過去を掘り返すイノシシ9
真奈が義母を見殺しにしたことを、枯木優子はうすうすわかっていた。
あの日、真奈の様子はおかしかった。必死に取り繕っていたけど、何かを隠そうとしていることはわかった。次の日、祖母が発見された。そのときの真奈の表情を見て、優子はすべてを察したのだ。
そして、知らないフリをすることに決めた。
なぜなら優子は、真奈に感謝していたからだ。
真奈が悲しむ必要はない。罪を背負うことはない。この子がこのような選択を取るほど追い詰められてしまったのは、ひとえに周りの大人の責任だ。もちろんそこには優子自身も含まれる。
これ以上真奈に、辛い思いをさせてはならない。
今まで唯々諾々と夫の言うことを聞いていた優子は、義母が亡くなってから、初めて夫に反論した。夫は目に見えて狼狽したが、すでに母がいなくなっていたこともあり、
「もう介護要員は要らないから。ちょうど良かった。お疲れ様」
と捨て台詞を吐き、すんなり離婚に応じてくれた。
家族の縁は、あっけなく壊れた。
これまでの人生はなんだったのかと優子は思ったが、過去のことを振り返っても仕方がない。真奈の未来を守らなければならないと奮起した。その想いが少々行き過ぎてしまい、スマホを厳しく管理したり規制をかけたりもしたが、どれも大事なことだ。
たとえば真奈が仲良くなったという友達がいれば、メッセージのやり取りから相手がどういう人かを把握し、優子がふさわしいと思えなければ、真奈と縁を切るよう相手側に迫った。そもそも真奈にふさわしい人などいない。
真奈は孤立したが、これでいいのだ。この先の娘の人生に、くだらない相手は不要だ。優子は娘に、自分と同じ轍を踏んでほしくなかった。
真奈に嫌われているという自覚はあったけど、これも娘のためと思って耐えた。どうしても我慢できないときは、
「あなたのためを思って、やっているの」
と口に出して伝えた。
そんな日々を二年近く続けた。
ある日、真奈が、
「光るイノシシが、おばあちゃんを土の下から掘り返そうとしている」
と言った。ああ、とうとうこの子までおかしくなってしまったと、優子は思った。
かつて、真奈が義母を見殺しにした。そのことを優子は気がついている。
真奈が罪の意識を覚えなくてすむようフォローしてきたつもりだったが、ついに過去が、真奈の心を捉えたのだ。
「そんなことはありえない。何かの見間違いでしょう」
と優子は言った。言い続けた。
でも真奈のことを否定すればするほど、真奈の様子はおかしくなっていった。優子はどうすればいいのかわからなかった。
夫や義母との生活を思い返して、暗澹たる気持ちを抱いた。あいつらは怪物だった。同じ言語を話しているだけの、意思疎通のできない化け物だった。真奈だけは、自分が理解できる身内でいてほしかったのに……。
真奈への過干渉が悪化した。もっともっと愛情をもって接すれば、真奈は元に戻ってくれると信じた。でも真奈は、そんな優子からどんどん距離を取っていった。そしてあるときから、急に顔色が良くなり始めた。優子は不審に思い、娘の服にタグを忍ばせて、位置を追跡した。
ずっと図書館に通っていると思っていた娘は、優子の知らない家で、知らない家族と楽しそうにご飯を食べていた。その家族を調査したところ、真奈と同学年の男の子が住んでいるとわかったのだが、彼は不登校だった。
優子は激怒した。
真奈を厳しく叱責し、二度とあの家に行かないよう強く指導した。場合によっては警察に通報することも辞さないと伝えると、ようやく真奈は観念した。娘は再び、自分の手元に戻ってきた。そしてなぜか、よく喋るようになった。その饒舌さが絶望の裏返しであると、優子は気がつかなかった。
あるところでは勘が鋭く、真奈が義母を見殺しにしたことや、百瀬家に出入りしていることなどを見破った優子だったが、そんな娘が本当に光るイノシシに追われていることはまったく信じなかった。それは優子にとって、ただの戯言に過ぎなかった。
そして、その夜を迎えた。
優子は、家の中の異変を感じ取り、目を覚ました。手元のスマホを確認すると、時刻は夜の三時だった。
何か、妙な悪寒がする。まるで自分の知らない家にいるような、よそよそしい空気を感じる。この空気はどこから流れてくるのだろう。
厚手のカーディガンを羽織って、自室を出た。居間の明かりが点いている。真奈か? こんな時間に何をやっているのだろう。しっかり注意しなければ。ドアノブをひねって、扉を開ける。
優子の目に飛び込んできたのは、ものすごい形相で娘の首を掴んでいる、死んだはずの義母だった。亡くなったあのときの服――白いシャツにゆるいジャージ、そして室内なのに特徴的な花柄のサンダルを履いていた。あまりの出来事に優子は一瞬、頭の中が真っ白になった。でも苦しそうに呻いている娘の表情を見て、体が勝手に動いた。
「娘から離れろッ!」
義母に、思いっきり体当たりをした。義母はテーブルをひっくり返しながら吹っ飛んだ。その場所以外も居間はすでにぐちゃぐちゃになっていて、窓ガラスは割れていたし、カーテンも破れていた。優子が来る前に、真奈と義母は乱闘を繰り広げていたのだろう。
自由になった娘の体を、優子はすぐに抱きしめた。
「もう大丈夫。お母さんがいるからね!」
「……お母さん」
真奈が驚いたような表情で、優子のことを見た。優子はもう一度、娘をぎゅっと抱きしめた。それから、義母の方に視線を向ける。
義母はゆっくりと立ち上がって、優子を見た。生前のときと唯一違う赤い瞳が、優子のことを見据えている。しかし義母はすぐに視線を切って、居間から出て行ってしまった。優子が安心する暇はなく、義母と入れ替わるようにして、全身がぼんやりと光っているイノシシが居間の中に入ってきたのだ。これまた意味不明な存在の登場に、優子は呆然とその姿を見つめた。
亡くなったはずの義母に、光るイノシシ……。
娘の言っていたことは本当だったのか!
「ごめんね、真奈。信じてあげられなくてごめんね!」
優子は娘を庇うように立ち上がった。
「私が守るからね」
こいつらがなんなのか、優子にはわからない。義母の方はともかく、光るイノシシは関係性がまったくない。理由なんてどうでもよかった。娘を追い詰めるのなら容赦はしない。
優子は武器になりそうな物を探したが、何も見当たらなかった。仕方なく、震える手でリモコンを握った。こんな物でも、何も持たないよりはマシだ。
優子は決死の覚悟で、光るイノシシに向かって突進した。リモコンを振り上げて、イノシシの鼻面に思い切り振り下ろした。どうやら相手の弱点にうまいこと当たったらしい、光るイノシシは、
「ぴぎゃああああああああ」
と大声で鳴いて、身を翻した。そして、凄まじい速さで居間を飛び出て行った。それでもしばらくはリモコンを構え、緊張状態を続けていた優子だったが、十分が経ち、もう光るイノシシは戻ってこないだろうと判断できて、ようやく安堵の息を吐いた。その息と一緒に、娘を守らなきゃという気概や闘争心も抜けていった。さらに腰まで抜けて、ふにゃふにゃと、その場にへたり込んだ。
そんな優子に、真奈が抱き着いた。
「お母さん!」
優子も真奈を抱きしめ返す。
「真奈、ごめん。ごめんね」
二人でぎゅっと抱きしめ合った。
真奈が、優子の顔を真正面から見つめた。そして、
「お母さんは、私が思っていたよりも、ちゃんとお母さんだった」
「何それ」
優子は笑おうとしたが、うまく表情を作れなかった。それから娘の顔をじっくりと見て、こんなに大人びていたかな、と思った。優子は娘のことをコントロールしているつもりで、大事なことは何一つ知らなかった。娘は必死に伝えようとしてくれたのに。
聞く耳を持たなかったのは私だ。
怪物と化していたのは、私だ。
部屋の隅で、ガタッと物音がした。優子は慌てて立ち上がったけど、どうやら飾ってあった安物の絵画が壁から落ちた音だったらしい。
「あいつらが戻ってきたら、また私が追い返すから!」
「もう来ないよ。たぶん、来ない」
真奈が噛みしめるように言った。なんらかの確信があるようだ。優子はその言葉を素直に信じることができた。
「お母さんの迫力に、恐れをなしたんだと思うよ」
「そう、かな」
なんであれ、娘を守ることができたのなら、それでいい。
真奈が部屋の中を見回して、
「ぐちゃぐちゃになっちゃったね」
「仕方がないよ。あんなことがあったんだから」
「……うん」
「ねえ、真奈はもしかして」
義母を見捨てたの? と訊こうとした。でもやっぱり、聞く必要がないと思い直した。その代わりに、
「朝日が昇ったら、一緒に掃除してくれない?」
「うん。いいよ」
「また一から、一緒に……」
その先は胸が詰まって、言葉にならない。こんな自分を、真奈は許してくれるだろうか。見捨てないでいてくれるだろうか。
真奈は何も言わなかったけど、でも、笑いながら涙を流していた。優子のこれまでの人生を一言で括ることができないように、娘の人生もまた、同じように一言で表現することはできないのだろう。そして今この瞬間、お互いの、これまでの人生と感情が複雑に絡まり合っているのがわかった。愛憎入り混じる親子関係の中で、それでも真奈は、母に向かって両手を広げた。
優子と真奈は、もう一度強く抱きしめ合った。
◇
「どうだ? なかなかの演技だっただろ」
枯木家から飛び出した光るイノシシは、道の角を一つ曲がると、黒い猫へと姿を変えた。その場で待機していた由歌が、
「お疲れ様」
と声をかける。
優子の前で真奈の首を絞めていた祖母も、その後入れ替わるようにして現れた時猪も、どちらもウワバミの変化した姿だった。
由歌は、枯木家の方に視線を向けて、
「あっちはどうなったかな」
「まあ、なんとかなりそうだったぜ。親子の仲も、良い方向に転がるかもな」
「そうか。それなら良かった」
結局由歌は、枯木家の事情を何も知らない。
親子が不仲であることはなんとなくわかったけど、どういった理由で不仲なのか、そして時猪が真奈の祖母を掘り起こそうとしたのはなぜなのか、何も訊いていない。時猪を倒すに当たって、事情を訊く必要がなかったからだ。
また、親子の仲は一朝一夕でどうにかなるものじゃない。この先好転するのだとしても、時間をかけて慎重に育んでいく必要があるはずだ。
それでも、羨ましいな、と由歌は思った。
「こうなると予想して、この作戦を立てたのか?」
「まさか。親子の仲までは考えていないよ。僕はただ――」
いくつか解決しなければならない問題があったから、それらをなんとかする――正直に言うなら、誤魔化せるだけのアイデアを出しただけだ。
たとえば、ウワバミと時猪が戦ったせいで、枯木家の居間と庭がぐっちゃぐちゃになっていた。
真奈の母親は、これだけの騒ぎがありながら目を覚まさなかった。ウワバミが言うには時猪が結界を張ったせいらしいけど――とにかく、すべてが終わった後で母親が目を覚ましても意味がない。母親にとって真奈は噓つきのままであり、印象が何も変わらない。いや、むしろ嘘をついたうえ、それを信じさせるために家の中で暴れたことになってしまう。それはどうしても避けたかった。
だからウワバミの変化の能力に目を付けた。
母親を起こしてから、わざわざ彼女の目の前で、亡くなったはずの祖母が真奈を襲うところを見せる。ついでにこのとき大立ち回りをして、居間をぐちゃぐちゃにしなおせばいい。
真奈は母親に対して光るイノシシのことも言及していたから、ウワバミには一度廊下に引っ込んでもらい、続けて時猪にも化けてもらった。
真奈が嘘をついていないと、母親に見せつける必要があったのだ。それが親子の不仲を好転させるだろう、なんてことは考えていなかった。ただ、良い方向か悪い方向かはわからないけど、親子の在り方を変えてしまうだろうとは思った。
「真奈の体内のお酒は回収しないの?」
「せっかくだから、少し様子を見るよ」
「そっか」
真奈が熟成させるお酒は、どんな味がするだろう。
「それにしても、今日は色んな存在に姿かたちを変えたよ。黒色じゃない変化は少し大変だったが、まあまあ、上手くできたな」
「さすがは千両役者だね。ウワバミがいなければ、今回の事態が丸く収まることはなかったよ」
「おだてても、何も出ないぞ」
「本当にそう思っているんだって。僕はアイデアを出しただけで、実質何もしていない。全部全部、ウワバミが頑張ってくれたおかげだ」
由歌は謙遜して言っているわけじゃない。今回の怪異も、またこれまで遭遇してきたどの怪異も、ウワバミがいてくれたおかげで生き残ることができた。
「まあ、そうかもな。由歌にとっての守り神は、間違いなく俺だろう。だが、真奈にとっての守り神は、由歌。君だよ」
「え?」
「俺には力がある。だがその力は、基本的に百瀬家を守るためにしか使わない。今回の怪異で真奈が死ななかったのは、由歌が尽力したからだ。君が俺を引っ張り込んだからだ。そして、その責任を君はしっかりと果たした。どうしようもなくなったとき、それを突破するアイデアを出したのは由歌だ」
「そう、かな」
「そうだよ。誇っていい」
由歌はその言葉を素直に受け取った。
「ありがとう」
山の稜線に、朝日が昇り始める。
世闇が消え、新しい一日が始まろうとしている。
「また夜中に外出しちゃったけど、おじいちゃん、怒るかな」
「書置きを残したし、今回は大丈夫じゃないか?」
「あれで許してくれるかなあ」
「さあ、俺にはわからないけど。でも真奈を助けるには仕方なかっただろ。割り切って怒られろよ」
「ウワバミも一緒にね」
という会話をしながら、家に帰った。
雷霆鱗のときは、廊下を通って玄関を開け、外に出たわけだから、いくら静かに行動したとしても、祖父に見つかる可能性があった。つまりバレても不思議じゃなかった。でも今回は、由歌の自室からワープをするようにして消えたわけだし、祖父にはバレていない可能性がある。
そんなことはなかった。やっぱり祖父は、玄関の前で由歌とウワバミのことを待っていた。由歌は緊張したし、足元にいるウワバミも緊張から固まっているのがわかった。
「書置き、見たぞ」
「うん」
「問題は解決したのか?」
「うん」
「今回も、どうしても言えないことか?」
「うん」
「じゃあ、いい。風呂に入るか? 一応沸かしてあるぞ」
「ありがとう」
祖父の雰囲気から怒っていることは確かだが、前回のときともまた様子が違った。祖父が何を考えているかわからず、
「怒っているよね?」
と訊くと、祖父は苦笑して、
「そこまでボロボロになっている姿を見せられちゃあな。真奈ちゃんのお母さんと殴り合いでもしたのか?」
「してないよ」
「真奈ちゃんは、もう大丈夫か?」
「うん」
「じゃあやっぱり、俺が言う事は何もないよ。さあ、ゆっくり休め」
祖父の後に続いて、由歌とウワバミは家の中に入った。やっぱりここが自分の居場所だと、由歌は強く思った。
それから三日後のことである。
「おっじゃましまーす!」
元気な姿をした真奈が、百瀬家の玄関をくぐった。




