第九章 誓い
入り江の風穴での出来事から三日目、霧の薄く漂う明け方。
仮宿の奥の間で、トウマは目を覚ました。
身支度をすると、そっと中の間、そして前の間を通り抜けようとした。
シズリは、前の間で、頭の下に腕を折り曲げ、こちらに背を向けて眠っている。
ぎい、と板が軋んだ時、シズリの上にかかっていた布が、動いた。
「……早いですね、隊長」
「おう。ちょっとそこらを歩いてくる」
「どちらへ」
シズリが、身を起こす。
「なに、最後の日だ。もう来ることもないからな。お前は寝ていろ」
「……はい」
シズリが体を横にするのを見てから、トウマは、戸口の布をくぐった。
外の風が、顔に当たる。霧には、湿った土の匂いが混じっていた。
* * *
集落の道は、まだ暗かった。
戸口の灯火は、ほとんどが落ちている。家々は、息を潜めるように静まっていた。
マハリの家の前を過ぎる。
布の戸口の向こうに、小さな灯りが一つ。村の者の影が、座っているのが、布越しに見えた。
中で誰かが、薪を一本、火に足す。火の照りが、布の合わせ目から、足元に細く落ちた。
バイロンとナバリ、ラトゥ。三人はマハリの家の奥の間に留め置かれている。バイロンの妻が、朝晩の食を運ぶ。村の者が交代で見張っている。昨晩、年寄りたちが、今後彼らをどうするかを、話し合っていたらしい。
家の脇に、籠が伏せて置かれていた。ナバリの薬籠だ。よく見ると、焔石の跡だろうか、黒い線が縁に所々ついているのが見える。
パヌルの家の前は、静かだった。ミナとルアは、ここに移って暮らしている。
ソランの遺体は、森の中で土に埋まっていた。交易用の荷は、ラトゥの家の奥の間から見つかった。ミナが、思い出の残る家で暮らすのが辛いとこぼしていたのを、パヌルが見かねたからだった。
トウマは、足を緩めずに歩いた。広場の横、祈りの火は熾火だ。煙も出ておらず、誰もいない。
トウマは、いつもオムアンが座っていた場所——祈りの火の正面に胡坐をかいた。
横にある布をかぶせてあった薪と焔石を足し、目を閉じる。
焔石が燃えはじめ、火が育ち、煙がまっすぐにのぼる。都で嗅ぎ慣れた臭いが立つ。
トウマは、何事かをつぶやき始めた。
* * *
「お前のその言葉、真だ。一つの偽りもない。……わが祖霊は聞き届けた」
突然、背の後ろから、声が降ってきた。
トウマは、目を開けた。振り返って肩越しに見ると、オムアンが立っている。白髪がこの数日で広がったようだ。
骨ばった指が、杖の頭を握っている。
「……いつから、そこに」
「さて」
オムアンは、火の脇に腰を下ろした。
「ここに来た目的を聞いた時とは、大違いだな。何が真実なのか、見えたようだ」
「行動しないと、意味がないな。あんたのように」
トウマが、オムアンの傷をえぐった。
オムアンは、火の縁を見つめている。
「儂は、子供のころ、父と島の外へ出た。もう何十年も前だ。そして……陸に着いて、捕まった。父は儂をかばって殺された」
オムアンの指が、火の上で曲げ伸ばされた。手の甲に、古傷。
「儂は、売られた。まるで玩具か、装飾品のように」
トウマは、火を見つめるオムアンの横顔を見た。皺と白髪が目立つが、よく見ると整った顔立ちだ。黒に近い肌、碧い右目と茶色の左目——貴族が珍しい子供を取り合う姿が、容易に想像できた。
「一年ほどだ。その後逃げて、島へ帰った」
風が低く鳴り、煙が横へ流れた。
「それ以来、入り江に下りたのは、三日前が初めてだ」
トウマは、黙って頷いた。
「この島には、耳が遠い者が多い。それに、年寄りが多いと思っただろう?白髪の者が多いからな。だが、そう見えるだけだ。髪が若いころから白くなる。そして、この目だ」
オムアンは、トウマの方を向いて右目を指さした。碧い目が、見開かれる。
「血だ。血が、濃すぎる。わかっておった。だが儂は、もう外が怖かった」
オムアンは、立ち上がった。ゆっくりとあたりを見回す。
「お前を、いつでも島に歓迎しよう。あの娘っこも」
トウマも立ち上がった。オムアンが言葉を続ける。
「島の者で相談した。バイロンとナバリは、ここで暮らすことを許す」
火が、爆ぜた。
「だが、ラトゥだけは、この島を出て行ってもらう。お前に連れて行って欲しい。港町に置くのはやめてくれ。お前の言う都の牢にでも入れてくれ。ミナとルア、そしてタマリの家族のためにも、遠ざけたい」
「わかった。連れて行こう。支度をしてくれ」
それだけ言うと、トウマは火に背を向けた。
日は、もう昇っている。霧が晴れ、遠くで海鳥の鳴く声が聞こえた。
* * *
仮宿に戻ると、シズリは中の間で、荷を整え終えていた。トウマの分も用意したようだ。
折れた剣は、布にくるんで背負う荷にしている。
「お戻りですか。いつでも、出られます」
「おう。あのな……」
「はい」
「いや、後で話そう」
トウマは、自分の荷を肩に担いだ。
二人は仮宿を出て、集落を後にした。
* * *
石の段を降りる。雲一つなく、海は青く澄んでいた。
入り江の砂は乾いている。波が、岩の縁を低く洗う。
ラトゥが、砂の上でうずくまっていた。両の手を背に縛られ、首が垂れている。
村の者が二人、ラトゥの腕を左右から持って、立たせる。トウマたちが降りて来るのを目で確かめると、頷いた。
他には、誰も来ていなかった。
入り江の沖、右側から小さな影が近づいてくる。船だった。
舳先が、波の縁を切る。櫂が、規則正しく水を打った。
「おおぅ」
船頭が、遠くから手を挙げる。トウマも、手を挙げて応えた。
しばらくして、船は入り江に着いた。
先に村人が船頭に何かを話し、耳飾りを渡すと、ラトゥを二人がかりで船に乗せた。
そして、トウマとシズリが乗り込む。
荷を村人から受け取る。
船頭が一声、おう、と掛け声をかけた。
途端、帆が開く。風を受けて、船が入り江を離れた。
村人たちが手を振っているのが、あっというまに遠ざかった。
船頭は巧みに帆を操り、島を巡るように船を動かした。
「ティハラまで、すぐだ」
船頭は得意そうに、言った。
水平線の縁は白く、海の青は、日を受けて光っていた。
* * *
左舷に、島。台地の輪郭が、朝の光に浮かび上がっていた。祈りの火の煙が、まっすぐ上へ立ち上っているのが見えた。
集落の影が、小さくなる。崖の白い縞が薄れていく。鯨の背と呼ばれた岩棚も、もう一筋の白い線になっていた。
トウマは、船尾に座った。膝を曲げ、両手をその上で組む。
板の継ぎ目から、潮の飛沫が上がる。袖の端が湿った。
ラトゥは、船の中ほどで丸まっている。縄は緩めてある。背中が、波の動きに合わせて上下していた。
シズリは、舳先のあたりに立っていた。風に、髪が流れている。
「あれは」
シズリが、右側、遠くを指さした。
「ラエンタン島のヌシさぁ」
船頭がこたえる。
しばらく、誰も口を開かなかった。
鯨の背が、海の中へ沈んでいく。最後に、尾の縁が空気を打って、白い飛沫を上げた。
ラトゥの首が動いた。だが、立ち上がろうとはしなかった。
船頭が、櫂を引いた。遠くに、ティハラの影が見えた。
* * *
「シズリ」
トウマは、声をかけた。
いつの間にか、ラトゥが船尾に座り、トウマが舳先へ来ていた。
シズリが振り返った。
トウマは、シズリをまっすぐに見た。
「都に戻ったら、俺は軍を辞める」
トウマは、腰の幅広の短剣を、ぽん、と一度叩いた。
「軍から独立した組織をつくって、国を守る。お前も来ないか」
風が、シズリの髪を流していく。船の縁の波が、白く砕けては消える。
「それで、朝から様子がおかしかったのですね」
「監察と言いながら、その実態は内偵だ。諜報も、暗殺も……。後ろ暗いことも随分やった。必要なことではあったろうが、軍がこの力を持っているのは、国のためにならん」
「それでも、長く続けたのはなぜですか」
「わかっていたのに、行動しなかったからだ」
「それは、どうして」
「富に名声……つまり、生活の保障、認められたいという気持ちだろうな。操られているのは死者じゃない。生きている者たちだ。俺も含めてな。そして、呪いも」
「呪い?」
「首席は融通が利かん、といったことがあるな。あれは昔、将軍が俺に言った言葉だ。以来、融通が利くように、と自分を抑えるようになっていたのさ」
「やっぱり隊長は首席だったのですね。そんな気がしていました」
シズリの薄い茶色の目が、海の青を映して、複雑な色合いに見える。
「私にも、呪いが一つ」
「何だ」
「同期の首席は、北の辺境を志願したと言いました」
「そうだったな」
「恋人だったんです。一緒に来てくれと言われて……でも、断りました」
「なぜ」
「両親が、反対したからです」
トウマは、何かを思い出すように上を向いた。
「普通は、親に反発すると思うがな」
「私が、その人に本気だったのか、今思えばわからないのです。両親には、それが見えていたのでしょう」
「親が呪いだ、と?」
「いいえ。来てくれ、と言われた時に、怖くなるという呪いです」
「お前ほど優秀なら、どこにいっても成功するだろうさ。だが、俺と一緒にやろう。一生を賭ける、その価値のある仕事をするぞ。シズリ、来てくれ」
トウマの黒い目が、力強さを増した。舷を打つ波の音が、止む。
「わかりました」
「そうか!……親は、その、いいのか」
「はい。私が、決めましたから」
風が、後ろから吹いてきた。船頭が帆をいっぱいに膨らませる。
前に、港町ティハラが、見えてきた。




