過去を掘り返すイノシシ5
しかし次の日、真奈は百瀬家に来なかった。
さらにその次の日、真奈は母親を伴ってやってきた。
容姿こそ似ているが雰囲気はあまり似ていない。母親の髪形は、襟足の辺りでふわりとまとまっているショートの茶髪で、白のロングコートに黒の細いパンツスーツを合わせている。
活動的で仕事もできそうなイメージだ。
対して真奈は、顔色こそ良くなったものの、相変わらずボサボサした髪型に、ダボっとしたカーディガンとジーパンという服装だった。
二人は玄関前で立ち止まり、応対に出た祖父が「まあ、とりあえず上がって話しましょう」といくら言っても、頑なに固辞した。
母親が頭を下げた。
「初めまして。枯木真奈の母親の、枯木優子です」
「百瀬仁です」
祖父も頭を下げた。
その後、真奈の母親はわざわざ名詞を取り出して、祖父に手渡した。
「在宅でイラストレーターの仕事をしています」
「そうですか。イラストレーターですか。私はずっと車の整備士をしておりましたが、十年ほど前に定年を迎えましてね。今は趣味に毛が生えた程度ですが、農業をやっております。お渡しできるような名詞はございませんが……」
「構いません。初対面の人にはいつも渡すようにしているだけですから」
もしかしたら、自分から素性を明かすことで、こちらの情報を探ろうとしたのかもしれない。
真奈からどの程度聞いているのか。
「ここ一週間ほど、娘がご厄介になっていたようで、本当に申し訳ございませんでした」
「ああ、いえいえ」
祖父は両手を軽く振った。口調も柔らかい。
「この子、二年ほど前から頻繁に学校をさぼるようになりまして。いつもは図書館に行っているので、今回もそうだとばかり思っていたんですが……」
やっぱり母親に許可を取っていたわけじゃなかった。
真奈は視線を下げたまま、ぶすっとした表情で自分の足元を見つめている。
母親は祖父を見た後、その隣に立っている由歌に対して、上から下まで全身を見定めるような視線を向けてきた。
その無遠慮な視線に寒気を覚え、由歌は二の腕を軽くさすった。
母親は祖父に視線を戻し、
「最近この子、妙に血色が良くて。問い詰めたらこちらのお宅で昼食をご馳走になっていると白状したんです」
「そんな、大げさなものじゃないですよ。山菜を採ってきたので、天ぷらを一緒に食べていたんです」
いや、山菜はご馳走だ。祖父もそう思っているはずだ。
もちろん由歌は口を挟まない。
「私だって、家ではしっかりと食事を用意していますよ。でもこの子、好き嫌いが激しくてあまり食べないんです」
つまり、真奈がここに来る以前に顔色が悪かったのは、自分のせいじゃないと言いたいらしい。
他人の家に通っていて健康になりました、と思われるのは、親の立場からすれば嫌だろうな。
「本当に申し訳ございませんでした。ほら、真奈も頭を下げなさい」
「……悪いことはしていない」
「あのねえ。私に言わないで人様の家のご厄介になったでしょう? あなたは子どもだから何も考えなくてもいいけど、私はそうはいかないの」
これは母親の言っていることに理がある。
真奈は拳を固く握りしめた。そして母親に面と向かって、
「じゃあ、正直に言ったら許してくれたの?」
その言葉に対して、母親はなぜか由歌を見た。でもやっぱり何も言わないで、視線を祖父に戻した。そして真奈の質問には答えず、
「この子はどういった経緯で、こちらの家に来るようになったのでしょうか」
「ああ、彼女はこの辺りを一人で散歩していましてね。ほら、最近は熊が出るから危険でしょう」
この辺りと言っても、出会ったのは祖父の私有地である山道だ。一人で散歩するようなコースじゃない。
祖父は、真奈を庇いながら、それでいて嘘をつかずに喋っている。
「私と孫は山菜取りに出た帰りだったんですが、一応、娘さんに声をかけたんです。最初はそのまま家までお送りしようと思っていました。ですが、せっかく山菜がたくさん採れたので、これも何かの縁ですし、一緒に食べようと、まあそういうことになったわけです」
「知らない人の車に乗ったの?」
母親が真奈に怒った。
あのとき、祖父は警察に通報しようとした。それをしないでくれと懇願したのは真奈だった。そういった経緯を祖父は説明しなかった。
どんな事情であれ、責任を負うべきなのは祖父だから、かもしれない。
「私が頼んで乗せてもらったの! 熊が出るかもしれないから怖かったし。お昼も、お腹が空いていたから私が頼んだの! 百瀬のおじいちゃんは、何も悪くない!」
真奈が怒鳴った。内容的に、祖父のことを庇ってくれたのだろう。でもそれで納得するような母親じゃなさそうだ。
「熊が出るから怖かった? じゃあどうして一人で散歩をしていたの」
「だって、光るイノシシが追ってくるから」
「またそうやって、すぐに嘘をついて……」
「またって何? 嘘って何?」
「光るイノシシなんて、いるわけないでしょう! それに、この前はおばあちゃんがどうとか言っていたわよね! おばあちゃんはすでに亡くなっているじゃない!」
母親はよほど頭に血が上ったのか、祖父や由歌の存在を一時的に忘れたようだ。ここまで喋ってから、はっとした表情になり、慌てて口を押えた。
真奈は構わず、一段と声を低くして続ける。
「どうして信じてくれないの」
「信じられるわけがないでしょう」
幾分、冷静さを取り戻した母親が、それでもきっぱりと真奈を否定した。そして、言葉の強さを中和しようとでもするかのように、真奈の肩にゆっくりと手を置いた。
真奈は母親の手を振り払って、玄関から飛び出してしまった。
「ちょっと待ちなさい! 真奈!」
母親が呼び止めたものの、真奈は立ち止まらなかった。母親はこちらに振り返って、もう一度深々と頭を下げた。
「本当に、申し訳ございませんでした。後日、お礼を持ってお伺いいたしますので」
「いえいえ。必要ないですよ」
「そういうわけには」
「大丈夫です」
このやり取りが無駄だと思ったのか、母親はあっさりと引き下がった。
「……そうですか。それでは、ご厚意に甘えさせていただきますね。今日はこれで失礼します」
娘の後を追うように、急いで立ち去ろうとした母親に向かって、
「娘さんに、またいつでも来ていいと、そうお伝えください」
祖父は言葉を投げかけた。
母親は何も言わなかった。つとめて笑顔で、会釈だけして出て行った。
祖父と由歌は、誰もいなくなった玄関をしばらく見つめた。それからお互いに向き合って、二人で肩をすくめた。
「おじいちゃんは、真奈の言っていたことをどう思った?」
「光るイノシシがどうとかっていう、あれか?」
「うん」
祖父は少し考えてから、
「真奈ちゃんが見たと言うなら、見たんだろう。それが本当でも嘘でも、どちらでも構わないかな」
由歌にとって、祖父のこういうスタンスが心地よかった。
◇
「だが、これで良かったんじゃないか?」
とウワバミは言う。
祖父がお風呂に入っている隙を縫っての会話である。
由歌が「どういうこと?」と訊き返すと、
「あの生活が永遠に続くことはあり得なかったが、しかし長く続けば続くほど――つまり真奈が健康でいる期間が長いほど、時猪を斬るチャンスは巡ってこないことになる。奴を斬ってほしいのなら、どこかで真奈が心身の均衡を崩す必要があった」
それは確かに、そうだろう。真奈が健康でいれば時猪は手出しができず、従って姿を見せることもないからだ。
でも、ウワバミの言っていることが正しいとしても、やっぱり真奈の不健康を願うようなことはしたくなかった。
それを言うと、ウワバミは神妙な顔をして、
「俺だってそうさ」
意外……でもないか。
ウワバミは情に厚いらしいと、最近わかってきた。
「だからこれをチャンスだと思うべきなんだ。真奈を助けたいならこの機会を逃すな」
「う、うん」
「出遅れたら、真奈は死ぬぞ」
その言葉は、由歌を発奮させるために言ったわけじゃなさそうだった。ウワバミの声音は平素と変わらない熱量で、つまり由歌が気合を入れようが入れなかろうが、目的をもって動かなければ真奈は死ぬと、そう伝えたいらしい。
「わかった」
由歌は力強く頷いた。
◇
あれから真奈は、百瀬家に来ていない。彼女がどのような心理状態でいるかわからないけど、まず間違いなく反動があるはずだ。これまで手出しすることができなかった時猪も、その反動を狙ってここぞとばかりに攻勢をかけてくると、ウワバミは予想していた。
早いところ、真奈に会わなくてはならない。
枯木家の場所を知らないけど、それはどうとでもなるとウワバミが言った。とはいえ家の場所を知ったところで、真奈に近づくことはできない。あの母親は、由歌が近づくことを許しはしないだろう。在宅の仕事だと言っていたので、隙を狙って家に行くのも難しい。
「時猪は、土があるところに現れるからな。真奈が外出するとき近くにいたい」
ウワバミが言った。
由歌は、真奈がしてくれた話を思い返していた。
「でも、真夜中に庭の土をえぐるって言っていたよ」
「ああ、そうか。じゃあ真奈が外出するかどうかは関係ないか。家にこもっていても出没するってことだからな。時猪が現れるタイミングでその場にいる必要があるが、さて……」
「どうやってそのタイミングを知ればいいの?」
由歌の疑問に対してウワバミは、
「一日中、真奈のことを見張っているという作戦はどうだ?」
と真面目に答えた。
「ウワバミならできるかも。でも僕には無理だ。いろいろな意味で」
真奈の命がかかっているとはいえ、ずっと彼女のことを見張ってはいられない。そんなことは物理的に不可能だ。できればもうちょっと現実的な作戦を考えたい。
由歌を襲ってくる怪異じゃないから融通が利かず、また、いつ現れるかも決まっていないから対策が練りにくい。だいたい真奈とは出会ったばかりだし、その母親からは嫌われている。
問題だらけだった。
「最悪、俺一人で真奈の近くに潜伏し続けるという手もある。由歌がさっき言った通り、俺なら可能だ。そして時猪をひっそりと斬れば問題解決だ」
由歌が絡まなければ、そういった解決策もあるのか。
「だがその場合、百瀬家の守りが手薄になる。この前の、穿鼠のときのようなことが起これば、由歌を守ることができない。それに時猪も、俺がずっと見張っていたら姿を現さないかもしれない。奴がいつ姿を現すかわからないのに、持久戦はできない」
攻める方は時間を好きなように使えるけど、待つ方はそうじゃない。
由歌はスマホを取り出した。
「連絡先を交換しておけばよかったな」
今思えば、真奈がスマホを持ち歩いていなかった理由は、母親と位置情報を共有していたからだろう。当然、中身も厳しく管理されているはずだ。連絡先を交換したところで、それを活用できた可能性は低い。
でもスマホを使う以外に良い案が思い浮かばない。
「真奈が時猪を目撃したとき、連絡を貰うしかないか。それですぐさま駆けつける」
そう言うと、ウワバミがからかうように、
「あの母親と対決する覚悟はあるのか?」
「できれば秘密裏に行いたいよね」
「急に弱気だな。だいたい、連絡を貰ってから駆けつけて、間に合うか? 無理だろ」
ウワバミの言う通りだ。スマホのメッセージや通話といった連絡手段では、貰ってからすぐに駆け付けても間に合わない気がする。
いや、待てよ? と、ここで由歌は妙案に思い至る。
「スマホ以外で、真奈と繋がる方法があるかも」
「え?」
「でもその前に、一度は会う必要がある」
「おい、一人で納得していないで詳しく教えろ」
ウワバミが詰め寄ると、由歌は困ったような顔をした。
「怒らない?」
「いいから言ってみろって。内容を聞いてから、怒るかどうか決めるから」




