過去を掘り返すイノシシ6
枯木真奈。中学三年生。
好きなものは静かな部屋。嫌いなものは財布。
母に百瀬家へ行くことを禁じられて、早一週間が経った。
今は、出かけようとすると必ずスマホを持たせてくる。学校に行くときでさえ持たなければならないから、真奈は教師に事情を説明して、登下校以外は職員室で預かってもらっていた。
由歌が学校に来ていたら普通に会えただろうし、相談することもできただろう。でも由歌が不登校だったからこそ、あのとき、山道を歩いていた真奈と仲良くなれたのだ。
皮肉とも違うけど、いろいろなことが上手くかみ合わないな、と真奈は思った。
そして真奈の母は、由歌のそういうところが嫌いらしかった。
つまり不登校である、ということが。
真奈だって似たようなものなのに。
あるいは自分の娘が似たようなことをしているからこそ、同類である(と母の目に映った)由歌のことを嫌ったのかもしれない。
また、そんな孫を黙認している由歌の祖父にも文句を言っていたし、だいたい孫と二人暮らしとはどういう家庭環境なんだと怒っていた。
「あんなところに行ってはいけない」
と、母は言った。
自分だってシングルマザーなのに。
人の家庭環境をどうこう言えるのだろうか。
登下校中に、光るイノシシを目撃した。
百瀬家に行かなくなってから、イノシシはすぐに姿を現したのだ。土をえぐるスピードが以前よりも速くなったような気がする。
ぼんやりと光るその姿は神々しく、土に塗れてもなおその輝きを失わない。
一心不乱に、ざっざっざと土を掘り返す。
しわくちゃの腕の根元を、掘り続ける。
腕の下の肉体は、仰向けの姿勢で埋まっていた。垂直に立っている姿勢じゃなかったので、完全に掘り返されるのも時間の問題だろう。
すでに祖母の顔が見えている。目と口を開いたまま固まっていて、天に向かって何かを訴えかけているみたい。
祖母は、あの日とまったく同じ服を着ていた。大き目の白いシャツに、ゆるいジャージ。そして特徴的な花柄のサンダル。
真奈が目を背けようとしても、イノシシは行く先々に現れて、真奈の罪を見せつけてくる。ずっと家に閉じこもっていても、光るイノシシは枯木家の庭に現れる。
だったら、どこにいても同じだ。
祖母の虚ろな瞳が言っている。
――どうして、どうして。
幻聴だろうその言葉に対して、真奈は声に出して反論する。
「どうしてだって? 本当にわからないの?」
◇
祖母は性格が悪かった。
人の気持ちが考えられず、いつも誰かの悪口を言っていて、その場にいるだけで空気を悪くするような人だった。母が作り置きしておいたご飯を勝手に食べたり捨てたりして、
「ご飯の準備ができていないけど」
と知らん顔でよく文句を言っていた。
母の財布からお金を抜き取っては散財し、真奈が必死に貯めた貯金箱すら勝手に割ってお金を持っていくような人だった。真奈が買ってもらったゲームや漫画が消えていることなどしょっちゅうだ。
父は、そんな祖母を諫めはしなかった。辛い思いをしている母に対して、「まあ、上手くやってくれ」と言うだけだった。「俺は仕事で忙しい」と。
真奈が小学四年生になったとき、祖母は認知症になった。もともと悪かった性格が、より悪くなった。
認知症の初期症状である『物盗られ妄想』は当たり前のように発症した。
自分で隠した財布などの場所がわからなくなり、その結果、誰かに盗まれたのだと思い込んでしまう症状だ。そしてだからこそ、また財布を隠すというループに入る。
いつもいつも、財布を盗んだ犯人だと名指しされるのは母だった。
母はノイローゼになった。
家の中の空気はさらに悪くなっていき、それと比例するように、祖母の認知症もひどくなっていった。物を投げては壊し、人の悪口を流布し、財布が盗まれたと主張し、警察や郵便局、銀行、役場に毎日電話をかけた。
真奈が小学六年生のとき、徘徊が始まった。ふらっと出かけては自力で帰ってくることができず、いつもたくさんの人に迷惑を掛けた。町の防災無線でしょっちゅう捜索願が出された。
医者や警察、ケアマネージャーといった公的機関からは、
「認知症だから、仕方がない」
と言われた。それはこちらを慰めるための言葉だったのかもしれないけど、真奈にとっては逆効果だった。
祖母がもともと性格の良い人だったら、真奈は我慢することができただろう。それこそ「認知症だから仕方がない」と思えたはずだ。
でも実際はそうじゃない。
祖母の性格は最初から悪かったのだ。
認知症によって、悪いところが増幅されただけなのだ。
どこまでが病気で、どこからが性格なのかわからなかった。そもそもそんな線引きに意味はなく、根本的に祖母という存在を受け入れることができなかった。
真奈は中学一年生になった。
学校にあまり行かず、町の図書館で時間を潰すようになった。司書の人は事情を知っていて、追い出すようなことはしなかった。
もしかしたら真奈の知らないところで、学校と連携が取れていたのかもしれない。
五月の中頃である。その日は妙に気温が高くて、日中は三十度を超えるかもしれないと各種メディアで報道されていた。
図書館からの帰り道。
中学生になって持たされていたスマホに、母からメッセージが入った。
――祖母の行方がわからないから、探して。
またか、と真奈は思った。今年に入って、何回探したかもう覚えていない。それくらいよくあることだった。
図書館から帰る途中で、すれ違う人を確認したり、いつもより遠回りの道を選んだり、その程度の真剣さで祖母を探した。太陽は高く、日中はやっぱり暑かった。汗をかきながら、なぜ自分がこんなことをしているのかと馬鹿馬鹿しくなった。
見つけてしまった。
人通りの少ないあぜ道から、さらに少し逸れたところにある山際の木の下に、祖母が倒れていた。なぜ、そんなところに祖母がいたのだろう。考えても仕方がない、祖母だけにわかる論理でこのコースを選んだのだから。
真奈はあぜ道を歩いていた。並走している林道の方に何気なく視線を向けていたら、見覚えのある花柄のサンダルが目に入ったのだ。意識的に祖母を探していたから、わかったのだろう。普段だったら絶対に気がつかなかった。
まさに奇跡としか言いようがない。
真奈は慌てて近づいた。
間違いなく祖母であることを確認してから、スマホを取り出した。
母に連絡しようとして、手を止めた。
風が吹き、頭上で重なる葉がカサカサと、やけに大きな音を立てた。日光が遮られている木々の下は涼しく、それどころか肌寒かった。汗が急速に引いていくのがわかった。
スマホを持つ手が、寒さで震えた。
黙っていれば、祖母はこのまま死んでくれるのではないか。
そう思った。真奈はさらに考える。
そもそも息があるようには見えない。もしかしたらすでに亡くなっているかもしれない。そうだ。きっとそうに違いない。ここで真奈が見つけても、あるいは見つけなかったとしても、祖母の運命は変わらなかっただろう。じゃあ別に、連絡をする必要はない。
これは殺人じゃない。
悪いことはしていない。
私は何も、見ていない。
真奈はスマホを操作せず、ポケットに入れた。
「見たぞ」
祖母が目を開けて、言葉を発した。真奈は腰が抜けて、尻もちをついた。一瞬で頭の中がパニックになった。ごめんなさいごめんなさいと頭の中で必死に呟きながら、スマホをもう一度取り出した。焦っていたからだろう、スマホを落とし、そのおかげで冷静になった。
祖母が起きてくるような気配はない。
おそるおそる確認してみた祖母の顔は、目をつむったままだった。
さっきの異変は、真奈の罪悪感が生んだ幻だったのだろう、そう結論付けた。
いや、罪悪感なんて覚える必要はない。
だって、悪いことはしていないのだから。
真奈はスマホを拾い上げて、その場を離れた。振り返ることはしなかった。祖母が立ち上がって、追いかけてきているような気がしたからだ。
どれだけ走っても、汗は出なかった。太陽の熱を感じられず、でもそこら中の景色が陽炎のようにゆらめいて見えた。
玄関の前まで来てやっと、一息つくことができた。
膝に手を当てて呼吸を整える。手のひらに異常を感じて確認してみると、汗でびっしょりと濡れていた。汗をかいていないと思ったのは自分の勘違いで、手のひらどころか全身がじっとりと濡れていた。どうやら身体感覚が誤作動を起こしていたらしい。
拭っても拭っても、汗がしたたり落ちてくる。
このまま母に会ったら、不審に思われるかもしれない。あの人は鋭い。
真奈は焦った。汗よ止まれと頭の中で念じた。吹いてくる風の涼しさを肌全体で感じ取り、自分の体は冷たいのだと脳に言い聞かせた。
必死に呼吸を整え、心臓の鼓動を落ち着かせる。
次の瞬間、背中に視線を感じて、まさかと思いながら振り返った。
一匹のイノシシが、こちらを見ていた。その瞳に恐怖を覚えたおかげで、汗が止まった。イノシシは、ふいっと視線を逸らしてどこかに消えた。真奈は、何食わぬ顔で玄関を開けた。
「ただいま」
「おかえり~」
母が居間から顔を出した。
「おばあちゃん、見つかった?」
「ううん。見つからなかった」
祖母が見つかったのは、次の日だった。犬の散歩をしていた男性が偶然見つけたのだ。その男性は、真奈のように見て見ぬふりをしなかった。その必要がないのだから、当然だけど。
祖母は病院に運ばれた後、死亡が確認された。認知症を患い、しょっちゅう徘徊していたことは警察も知っていた。祖母の死に不審な点はないとし、事故死として処理された。
真奈は誰にも糾弾されなかった。
それもそうだ。糾弾されるようなことはしていない。
祖母が亡くなったことで家族の何かが壊れたらしい、父と母が離婚した。どうせならもっと早くに離婚すれば良かったのに。
祖母は、母の親じゃない。父の親だ。母が苦労する必要なんてなかったのだ。
真奈の親権は母が取った。もちろん文句はない。
新生活が始まってから、母はおかしくなった。いや、もっと前からおかしかったのかもしれない。祖母が生きていたときは、おかしくなることすら抑圧されていたのだろう。
自由になった母は感情のコントロールができなくなり、よく癇癪を起しては真奈に八つ当たりをした。そうかと思えば、逆に真奈のことをコントロールしようとして、やたらと過保護になったり、今まではしなかったようなスマホの管理や、制限を設けるようになったりした。
それも仕方ないか、と真奈は思う。
でもスマホを持ち歩くことは止めた。それに対して、母と口論することが多くなった。
「あなたのためを思って言っているの」
と母は言うようになった。
とはいえこんな生活でも、祖母が生きていたときと比べれば天国のようだった。
そんな日々が二年近く続いた。
そして真奈は、光るイノシシに出会った。




