第七章 裏切者
夕餉の匂いが、家の中から流れていた。
魚を炙った、薄い塩の匂い。芋を煮た、甘い湯気。そして談笑の声。バイロンの家の戸口で、トウマは足を止めた。
布の合わせ目から、火の照りが、足元に細く落ちている。
夜が、深くなっていた。森の方で、葉ずれの音。それが、止んだ。
「邪魔するぞ」
トウマが声をかけて布を押し分ける。布が、肩に擦れた。
中の間に、炉。火が大きい。三人が、椀を手にしている。バイロンと、その妻と——ナバリだった。
ナバリの椀が、止まった。指の先が、緑に染まっている。薬草の汁の色だ。
「おお、客人さぁ」
バイロンが、笑顔を作る。妻が、急いで椀をもう二つ取り出した。他の家より明らかに物が多い様子だ。
漆塗りの椀が、棚の隅に積み重なっている。色のついた布、貝の飾り、木彫りの小箱。
火の油の匂いが、家の奥に、こもっていた。
「いや、いい」
トウマは、立ったまま、首を振った。土間からの冷えが、足の裏に上がってくる。シズリは戸口のそばで、短く、頭を下げた。背に、夜の風を負ったままだ。
「カヨを探している。島にとって大事なことだ。どこにいるか知っているか」
家の中の音が、消えた。
火の上で、汁が、ことりと鳴った。バイロンの妻の手が、椀の上で、止まっていた。
バイロンが、口を開きかけ、止め、もう一度開いた。
「……オムアンの家、さぁ」
「オムアン?」
「オムアンが、受け入れた。わたしじゃあ、ない」
トウマは、シズリと、目を合わせた。シズリの瞳が、火を映して、わずかに揺れた。
「案内してくれ」
「今からかね」
「今からだ」
トウマの、有無を言わせぬ気迫にただならぬものを感じたのか、バイロンが立ち上がった。膝の関節が、鈍い音を立てる。ナバリは目を逸らして座ったまま、椀を啜っている。汁を呑む音が、長い。
「ナバリ」
バイロンが声をかけると、ナバリはようやく椀を置き、仕方なさそうに立ち上がった。指先の緑色が移ったか、椀に薄黒い跡が残る。バイロンの妻は慌てて椀を片付けて、奥の間へ入っていった。布が、揺れる。
四人で、戸口を出る。夜の風が、生臭い。潮の匂いが残っている。
板の戸が、軋んだ。
* * *
集落の道は、暗かった。
家々の戸口に、灯火が一つずつ。白い小さな揺らぎ。それを縫うように、四人の足音が続く。
土の踏みしめ。砂の擦れ。先頭のバイロンの足が、わずかに引きずるような音を立てている。
どこかの家で、子どもの寝言。すぐに、止んだ。
風が、台地を渡る。森の方から、夜鳥が一声、低く啼いた。
ナバリは、後ろから三歩遅れて歩いていた。腰の籠が、布に擦れる音だけがする。
オムアンの祈りの火が、見えてきた。低く小さく、燃えている。樹脂の燃える匂いが、ふっと、近づいた。
その近くにオムアンの家があった。
暗い夜空に、火の煙はまっすぐ上へ立ち上っていた。風が、ここでだけ、止んでいるようだった。
中に入ると、炉の前にオムアンが座っていた。トウマたちを見ても、動かない。火の照りが、白い前髪の根に当たっている。
家の中は、薄く、薬草の匂いがしていた。乾いた草の、青い、奥に苦みを潜めた匂い。
奥の間から、人の気配。衣擦れの音。布が一枚、めくれた。
カヨだった。
奥の間には、炉の明かりに照らされて測量具が見えた。三脚の脚が、影を長く落としている。
「何の用だ」
オムアンの、重々しい声が響く。厳しい視線をトウマに向けている。
トウマが、炉を挟んでオムアンの向かいに座る。板の床が、軋んだ。膝の下が、冷たい。
「島の混乱を収めたい」
「お前たちがそれを運んだ」
「それはちがう。話を聞いてもらおう。それから判断しろ」
トウマは、バイロン、ナバリ、そしてカヨを炉を囲むように座らせた。
それぞれが座り直す音。布の擦れ。膝の音。咳ばらいが一つ。
シズリは、前の間との仕切りのあたりに座った。布の影に、半分、身を沈めるように。
「マハリ婆は殺された。タマリもだ」
トウマが、切り出した。
オムアンの目が、火の上で止まった。
煙が、まっすぐに、立ち上る。火の粉が、ひとつ、暗がりへ昇って、見えなくなった。
しばらく、誰も口をきかなかった。炉の薪が、ぱちりと爆ぜた。火の粉が、ひとつ、暗がりへ流れて、消えた。
「そして、焔石が誰かに流されている。北の海に投げられて、そこから持ち出されている」
トウマが、続けた。
オムアンが、ゆっくりと頷いた。深い、長い、頷きだった。
「知っておる。いや、マハリ婆はわからん、年だったからな。タマリも、わからん。鯨の背が、削られて……誰かの、何かの警告のつもりだったのか。まさか、落ちて死ぬなんて。で、焔石だが」
火の光が、白い前髪に当たっている。皺の影が、深い。
「焔石は、南の入り江まで運んで、タガネ商会に売っておる。だが、誰かが……それ以外のものに、売っているようだ。それは、知っておる」
オムアンの声は低かった。一語一語、句切るように。指の節が、膝の上で、軽く曲げ伸ばされた。骨が、鳴った。
「知っていたのか」
トウマは、そう言いながら、集まった者たち全員の顔を見ていた。
「そうだ。カヨはタガネ商会のヤジマに雇われた。ヤジマと儂が調べさせたのは、そのことだ」
オムアンがカヨを見る。トウマも、その場の全員もカヨを見た。視線が、一斉に動いた。
「……わたしは、ただ、島の測量を頼まれただけ。見たものと測ったものすべて、オムアンさんには報告済み。あとは帰ってヤジマに報告して、おしまいよ」
カヨは不機嫌そうに言った。組んでいた腕を、組み替える。
「何を見た?」
トウマが聞く。
「あんたに言う必要ある?」
「……話してやれ」
オムアンが、カヨを促す。
カヨは、少し肩をすくめてから、話し出した。袖の口を、軽く払う。
「わたしが伝えたのは、島の大きさ、形、水場。採掘場の広さと高さ、推定埋蔵量。そして……持ち出されたであろう焔石の量」
「それは、どのくらいさぁ?」
バイロンが、口を挟んだ。声が、わずかに、上ずっていた。
「これまでタガネ商会がこの島で扱った量と同じか、それ以上」
「それは、驚いた。そんなに……」
バイロンは、頭を抱え、体を揺すって、ため息をつき始めた。揺すった膝が、板の床を、こつこつと打った。額に、汗の粒が、滲んでいる。
「しらじらしい」
オムアンが言った。両の手を膝の上で組む。組んだ手の甲に、古い傷が、白く残っている。
「あんたじゃよ。儂らに反対しておったのは。タガネ商会にだけ売るなんて、毎回少量しか取り扱えず、それも買い叩かれて、とな」
バイロンの動きが、止まった。膝の音が、消えた。火が、わずかに、傾いだ。
「なんだと」
「ずいぶん、物に囲まれて生活するのが好きなようだ。どこから手に入れた」
「私の勝手さぁ。あんたこそ、ずいぶんタガネ商会に肩入れしとるんさぁ」
「あそこは、力の弱い商会だ」
「だから、高くも買えないし、量も買えないんさ!」
バイロンの口から、唾が飛ぶ。火に、跳ねた。じゅ、と短い音がした。
ナバリは、目を、伏せている。薬草で緑色に染まった指が、震えていた。
オムアンは、じっと手の古傷を見た。
「……だから、良いのだ。強い商会が、来たら……この島を、追い出される。儂らはここに住めなくなる。力ずくで、奪われる」
火が、爆ぜた。焦げた木の匂いが、薄く、立った。
ナバリの指の、緑が、膝の布をきつく握っている。
「焔石を持ち出して、北の崖に落としているのは、あなたですね」
突然、シズリが話し出した。皆一斉に、シズリの方を向く。布の影から、シズリの白い面が、火の縁に出てきた。
シズリの指が、ナバリを指した。
「い、いや……俺は」
「黒く汚れた手は、薬草の汁でごまかした。薬師としてかごを持って森に入り、それで焔石を運んでいる。私たちに最初の夜、眠るよう薬を盛ったのも、私たちを森に入れないようにするためです」
ナバリは、助けを求めるようにバイロンを見た。バイロンは素知らぬ顔をしている。指を、組み替えた。
「取引で得たものは、北の崖でかごを吊るすなどして、引き上げていたのでしょう」
ナバリは、突然立ち上がるが、トウマに腕を抑えられた。
「は、離して……」
「バイロン、お前が唆したか」
オムアンがそう言いながら、ゆっくりと立ち上がる。
「知らんさ」
「お前が、殺したのか」
オムアンの右手が、バイロンの襟を掴む。骨ばった指が、布に食い込む。バイロンの首筋に、血管が浮き出る。
「いいえ、バイロンではありません」
シズリが、懐から布を取り出した。布の結び目を、ほどく指先が、迷いなく動く。
「この持ち主が、殺したのです」
布を開くと、鑿が一つ。火の光に、刃が、鈍く光った。
「鯨の背を削った跡と、この鑿の刃は、ぴたりと合います。この鑿で、削られたのです」
「これは……」
オムアンが、バイロンから手を放し、鑿を見る。座り直し、手に取って眺めた。指先が、刃の根元を、そっとなぞる。
「マハリの器の縁に赤い粉が残っていたのは、おそらく焔石。削って飲ませたのも、この持ち主でしょう」
シズリは続けて言った。
「この鑿は……タウ・パラのものだ」
オムアンが、絞り出すような声を出した。喉の奥で、何かが、引き攣れたような音だった。
* * *
集落の外れ。タウ・パラ——ラトゥの家は、他の家から、少し離れている。
夜の道は、足元が見えなかった。松明の脂が、燃えながら、ぽたりぽたりと地に落ちる。
トウマ、シズリ、オムアンの三人は、手に持った松明に注意しながら、入り口の布を押し分けた。布が、軽い。中に風が、通り抜けている。
家の中。炉の火は、消えていた。寝床は、空。
灰の上に、薪の燃え残りが、黒く横たわっていた。煙の匂いも、薄い。
シズリが、炉の灰に、指を当てた。
「……冷たい」
「長いか」
「はい」
トウマが、唇を、噛んだ。
「逃げたか」
「だが、どこへ」
オムアンの皺だらけの手が、こめかみをさすっている。火に焼かれた松明の樹脂が、家の中に、強く匂った。
先ほど、バイロンとナバリを見張っておくよう村の者たちに頼んだが、出てくるまでにそれほど時間をかけなかった。
はじめから、家に戻っていないのかもしれない。
トウマたちはラトゥの家を出ると、南へ向かう。松明の影が、足元で、踊った。
道なりに、ミナの家があった。戸口に、小さな灯りが、揺れている。
「邪魔するぞ」
トウマが中に入り、ラトゥの行方を尋ねようとすると、意外な顔があった。
棟梁パヌルと、その妻がルアをあやしている。妻の膝の上で、ルアが、微かに息を立てていた。色の違う両目が、閉じている。乳の匂いが、薄く、家の中に漂っていた。
「どうした。血相変えて」
パヌルがトウマに——いや、その後ろから、疲れた顔で入ってきたオムアンに向かって言った。
「パヌル……ラトゥを探している。いや、ミナはどうした」
オムアンが早口で聞く。息が、まだ、整っていない。
「さっき出て行った。ルアを預けたいってな」
「ソランを、弔いたいって」
パヌルの妻が相槌を打つ。ルアの背を、ゆっくりと撫でる手が、止まらない。
後から入ってきたシズリの呼吸が、わずかに、止まった。
「入り江です。まさか、ラトゥも」
シズリは、そういうや否や、高床を駆け下り、走った。板が、跳ね返るように鳴った。
トウマが後を追う。オムアンも、走り出した。
* * *
星明りが海を浅く照らしていた。
シズリを先頭に、トウマとオムアンは、入り江へ続く石の段を降りていた。石が、足の裏に、冷たい。段の縁が、欠けたところもある。松明の脂が、風にあおられ、青く長く尾を引いた。
「風穴というのは?」
トウマが後ろのオムアンに声を投げる。
「降りて左側の、先だ。岩が開いて、行き止まりの、洞穴になっとる」
オムアンが、ぜいぜいと息を切らせながら、教える。声が、岩に当たって、低く跳ねた。
風が、潮の匂いを、運んできた。生臭さは薄れてきたようだ。岩肌が、湿って、鈍く光っていた。
シズリは、ようやく入り江に降りると、風穴へ走った。砂が、足の下で、わずかに沈む。
トウマが続く。
足音が、岩の壁に、二重に響いた。
入り江の奥、確かに岩が分かれて、暗がりになっている。
「ミナ!」
シズリが声を上げた。
入り口のあたりに人影。こちらを向いたようだ。
ミナだ。両目が碧く星の光を返した。
その時、さらに奥から、影が一つ、疾走った。




