百瀬家1
そいつは、やたらと剣に詳しかった。
名前を我捨羅と言って、人の骨から生まれた怪異だった。
「なあ、黒霧。おいらと一緒に剣の道を極めようぜ」
と、我捨羅は隣にいる別の怪異に言った。こっちの名前は黒霧。明確な形を持たない霧の集合体だ。どのような形にもなれるせいで、基本的な自分の形を決めかねているという、変な怪異だった。
「この本を読めば、強くなれる」
我捨羅が黒霧に見せてくれたその本は、『剣禅話』と書かれていた。
「その本をどこで手に入れた?」
「刀と一緒さ。深淵に来た人間から奪ったんだ」
我捨羅は自慢げに言った。
ごく少数だが、人間にも深淵と行き来できる者がいる。
そうした能力を持つ者の中には善人もいれば悪人もいて、悪人が思いつくことはだいたい似通っていた。
つまり、人間の世界で人を殺し、深淵に捨てればバレない、という思考だ。事はそう単純ではないのだが、怪異側に人間の勘違いを正す理由はなかった。
ここに捨てられた死体から、怪異が生じることもある。
我捨羅は、そうやって生まれた。
死体から生まれた怪異は、生前の記憶を受け継いでいる場合とそうでない場合があり、我捨羅は後者だった。
だから復讐には関心がなく――まあ記憶がないのだから当然だし、生まれ直したと表現することもできるが――とにかく、我捨羅の興味はもっぱら剣へと注がれることになった。
「この本には、『剣の極意は春風を斬ること』って書いてある。なあ、黒霧。春風ってなんだ?」
「俺に訊くな。わからん」
「まあ、いろいろ斬ってみればいいか」
もともと人間の骨格なわけだし、他の怪異よりも剣術には向いているだろうと、黒霧は他人事のように思った。
我捨羅は、深淵にやって来る人間を襲い、刀と剣術の教本を手に入れた。なぜかはわからないが、深淵にやってくる人間は様々な書物を携えていた。
黒霧は、たまたま近くを通りかかった人間に理由を訊いたことがある。
いわく深淵は、人間の世界とまったく異なる理屈でできているらしい。
この空間に長くいると、人間は自分が何者なのか忘れてしまう。
そこで、自分の指針となる言葉が重要となってくる。
この世界では電子機器が使えないため、たとえば音楽再生用プレイヤーなどは持ち込めない。歌詞でも詩集でも小説でもなんでもいいが、紙に書かれた物を持ち込む必要があるのだ。
そして自分が何者なのかわからなくなったときは、指針となる言葉をたびたび読み返し、自分の形を思い出す必要があるのだとか。
その当時、黒霧はまだ『でんしきき』がなんなのか知らなかったが、言葉の意味はなんとなく掴めていた。
人間たちの考え方は、自分の形を決めかねていた黒霧にちょっとした示唆をもたらしてくれた。
とはいえ、すぐに彼らの書物を手に取ったわけじゃない。それには一つのきっかけが必要だった。
我捨羅が旅に出ると言い出したのだ。
「おいらは自分を探しに行く。刀と本は置いていくよ」
恩着せがましく言った我捨羅だったが、彼は刀も本もすでに大量に持っていた。そのうちの一振りと何冊かを置いていく、という意味だ。
それでも黒霧はありがたく頂戴した。
「どこに行くんだ?」
「人間の世界へ」
と、我捨羅は答えた。
そして、本当に深淵から去ってしまった。
話し相手だった我捨羅がいなくなり、黒霧は書物と対話をするようになった。
我捨羅が置いていった本に書かれている言葉は難しかったので、何度も何度も読み返さなければならなかった。
その内、明確な形のなかった黒霧が、自然と人の輪郭を作るようになっていった。
「不射の射……? 名人になるということは、弓の存在を忘れること?」「我捨羅も言っていたが、春風を斬るってなんだ。人間から聞いて、春風はもう知っている。ある季節にだけ吹く風のことらしいが、それを斬って何の意味がある。そもそも風は斬れるのか?」「初太刀で人生が始まり、初太刀で人生が終わる。次の太刀でまた人生が始まり、そしてまた人生が終わる。一太刀ごとにすべてを懸けろ。一太刀ごとに人生で最初の一撃だと思え……か。そもそも人生がわからん。人間は簡単に死にすぎる」
あるとき黒霧は、刀を手に取り、振ってみた。
感想は特になかったが、つまらないとも感じなかった。
それから幾度も幾度も刀を振った。
何度も振ってわかることと、どれだけ振ってもわからないことがあった。
ただ、我捨羅が刀を振って何を考えたのかはわかった。
黒霧も、旅に出ることに決めた。
行く先はやはり人間の世界だ。刀と剣術を生み出した人間に、直に教えを請わなくては、これ以上進むことはできないと思った。
強くなりたいわけじゃない、進みたいだけだ。剣の道を。
人間のフリをしながら、全国津々浦々の剣道場を回った。
人を斬ろうとは思わなかった。黒霧は人に敬意を抱いていた。もちろんくだらない奴とも数多遭遇したが、それでも黒霧は、人を害することだけはしなかった。
人間の世界の常識をいくつも知った。
長く住むことで、季節の概念も体得した。
しかし、春風と、他の季節の風に違いは感じられなかった。風は風だ。それでも春風を斬るという剣技を一応試してみたが、やはり意味はわからなかった。
そのうち、人間の世界が慌ただしくなった。
戦争が始まったのだ。もちろん黒霧には関係ない。
戦時中は山にこもって、怪異相手に剣を振るった。人の法など関係なく、またこちらを殺すつもりで襲ってくる怪異に対して、容赦をする必要はなかった。
人に教わり、怪異を斬る。
黒霧は、そのようにして自分の腕を磨いた。
そのうち人の形に拘る必要はない、と考えるようになった。自由自在に変化できる自分の特性をもっと活かすべきだ。
最初は方向を決めず、無軌道に姿形を変えて試してみた。たとえば腕を生やしてみたり、不定形になったり。
面白かったが、黒霧はそれをうまく活用できなかった。
いろいろ試すうちに、動物の姿がしっくり来るとわかった。
その中でも、猫、蛇、烏、あたりが自分の性に合っていた。
ときどき、我捨羅のことを思い返した。
たいして思い入れはないけれど、いつかもう一度会ってみたい。そのとき、奴とは斬り合いになるだろうか。それとも和気あいあいとした話し合い――それこそ磨いた技術の情報を交換するような会話になるだろうか。
どちらになっても面白い、と黒霧は思った。




