第八章 風穴
影が、奥から這い出た。
シズリが、松明から手を放し速力を増す。
剣を抜く。
低い突き、腕を一杯に伸ばす。
ラトゥの左腿に突き刺さる。切先が骨に当たる硬い感触。
刃が、折れた。
シズリは勢いのままに、前に転がって倒れた。岩に体を打ち付ける。肩から腰へ、鈍い音が抜けた。
ラトゥは、ミナの方へ伸ばしていた手を前に突き出したまま、倒れこんだ。
砂地に膝が落ち、額が落ちる。砂が、頬の脇で小さく舞った。
ようやく、自らに何が起こりそうだったのか気づいたミナが、引き攣った顔で振り返り、言葉を失っている。
碧い目が、見開かれたまま動かない。胸の前で、両の手が服を握りしめていた。
トウマが駆けつけ、ラトゥの上に圧し掛かり、動きを止める。
膝で背を押さえ、左の肩甲骨のあたりに体重をかける。ラトゥの背が沈み、くぐもった声が漏れる。
折れて腿の上で動く刃を引き抜き、岩壁へ抛る。
刃の落ちる、乾いた音が、岩の奥へ吸われていった。
流れる血が、湿った砂地を黒く染める。
ようやく、オムアンが岩戸へたどり着いた。松明であたりを照らす。
火が、岩の襞を浮き上がらせた。湿った岩が、橙に光る。
「ラトゥ……」
ラトゥの碧い目は伏せられたまま、黒い耳飾りが、荒い呼吸のたびに揺れるだけだった。
シズリがようやく立ち上がり、ミナをかばうようにラトゥとの間に立った。
折れた剣の柄を、まだ手にしている。腰のあたりを、左の手で軽く押さえる。痛みを噛み殺している。
トウマが息を吐きながら、ラトゥの両腕を背に回し、縄をかける。手首を二重に縛り、腕の付け根で結んだ。
縄が、肌に食い込む音。ラトゥは、声も上げない。
「なぜ、お前が」
オムアンが、うめくようにつぶやいた。
松明の脂が、ぼたり、と砂に落ちた。
* * *
しばらく、そのままだった。
ラトゥは突っ伏したまま。ミナとオムアンは座り込んで呆然としていた。トウマとシズリは息を整えている。
風穴の奥から、冷たい風が、ひと筋。岩肌に染みた水のしずくが、奥のどこかで、ぽつ、と落ちた。
「儂が、お前をタウ・パラにした」
オムアンの低い声が、風穴の奥まで響く。
声が、岩の襞に当たり、二重に返ってくる。
「気に食わんかったのか」
また、響いた。返事はない。
オムアンの碧の右目と、茶の左目に、松明の火が小さく映っている。
「夫を悼みに、ここへ?」
シズリが、体をさすりながら、ミナにたずねた。
肩の打ち身を、布の上から、そっと探っている。声は低い。
ミナは、ゆっくりと立ち上がった。
膝に砂がついている。それを払う気配もない。両の腕は、力なく下がっていた。
「ええ……。あなたが、あなたが殺したの?ソランを?友達なのに!」
声が、岩に跳ね返り、奥へ消えた。
ラトゥは、答えない。
ミナは、ため息をつきながら、目を風穴の奥にやった。
そのまま、ふらりと歩き出す。
「どこへ」
ミナが、止めようとするシズリの手を振り払い、奥へ向かった。
ミナの両目が、暗がりを見ていた。星明りも届かない、その奥。
岩肌が、闇のなかへ吸い込まれていく。冷えた空気の流れが、頬に触れた。
* * *
ふらふらと、ミナが風穴の奥へと進んでいく。
シズリも、暗闇に目を凝らしながら後から進む。松明はもう燃え尽きていた。
闇の濃さが、足の運びに重さを加える。砂が次第に湿り、岩のかけらに変わっていった。足の裏で、小石が、ころりと転がる。
ミナは、先が見えているように、突き出た岩を避けていく。シズリもその動きに続いた。
岩肌に、肩が、軽く触れる。冷たい。湿っている。指先で、岩の隙間をさぐりながら進んだ。
最深部。かがんで入った。そこに、人の手で彫られたであろう、水平な線の段があった。
ミナは、その上に置いてあった乾いた白い石を手に取る。
石は、手のひらよりも大きいくらいだろうか。よく見えない。
と、ミナは何かに気づいて、はっと息をのむと、段の上をまさぐった。
少しして、石と、何かを抱えるようにして、戻る。
シズリが手を貸そうとするが、それには応えなかった。
ミナの胸の前で、両の腕が、それを抱え込んでいる。
シズリは諦め、気をつけて、と声をかけ、今度は自分が先頭になって戻った。
岩のしずくが、頭の上に、ぽつ、と落ちた。
* * *
岩戸では、トウマがラトゥの縄を少し緩め、仰向けにしてやっていた。
腿の傷口に、布を当てる。血が、布に染みていく。
ラトゥは碧い目を薄く開き、虚空を見つめ続けている。
睫毛が、わずかに震えた。黒い耳飾りが、頬の脇で、止まっている。
オムアンは問いかけを諦め、座り込んだままだ。
膝の上で、両の手が組まれている。骨ばった指の節が、火に照らされて、白い。
シズリが、戻ってきた。続けて、ミナも。
ミナは、星明りを探すように外に出ると、抱えていた石を波の見える崖に立てかけた。
石が、岩の上で、ことり、と乾いた音を立てた。
もう一つ、手にしていたのは白い布だった。
浅い波が入り江を揺らしている。
夜の風が、頬を撫でた。岩の脇で、藻の匂いが、わずかに立ち上る。
ミナは、布を広げる。何かが書いてあるようだが、暗くて判別できない。
そのまま座り込んだ。手が震えている。
布の端が、膝の上で、小さく揺れていた。
シズリは、傍らの岩に腰かけた。
岩の表面が、冷えている。
トウマが、ラトゥに左腿に止血を施し終わった時、夜が、白んできた。
東の空が、灰色を帯びる。星が、ひとつ、ふたつ、姿を消した。
ミナが、布をシズリに渡した。
「これは、夫からではないでしょうか。読んで……もらえませんか。字が、読めないもので」
声が、かすれている。布を渡す指が、なお震えていた。
シズリは、頷いて受け取ると、まだ薄暗い中、布に目を凝らした。
布の目が、粗い。黒い文字が短く、行を変えて並んでいる。
上から、読んだ文字を声に出していく。
——
「ラトゥは島を出たい。バイロンとナバリは強欲だ」
シズリの声が、低い。一語ずつ、置くように。
「三人は島を売っている。仲間に加われと言われた」
「私は断った」
「狙われている」
ミナが、息を呑み、じりっ、と身じろぎした。
「この島が好きだ。ミナが好きだ」
「幸せに暮らそう」
「いつまでも、ともに」
ミナの目から、涙が、溢れる。碧い両の目が、赤みをもつ。
「愛するミナへ」
「ソラン」
——
ミナは、声を上げて泣いた。
布を抱え、胸に押し当てる。背が、何度も波打った。
シズリは、何も言わずにその背中に手を当てた。
* * *
パヌルが、上から入り江に声をかけた。
石の段を、ひとつずつ。足音が、岩に当たって、低く響いた。
心配顔でこちらに向かってくる。
空は明るくなり、もうすぐ日が昇る。海は青さを取り戻し、遠くで鳥が鳴いた。
灰から、青み。青みから、薄い金。岩肌の襞に、夜明けの色が差し込み始める。
トウマが、ラトゥを立たせたその時、オムアンが、ラトゥの前に立った。
「何がお前を、ここまでさせた」
ラトゥは、目を開いて、オムアンの両目を——左右で色の違う目を、見据えた。
ラトゥの目は碧く、海の色を映したかのようだ。
顔が、険しくなってゆく。
「親父は、首をくくった。ずっと、親父はおかしかった。タウ・パラは、そうなるんだ。あんたはそれを知っていた」
ラトゥは、堰が切れたかのように、話し始めた。
声が、ふだんよりも低く、はっきりとしていた。
「親父は、この島が嫌いだった。俺もそうだ。でも、タウ・パラは出られない……ソランはこの島が好きだった。なのに、あいつは外に出なきゃならなかった」
ラトゥの目に、涙が溢れる。
頬を、ひと筋伝う。黒い耳飾りが、揺れた。
「マハリとタマリを殺したのか」
オムアンがラトゥに一歩近づいた。
砂が、足の下で、わずかに沈んだ。
「死んだら、世話をするのにな。あんな嫌だったのに、またやることになっちまった」
「なぜ殺した」
「タウ・パラはこうしろとか、島の掟とか……うるさいんだよ」
ラトゥは、目を海へ向けた。日が昇って来る。
水平線の縁が、白い。次いで、薄い金。海の青が、ゆっくりと色を取り戻していく。
トウマが、ラトゥの後ろで縄を持ったまま、声をかける。
「ソランは、なぜ殺した」
「……あいつ、港町へ行く日に、急に考えを変えやがった。わざわざうちに来て、全てばらす、考え直せ、だと」
「それだけか」
「あんた、死者を操る術って言ってたな。死者の世話なんて、まっぴらだ。俺が死者に操られているじゃないか。決まった処理、決まった儀式……ただただ死体と向き合って、おかしくなっちまったんだ!親父も!俺も!」
そう叫ぶと、ラトゥが身をよじり、傍らの岩に額を打ちつけた。
鈍い、重い音だった。
慌ててトウマが引き戻し、縄を握りなおす。
「俺も……俺も……」
ラトゥの額が割れ、血が顔を伝う。体が、震えていた。
オムアンが、ラトゥの足元に跪いた。ラトゥの顎先から垂れた血が、オムアンの目の前に落ちる。
「儂は、お前がこの仕事を好いとらんことを知っておったよ。それでも、そのままにしていた。しきたりに、甘えた」
声が、血とともに砂に吸われた。
ラトゥは、きつく目を閉じた。
パヌルはようやく事態が呑み込めてきたようだった。ミナを立たせる。
日が、岩戸の上に届き始めた。光が、岩肌の襞に、長い影を作る。
いくぞ、とトウマが声をかけ、ラトゥの縄を掴んで集落へと歩き出した。




