百瀬家2
「お前、怪異か」
初めて人間に、正体を見破られた。
時代は1940年代後半。戦争は終わったものの、その傷跡がまだまだ色濃く残る時代。
黒霧が潜伏していた田舎町は爆撃の被害も少なく、田畑もそのまま残っていた。
そのため、人間たちが食料に困ることはなかった。
もちろん豊かとは言い難かったが、都市部に比べれば、戦争による生活への影響は少なかったようだ。
町には剣道場があり、そこそこ人も集まっていた。
だから黒霧はその町に潜伏し、人のふりをして道場に通った。
そこで、見破られたのだ。
「話があるから一人で来い」
そう言われた黒霧は、山の中腹でその男と対峙した。
名を、百瀬聡と言った。
赤紙で徴兵され、終戦間際にフィリピンへ送られたものの、戦う前に日本が降伏したおかげで運よく帰ってくることができたという男だった。
聡は、黒霧との会合に刀を持ってきていた。
それを見た黒霧も、インパネスコートと同化させていた刀を顕現させた。そこは山の中腹でありながら、木々が少なく空間的には開けているような場所だった。
百瀬家の所有している土地だとか。
季節は春で、山道の両脇には桜が咲いていた。
「どうしてわかった?」
黒霧は誤魔化さずに答えた。
「いや、なに。この前さ、お前と似たような奴と遭遇してね。確か名前は我捨羅と言ったかな」
「……」
「そいつは人のフリをしながら闇夜に紛れ、人を斬っては快楽に浸るという、有体に言って最悪の怪異だったな」
「そうか。人を……」
思えば我捨羅は、最初からそういう奴だった。
深淵にやってきた人間を襲い、刀と書物を奪うような怪異だった。
こっちの世界に来た後も、好き放題に人間を襲ったのだろう。
「あなたは、その怪異をどうしたんだ?」
「もちろん斬ったよ。人間の中には、そういう役割の者がいる」
「そういう役割?」
「こちら側に来た怪異を斬るという役割」
我捨羅は人間を甘く見た。そして斬られたのだ。
「俺が、その我捨羅に似ていると?」
「うん? まあ、そうかな。ついさっきまでは似ていると思ったが、今はあまり確信が持てない。だが危険な匂いがすることだけは確かだ」
「俺を斬るのか?」
「そうだね。斬る」
聡は刀を抜き放った。
対する黒霧も刀を抜いた。鞘はインパネスコートの中に戻した。
聡はこちらが準備するのを待っていたらしい、黒霧が構えると、いきなり突っ込んできた。それもかなりの速度だ。剣先が頬を掠めていったかと思うと、返す刀でさらに肩を斬られた。油断していたつもりはなかった――いや、無意識のうちにしていたのだろう。どこかで人間など、自分の足元に及ばないと舐めていた。
剣技を教えてくれたのは、その人間だというのに。
黒霧は気合を引き締め直す。
風が吹き、木の葉が舞い落ちる。その落ちる葉を縫って、聡の刀が襲いかかる。葉の方が刀を避けていくように、黒霧には見えた。だからなんだ。刃が葉に当たらないから、なんだと言うのだ。
黒霧はその斬撃を躱して、カウンターを狙う。
なぜか、躱したはずの刃が目の前にあった。
途中までは追えていた。
しかし、その柔らかな斬撃の軌道を、落ちる葉の一枚が途中でかき消したのだ。
尾を引くように伸びる残光も、その葉までしか存在していない。
狙ったのか偶然なのか、それは桜の花びらだった。
黒霧はすんでのところで躱したが、体勢を崩してしまう。
そこに追撃の刀が飛んでくる。それらの斬撃は、まるで吸い込まれるようにして黒霧の肉体を通り抜けていった。霧の集合体である自分だから致命傷にならなかったが、怪異の種類によっては今の攻撃で終わっていただろう。
黒霧は意味が分からなかった。
これまで本の中で見てきたような斬撃が――矛盾と哲学に満ちていながら同時に実用的であるという――理解を超えた斬撃が、そこにあった。
なるほど、と黒霧は思う。
これを言葉にしようとするなら、ああなるか。
さて、と刀を構えなおそうとして、異変に気がつく。自分の右手がない。
先ほど斬られたから?
だが、自分に斬撃は効かないはず。
「お前さん、人間を舐めすぎだよ。俺は、怪異を斬る者だ。そういう技術があるに決まってんだろ」
「……そうか」
余裕を見せている場合じゃない。
この相手には、自分のすべてをぶつける必要がある。
右手はわかりやすく切断されていたが、その他にも、二、三の斬撃を黒霧は受けている。自分の体は、思ったよりダメージを負っていると考えた方がいい。
気がついたら死んでいた、ということになりかねない。
失った右手の霧は戻ってこないが、自分の体積を減らして右手に回すことはできる。
少し薄くなった黒霧が、両手で刀を構えなおした。
そのまま人間の姿で刀を振ると見せかけて、即座に猫に変化し、聡の懐に飛び込んだ。
さしもの聡も、これには虚を突かれたらしい、隙ができた。今の黒霧は、刀と動物が一体化している。口にくわえて振る、という形も考えてみたが、これはどうにもうまくいかなかった。猫の爪やそのしなやかさ、素早さを最大限活用するにはどうすればいいかと考え、いっそのこと動きそのものを剣とすればいいと思い至ったのだ。
結果、刀と一体化しての剣術、あるいは体術が完成した。
面白いことに、人間の姿のときだけは、刀を顕現させて握ったほうが強かった。
聡は猫を蹴り飛ばそうとしたが、黒霧が先ほどまで持っていた刀を手にしていないことに気がついたのか、足を止めた。
そして至近距離から身体をひねって、あの柔らかな斬撃を放った。
黒霧は猫の全身を使ってしなやかに躍動し、斬撃を前足で止めた。
刀と刀のぶつかり合う、硬質な音が鳴った。
つまり聡の選択は正解だった。もし黒霧を蹴っていたら、聡の足の方が斬り捨てられていただろう。
今の黒霧は、体のどこが刀と化しているのか、見た目にはわからない。
とはいえこれは、一発芸的な発想である。
現に、猫の姿形に見慣れてきた聡は、またしても黒霧を追い詰めはじめた。
黒霧は猫の形に限界を感じ、すぐさま烏へと変化した。しかしこの選択は間違いだった。今戦っているこの場所は、そこそこ開けているけれど、少し離れれば四方八方に樹木が生い茂っている。
もちろん聡は、そういった木々の合間に飛び込んだ。
空からの攻撃は制限されてしまい、これまた黒霧は、あっという間に追い詰められてしまった。
残るは蛇の形だけだ。この形態はもっとも黒霧に適していたが、それゆえに手加減ができなかった。また、蛇の形で斬撃を放つには、ある程度の距離と空間が必要であり、そんなスペースはここにない。
それでも起死回生の一手はここにしかなかった。
黒霧は蛇の姿に変化し、様子見をしようとしていた聡を上空に跳ね飛ばした。
「……! やられたッ!」
聡が叫ぶ。この戦いが始まってから、初めて彼が焦ったところを見た。
黒霧は地面でとぐろを巻き、空中で身動きが取れなくなっている聡に向かって、バネ仕掛けのように跳ね上がった。
その巨体のすべてが一つの斬撃、黒い閃光と化す。
軌道上にあるすべての物体を飲み込むようにして斬り刻む。
春風を斬ることはできない。黒霧にはまだその意味がわからない。聡の斬撃ならば、それが可能かもしれない。
ああ、人間とは、なんて素晴らしい生き物なんだ。
黒霧は我が身を恥じた。次々と変転し、相手をかく乱するこの戦法を恥じた。聡はただ一つの姿で戦っているというのに。
それでもこの姿にならなくては、聡とまともに戦うことができなかった。
潔く斬られるよりは、この身を恥じてでも聡と斬り結ぶ方を選んだ。
こんなことを考えるのは初めてだ。
怪異と戦うときは、向こうもこちらと同じか、それ以上にさまざまな形へと姿を変える。怪異に卑怯という概念はない。
どんな手段を使っても、勝った方が正しい――いや、正しいという概念もない。
人間の価値観とは別の軸で存在していて、それも怪異同士で隔たりがあった。
黒霧は、剣や弓、禅の本を数多く読んだ。そういった書物に影響を受けたのだ、と簡単に因果を結びつけることはできない。
我捨羅だって似たような本を読んだのに、黒霧とは同じ考え方にならなかった。奴は、人間を襲うことに躊躇がなかった。
黒霧は、こういう性格に生まれた。
それだけのことかもしれない。
聡は空中で体をひねり、回転するようにして斬撃を繰り出した。そこに巨大な黒い閃光がぶつかる。
ちっぽけな聡の体を飲み込みながらさらに上昇し、黒霧は蒼天を突いた。
勝ったと思った。
その次に、惜しいと思った。
もしかしたら、あれほどの剣技を見ることはもうないかもしれない。初めて人間を殺してしまったが、それは命を奪ったことの後悔ではなく、凄まじい剣技が失われたことへの後悔だった。
ぞわり、と黒霧の身が震えた。
自身の体に何かが起こっている。
まさか……!
蛇の形をしているとはいえ、先の攻撃は体のすべてを使った斬撃だ。つまり本当に聡を食ったわけじゃない。いわば斬撃の嵐に飲み込まれたようなものだ。中の人間は跡形もなく消滅したはずだ。
それでも嫌な予感は止まらない。
いったん蛇の形を解いて、霧を拡散させる必要がある。
「惜しかったなぁ」
どこからともなく声が聞こえた。
一閃、二閃、三閃と、黒霧の体内で斬撃がいくつも閃いた。
聡は、黒霧の巨大な斬撃を完璧に受けきったのか。
そんなことが、可能なのか?
可能なのだろう。
実際に、やってのけた人間がいるのだから。
黒霧は内側から破裂した。聡が姿を現して、
「さすがに肝が冷えたよ」
飄々と言った。
青空に、自分の体が溶けていく。もう形を成していることすらできない。風がやけに清々しくて、これが春風なのかと初めて知った。知識ではなく体得した。
聡が最後の一閃を振るう。風を斬るように向かってくる。ずっと知りたかったことを、このような形で知ることになるとは思わなかった。春風を斬ることはできなかったが、春風と共に斬られるのだ。
最期に見る刃が、これで良かった――。
しかし、どれだけ待ってもその一撃はやってこなかった。
見れば、刃は黒霧の前で止まっている。
「お前さん、人を殺したか?」
「……いや」
「そうか」
と聡は考え込むように宙を睨んだ。
「信じるのか?」
「ああ。俺だって馬鹿じゃないからな。刀を交えればわかる」
「だが、あんたのことは殺そうとした。初めて人を殺すために剣を振るった」
「それはいいよ。結果的には殺されなかったし」
寛大なのか、なんなのか。
「これから人を殺す予定はあるか?」
と聡は訊いてくる。
黒霧は考えるまでもなく、
「今のところない」
聡以外の人間に、この刃を向けることはないだろう。
「そうか。それじゃあ取引しよう」
「取引?」
「お前のことを見逃すから、俺を地上まで下ろしてくれ」
今二人がいるこの場所は、高い高い空であり、聡と黒霧は落下している最中だった。あれだけ凄まじい剣を持つ聡であっても、叩きつけられれば死んでしまう、ということか。
人間とは、なんと不思議な生き物だろう。
強いのか、弱いのかわからない。
「わかった。いいだろう」
蒼天の下で、怪異と人間は手を取り合った。
春風が吹いている。とても爽やかな春風が。
黒霧は、聡を地上に下ろした。
聡も約束通り、黒霧を斬らなかった。
この日から、聡と黒霧は一緒に稽古をする仲になった。




