過去を掘り返すイノシシ7
もうほとんど、土の下の祖母が掘り返されていた。
あれがすべて出たとき、真奈の身に何が起こるかわからない。
だいたい予想はつくけれど。
下校中である。
光るイノシシは通学路の途中にある空き地にいた。真奈はそれを一瞥しながら、特に反応することなく家に帰った。家の庭にも光るイノシシはいた。真奈には逃げ場がなかった。
由歌のことを考えた。彼が言っていた結界のことを思い返した。
百瀬家に行けば、なんとかなるかもしれない。
でも母にバレたら、どうなるかわからない。警察に通報する可能性すらあった。
真奈に幸せなひとときをくれたあの家を、壊したくない。迷惑を掛けたくない。
「もう、会えないな」
玄関の扉に手をかけたところで、
「真奈!」
背後から呼び止められた。振り向く前から、誰なのかわかっていた。
たったの一週間しか一緒にいなかったのに、彼の声が耳に、脳に刻まれていた。聞いただけで胸が躍った。
ゆっくりと振り向く。
由歌が立っていた。
でも隣に、見たことのない男の人がいた。ボロボロの着流しを羽織るように着ていて、その下に黒いシャツと黒いパンツを履いている。ベルトには錨やら酒瓶やらをジャラジャラと付けていて、まるで何かのアニメのコスプレのようだ。
「俺の気配を感じ取って逃げたようだな」
男が庭を確認しながら言った。
それから真奈に近づいてきて、
「悪い、開くぞ」
右手を心臓の辺りに伸ばした。あまりのことに、とっさに跳ね除けることができなかった。ぞぶり、と嫌な感触がした。男の腕がひじの辺りまで、真奈の胸に埋まっていた。本来なら貫通しているような長さまで埋まっていたのだ。
「え? え?」
驚いている真奈を尻目に、男は右手をごそごそと動かした。胸の奥のさらに奥、もしも魂というものが本当にあるとしたらそこだろうと思えるほどの奥を、触られた。
背骨が震え、神経が暴れまわり、でも体に力は入らなかった。
男はさっと手を引いた。
「勘違いするなよ。俺は君を、埋蔵に値するとは思っていない」
よくわからないことを言われた。真奈は自分の心臓あたりの個所を、服の上から触った。もちろん穴なんて空いていなかった。
どうも、頭の中がぼんやりしている。
視線を由歌に移すと、なぜか頷いてきた。
「これでたぶん大丈夫。ピンチになったら駆けつけるから」
何を言っているのだろう。これは夢?
そうだ。きっとそうに決まっている。
だって、真奈が一番聞きたかった言葉を、一番言ってほしかった相手の口から聞けたのだから。
思わず、両手を伸ばした。
縋りたかったのか、抱き着きたかったのかはわからない。どっちでも同じことだった。
背後の玄関が、ガチャリと音を立てて開いた。振り返ると母が立っていた。
「こんなところに一人でぼうっと突っ立って、何をしているの? 早く入りなさい」
その言葉で、少しだけ頭がしゃっきりした。靄がかかっていたような景色がクリアになる。さっきまで近くにいた、由歌と謎の男はどこにもいなかった。
◇
この奇妙な体験から、さらに一週間が経った。
その夜、真奈はなんだか眠れなくて、カーテンの隙間から庭を見ていた。
すると、当たり前のように庭にいる光るイノシシが、土を掘るのを止めて、月に向かって吼えた。体から、燐光のような何かが空気中に発散された。その光は、ぽわぽわふわふわと漂いながら、夜空に消えていった。
ああ、ついに終わったのか、と真奈は察した。
光るイノシシの背後で、何かが立ち上がった。
掘り返されたばかりの祖母だ。もちろん全裸ではなく、亡くなったときの服を着ている。そんな祖母を見た途端、妙に涼しい風や、何度もかいた汗、林道の土の匂い――やたらと暑かった五月の中旬の、あの日の記憶がまざまざと蘇った。
光るイノシシがそっと道を譲るように動いた。
背後に立っている祖母が、足を踏み出した。そのまま枯木家の玄関までゆっくりと歩いてくる。鍵はしっかりと閉めておいたはずだ。でもそれが無意味であると、なんとなくわかった。
非常識な相手に、常識的な対処法は意味をなさない。
真奈は視線を切って、階下で寝ている母の部屋に向かった。
扉を勢いよく開ける。母は、ぐっすりと眠っていた。
「お母さん! 起きてよ! ねえ、お母さん!」
激しくゆすっても、強く叩いても、母はまったく目を覚まさなかった。
さすがにおかしい。
真奈は、現実と違う空間、あるいはズレた位相に隔離されてしまったのかもしれない。
今この瞬間、家を飛び出して誰かに助けを求めても、その人は真奈に気がつかないだろう。
がちゃりと、玄関の扉の、開く音がした。
祖母が家の中に侵入してきたのだ。
もうすべてが手遅れなのだろう。この部屋にいたら、母を巻き込んでしまう可能性がある。真奈は居間に移動して、ソファに座った。
部屋の電気は点かなかったので、真っ暗闇の中で祖母が来るのを待った。
ぎしぎしと、足音が聞こえる。じょじょに近づいてくる。真奈はソファの上で両ひざを抱えて、体育座りのような姿勢を取った。
膝と膝の合間に、顔をうずめる。
部屋の前で、足音が止まった。
ノブがひねられ、木製のドアがゆっくりと開いていった。
真奈の罪が、そこに立っていた。
いや、罪ではない。
自分のしたことが罪ならば、祖母のしたことはなんなのだ。
母を追い詰め、枯木家を壊し、周りにいるすべての人に迷惑を掛け続けた祖母のしたことはなんだと言うのだ。
そこまで考え――ああ、これも違うかと、真奈は思った。
他人のことは関係ない。私の、
私の人生をメチャクチャにした。そこに罪はないのか!
急に怒りが湧いてきた。他人のことなんてどうでもいい。ずっと糊塗していた真奈自身の怒りが、ここに来て爆発した。
近づいてくる祖母の目を見る。
思いっきり睨んだけれど、祖母は歩みを止めない。
まるで化け物の触手が蠢くように、人間の関節を無視した動きで、しわくちゃの腕がこちらに伸びてきた。
指が、真奈の首にかかる。
真奈も祖母に向かって両手を伸ばし、同じく首を掴んだ。
同時に力が込められる。
「この、クソババアッ! 地獄に戻れ!」
真奈がどれだけ力を込めても、手ごたえはなかった。祖母の首はふにゃふにゃしていて、そこに芯が通っていない。
片や祖母がつかんでいる真奈の首は、もちろんそのような変な構造ではない。
これでは勝負にならない。
「ぐ、あ……あぁ……」
息ができないどころか、このままでは首の骨が折られてしまう。
祖母の背後に、光るイノシシがいた。真奈が死ぬのを待っているらしい。そんなイノシシの瞳に、なんらかの執着が垣間見えた。欲望の色が燃えていた。
そしてわかりやすいことに、イノシシは舌なめずりをしたのだ。
あの執着が食欲であると真奈は理解した。
その瞬間、これまでとは一線を画す恐怖が全身を駆け巡った。
食われる? 私はあの化け物に食われるの?
祖母の指に、さらに力が込められる。
嫌だ。死にたくない。
意識が遠のいていく。
「誰か、たすけて」
とぷんと、足元が沈んだ。真奈と祖母は、どことも知れない場所に落下した。
最初は自分の意識が落ちたのだと思った。そう錯覚してしまうような身体感覚だった。でもそうじゃない。
落下したのはあくまでも肉体であって、意識ではない。
何もない空間に着地した。地面が見えているわけじゃないから、本当に着地したかはわからない。靴の裏に接地している感触があるだけだ。
落下した拍子に、祖母の指が真奈の首から外れた。
真奈は首を動かして、周囲を確認することができた。
四方八方に、粘度の高い暗闇が広がっていた。呼吸ができる水の中、といったような空間だ。
自分はもう死んでいて、つまりここは死後の世界であって、祖母から永遠に責め苦を負わされるのかと、一瞬思った。
違った。
「助けに来たよ」
由歌がいた。光源がどこにあるのかわからない暗闇の中に、まるで道導のようにして立っていた。彼の近くには透明な魚が泳いでいる。
由歌は真奈の肩に手を当てて、そっと自分の後ろに隠した。
祖母が遠のく。
「ウツロ。真奈のおばあちゃんを食べて」
由歌が言った。
透明な魚がピラニアのような鋭い牙をむき出しにして、祖母に襲いかかった。祖母は悲鳴を上げるようなことをしなかった。ただひたすら魚に食われていった。
でもその間ずっと、真奈の方にしわくちゃの腕を伸ばし続けていた。その指先に至るまで、祖母のすべてを透明な魚は食い尽くした。
真奈の罪の形をしている何かは、綺麗さっぱり消えてしまった。
「ありがとう、ウツロ」
と由歌が言う。そして透明な魚を撫でるように手を動かした。あれは触れるものなのか。
「ここはどこなの?」
真奈は、ようやく口を開いた。
「深淵だよ」
「深淵?」
つまりどこなんだ、と真奈は思う。
「僕にも、それ以上のことはわからないんだ」
由歌が困ったように付け足した。
そんなことよりも――と由歌は言い、こちらを安心させるように笑った。
「真奈が無事でよかった」
その言葉が、時間をかけて染み渡っていく。
助かった?
私は助かったの?
さっきまでは、真奈の頭の中を怒りが占めていた。殺されそうになって、恐怖がそれを塗りつぶした。それが由歌の笑顔を見てやっと、喜びと安堵の感情に変わった。
「由歌!」
思わず由歌に抱き着いた。由歌は跳ね除けるようなことをせず、真奈の背中をぽんぽんとあやすように叩いてくれた。真奈はしばらく、この温かさを享受した。深淵という暗闇の中にありながら、真奈の人生の中で最も心が休まる瞬間だった。
ずっとこうしていたかったけど、まだこの事態は終わっていない。
そっと体を放して、
「光るイノシシはどうなったの?」
「僕の友達が、斬ってくれるよ」
「あいつが、おばあちゃんを掘り返したのは、私を罰するため?」
由歌は少し間を置いてから、
「あれは、そんな高尚な理由で動いていないよ。ターゲットとなった人間の、目を背けたい過去を掘り起こして見せつけて、ターゲットが弱ったところで、人間の心の奥にあるという、あのイノシシだけが触れられる『何か』を食うのが目的だから」
何かって、なんだろう。
それを食われたら死んでしまうだろうか。
「あのおばちゃんが偽物だとわかっていなければ、僕だって、ウツロに食べてとお願いしないよ」
「……偽物」
「真奈が罪の意識を覚えているなら、あのイノシシとは関係なく清算すればいいし、そうでないなら気にすることはないと思うよ」
「……そう。そうだったの」
なあんだ、と真奈はあっけらかんと言った。続けて、
「なんて馬鹿らしい事実なの」




