解像度しか持たない由歌である。
「知っているか? フキノトウにはオスとメスがあるんだ」
「本当?」
「もちろん本当だとも」
由歌は、ウワバミの横に置いてある後部座席のフキノトウをいくつか手に取ってみたけれど、違いはわからなかった。
説明を求めて祖父を見る。
「形が違うんだよ。丸っこいのがオスで、ちょっと細長いのがメスだ」
そう言われて改めてフキノトウを確認したけれど、やっぱり違いはわからなかった。
由歌が首をひねっていると、
「わからないか」
と祖父が苦笑していた。続けて、
「オスとメスで色が違うと言っている人もいたが、それは俺にもわからなかったな」
「色?」
これまた確認してみたけれど、やっぱり由歌にはわからない。
「どれも全部、同じ緑色に見えるよ」
「その人は、色彩感覚が優れているんだろうな。由歌は目の前の草木を見て、何色だと感じる?」
「緑色じゃないの?」
「まあ、そうなんだが。俺でももうちょっとは細分化することができるな。たとえばあれは萌黄色だし、あれは青竹色だろう。あそこに生えている草は深緑か。一口に緑色といっても、たくさん種類がある。見分けられるようになれば、山の中がもっと色鮮やかに感じられるだろうな」
由歌の目には緑一色に見えているこの自然も、色の解像度を上げればまた違った景色に見えるのかもしれない。
祖父の目に、この山はどう映っているのだろうか。
「さあ、帰って昼食にしよう。今日は天ぷらだ」
「楽しみ」
由歌が言い、後部座席にいるウワバミも「にゃあ!」と鳴いた。
山道は狭いため、山の中腹あたりの開けている場所までジムニーを進めた。
そこでUターンをして、やっと山を下りることができる。
「ん? あれは何?」
助手席から外を眺めていた由歌は、山の斜面がごっそりとえぐり取られている個所を見つけた。
それこそ、ショベルカーで大規模に掘り返されたような跡だ。
でも、どこか無造作だったし、何かの意図があって行われたようには見えない。
ただただ意味もなく、斜面が掘り返されただけのように見える。
「あれはイノシシがやったな」
「え? イノシシ!?」
自然の生き物が、ここまで深く土をえぐるなんて。熊も危険だが、イノシシもかなり危険だと、この光景を見てわかった。
山には危険がいっぱいだ。
「フキノトウがたくさん生えている場所だったんだろう」
「イノシシもフキノトウを食べるの?」
「食べるよ。美味いからな。もちろん熊もフキノトウを食べる」
山の生き物も意外とグルメだ。ちゃんと美味しい草を選択して食べている。
それにしてもフキノトウって、山の中で争奪戦が起こるほど美味しいのか。
由歌はがぜん興味を抱いた。
祖父が車を発進させる。
来た道を、ゆっくりと下りていく。
そろそろ百瀬家に辿りつくという山際で、一人の女の子とすれ違った。
一目見て幽霊だと思った。あるいは新手の怪異かと。
肌が青白く、不健康そうな色合いをしている。
目の下にはクマがあり、ジトっとした目つきと相まって、生気があまり感じられない。
黒髪は腰まで届きそうなほど長く、ボリュームが多いせいか重たい印象を与える。
夜にすれ違っていたら、確実に悲鳴を上げていただろう容姿だ。
でも女の子は、この町の中学の制服――紺のブレザーに青チェック柄のスカートを着ていた。つまり同じ学校の子だ。
とはいえ由歌は不登校で、一度もここの中学校には通っていないけど。
すでに新学期は始まっていて、他の子たちは学校にいる時間帯だ。そんな時間に女の子が一人で、こんな場所で何をしているのだろう。
幽霊か怪異か。そうでなければ、よほどの事情があってここを歩いているか。
もちろん最後の可能性が一番高い。
さすがに祖父も車を止めた。窓を開けて話しかけた。
「こんなところでどうしたね」
女の子は、祖父の顔をちらりと見た。そして助手席に座っている由歌にも視線を向けた。
由歌の心情的には多少気まずいけれど、でも心配する気持ちの方が勝った。
女の子は何も言わない。
「熊が出るから危険だよ」
祖父がなおも声をかける。それでも女の子は無言を貫いている。
ゆっくりとした足取りで、歩を進めている。
「俺はあやしい者じゃない。この山を管理している百瀬仁だ」
祖父は免許証まで取り出して、女の子に見せた。それでも彼女は何も言わない。
熊が出るかもしれないと言われている山際に、子どもを一人、理由もわからず残していくことはできない。
しかも彼女は、制服を着たままふらふらと歩いている。そしてここは祖父の私有地でもある。
管理責任という面から鑑みても、彼女を放っておくという選択肢はあり得ない。
とはいえ、ムリヤリ車に乗せるわけにもいかない。
「警察に通報した方がいいか」
祖父が呟くと、
「それは止めてください」
聞こえていたのだろう、女の子が答えた。
ようやく喋ってくれたけれど、その返答に祖父はますます困ってしまったらしい、情けない顔をしながら由歌を見た。
同じ学校の生徒だろう、なんとかならないか、と祖父の視線が訴えている。
無理だ、と即答することはできなかった。
由歌は頷き、意を決して車から降りようとした。
「にゃあ」
と後部座席のウワバミが鳴いた。
「あ、猫だ」
女の子の声音は明るかった。
この機を逃すまいと、祖父が、
「ここは熊が出る。何があったかわからんが、帰った方がいい。家まで送っていくよ」
「……お願いします」
意外なことに、女の子は素直に答えた。
それからジムニーを眺めて、首を傾げた。
後部座席を開けるためのドアがなくて困っているらしい。
結局、由歌が車からいったん下りて助手席を前に倒す必要があった。
ジムニーはこういう構造の車なのだ。
そうやってできた助手席の隙間から、女の子は後部座席に乗り込んだ。
由歌は席を元に戻して座りなおした。
祖父がジムニーを発進させる。
女の子はフキノトウに囲まれながら、横に座っているウワバミに手を伸ばし、そのアゴをくいくいと撫でた。ウワバミはまんざらでもなさそうに、
「うにゃうにゃ」
と鳴いていた。
なんという呆けた面だろう、由歌は見ていられなくて、視線を窓の外に向けた。
重なる木々の奥に、四足歩行の何かがいた。
あれは、イノシシ?
勝手にショベルカーと関連付けていたせいか、とんでもない巨体を想像していたけれど、実際のイノシシはそんなに大きくなさそうだ。
由歌が見ていることに気がついたのか、イノシシはさっと木の裏に隠れてしまった。




