第五章 死者
翌朝。トウマはマハリの家を訪れた。
マハリの家の空気が、変わっていた。
奥の間に、マハリが安置されていた。樹皮布で丁寧に包まれている。頭が北を向いている。生前の衣装のまま。耳の赤い耳飾りが、そのままついていた。
樹脂の匂いが、家中に淡く漂っている。酢の鋭さは消えた。甘い重さが、残っている。
昨日の夜の女が一人、奥の間に入っていく。椀を持っていた。
根菜汁。湯気が立っている。
女が寝床の横の板に、椀を置いた。
「マハリ婆、今日の汁は良い出来だよぉ」
声が、自然だった。
「タマリが腹の白い魚を獲ってきたさぁ。婆さんの好きな、あれだよぉ」
声をかける。手を合わせる。
中の間の方から、別の女の声が聞こえた。
「昨日の風は強かったねぇ。婆さんが好きな西風が、夕方には回ったよぉ」
ここでは、死者が、まだ家にいる。
食事を供えられ、声をかけられ、風の話を聞かされる。
子を抱いた母親が、マハリの家に入っていった。赤子の頬が、朝の光に赤い。
「マハリ婆、この子の名前、覚えとるかねぇ」
母親の声が、奥の間で響いた。
「婆さんが、去年、名前をつけてくれたんだよぉ」
赤子が、小さく泣いた。母親が軽くあやす。それから、また語りかける声。
生きているかのように振る舞うその声に、トウマは、気味の悪さを感じ、立ち尽くしていた。
* * *
日が傾き始めていた。
台地に、炊事の煙が立ちのぼっている。日常の匂い。薪の焦げた匂いと、根菜の匂いが混じる。西の空が、赤く染まり始めていた。
仮宿の中の間。
シズリが座っている。だが、目は遠くを見ている。
トウマが炉に薪をくべた。火が、小さく爆ぜた。
「何を考えている」
シズリが、答えるまでに少し間があった。
「マハリのことです」
「そのせいで、島中が、俺たちの話を聞く気もない、といったところだな。我々も切り出しづらいが」
シズリが、目を落とした。それから、またゆっくり上げた。
「私の印象では、マハリは、とても元気な老婆だった、ということです。初めは、とても元気な様子で汁を振る舞ってくれました」
トウマは薪をくべる手を止めない。が、その時の様子を思い起こしていた。
シズリは話を続けた。
「翌日会ったときは、もう弱っている様子で、語りも咳き込んで終えられませんでした。その後は、もう姿を見ていません」
「何が言いたい」
「衰弱ぶりが、あまりに不自然です。その——早すぎます」
トウマが、顔を上げた。
シズリの目が、トウマを見ていた。
遠くを見る目では、なくなっていた。
「普通の衰弱ならば、椀を持てなくなるまでに、数日かそれ以上かかるはずです。一日で、このような進行は異常です」
トウマは黙っていた。
「マハリが亡くなった朝、火が、消えていました。初日の夜も、二日目の夜も、炉には火があり、汁を炊いていた人です。あれは習慣だったでしょうに」
そして、とシズリが声を低める。
「器の縁に、見慣れない赤い粉がありました」
「寝床の横に置かれていた、木の器です。汁の痕跡がありました。器の縁に沿って、赤みを帯びた粉末が、乾いて付着していました」
トウマは、眉根を寄せた。炉の灰の匂いが、ふいに濃くなったように感じた。
「あの色は——根菜でも、島の草でも、ありません。私は、あの色を、他のどこかで見たことがあるような気がしていますが、まだ確信は、ありません」
シズリが、口を閉じた。
炉の火が、小さく揺れた。衣の裾が、板の上でかすかに擦れた。
トウマが、薪に手を伸ばしかけて、止めた。
「それを聞いて、一つ気になることがある」
シズリが顔を上げた。
「婆さんが死んだ日の夕刻——いや、その前日だ。ナバリとラトゥが、マハリの家に来ていたようだ。世話に来たんだと、近くの女が言っていた」
* * *
翌朝。台地の空気が湿っていた。
西の風が霧を運んできたのだろうか、重い空気が台地に居座っている。草の青臭さ。ぬるい潮の匂い。
トウマは体を起こして、首の後ろを掻いた。
「よう」
「おはようございます」
シズリはもう起きていた。
二人は軽く朝食をすませると、仮宿を出た。
バイロンの家の前では、蓮竹編みの椅子に、バイロンが浅く腰掛けていた。微笑みを浮かべて、不都合はないか、とトウマにたずねる。他の三人の年寄りが、敷物に座っていた。
そこへ、タマリが漁から帰ってきた。塩で乾き、日に焼けた顔だ。バイロン達に話しかける。
「入り江から、聞き慣れない音がしている。もう三月になる。前にも言ったが、調べるべきだ」
バイロンが首を傾げた。
「タマリ、お前はいつも慎重だねぇ。入り江の音なんて、潮の加減でいくらでも変わるさぁ」
「潮の加減じゃない。叩く音だ。何かを打つ音だ」
タマリの声が一段低くなった。
「俺は五十年、海を聞いてきた。あの音は、海のもんじゃない」
バイロンが他の年寄りに目を配った。一人が、「潮見の疲れだろう」と、小さく言う。
タマリの肩が震えた。
「入り江は一族の命だ。外の船が入れば、潮が変わる——」
「タマリ」
バイロンが穏やかに遮った。
「お前の海の知恵は、宝だよぉ。だが今は、皆がマハリ婆のことで気を揉んでいる。祖霊の声もあった。まず心を落ち着けるのが先だろう」
タマリは、黙って踵を返した。
* * *
トウマとシズリは、しばらくバイロンと年寄りたちの世間話を聞いていた。
すると、マハリの家の方から、女が一人走ってきた。息が荒い。
「ト・マクラが……ト・マクラが動いたさぁ」
トウマが眉を上げた。
「動いた?」
皆、マハリの家に向かう。
奥の間。樹皮布に包まれた体。腹の上で組まれていたはずだった両手が、体の脇に落ちている。
「ト・マクラが、動いとるさぁ」
年配の女が、唱えるように言った。
トウマはマハリの右手を見た。防腐処理の薬液で皮膚が硬くなりかけている。だがまだ完全ではない。単純な話だ……外力が加われば動く。
死者を操る術を持つはずの部族が、こんなことでなぜ怯えるのか、とトウマは訝った。
バイロンは、皆をなだめて回っている。
シズリは奥の間を見ていた。マハリの手ではなく、別のものを見ている。
寝床の横。木の器が一つ。トウマにささやく。
「あの器です。弔問の時に、赤い粉末が付いていた器です」
「それが?」
「洗われています。器の縁が、白い。誰かが、あの器を洗いました。それか、強く拭ったか」
「……手が動いたのは」
シズリが首を振った。
「手を動かしたのは、器を洗いに来た者ではないでしょうか。暗い中で遺体に触れて、手が腹から落ちた」
トウマの呼吸が、わずかに浅くなった。
「つまり、あの器の粉を、消したかった」
シズリが頷いた。
* * *
トウマとシズリは、マハリの家を出ようとしたところで、足を止めた。
霧が濃くなり、粒の細かな雨が降っていた。二人は仮宿まで駆けて戻った。
中の間で、炉の熾火を大きくして、腰を落ち着ける。
「マハリ婆は毒でも飲まされた、と言いたいのか」
トウマが、シズリに問いかけた。
「決めつけたわけではないのですが……隊長、私が見た赤い粉は、焔石ではないでしょうか。島で見る装飾品の赤い石も焔石でしょう。オムアンの祈りの火にも使われています。島から産出するものです」
「質が悪い、量も出ないとの話だったな。砕いたら毒になるのか。まぁ燃した時のあの煙は、確かに害があるが」
「都では燃料としての用途です。燃料としての質が悪いのでしょう。港町の総督が言っていた装飾品としての用途も、都では聞いたことがありません」
シズリは、息を継いだ。
「焔石は脆いので、宝石として扱うには向いていません。それに都では赤黒いものばかりです。この島の焔石は色が薄いので、かろうじて装飾品になるのでしょうが、それよりも島では他に装飾品に使えるものが産出しないのでしょう」
「黒い肌に青い目に赤い石、という彩りからも、ここでは飾りとして珍重したくなるのも、まぁわからんでもないな」
「きっと森の中に産出場所があります」
「将軍の命令もあるし、見ておくか」
「では、案内を頼んできます」
「ドガだなんだと言われているところに、頼みづらいことではあるかもしれんな」
「それでは、私が行きます。隊長は目立つので、村を動かないでください」
* * *
シズリは、そっと仮宿を出た。霧が、細い雨をまとって一段と濃くなっている。
森に入ると、鬱蒼と木々が茂っている。
樹の幹が黒い。濡れた苔の匂いが立つ。腐葉の甘苦い匂い。土の湿り。息を吸うと、鼻の奥が冷えた。
まずはひたすらにまっすぐ進み、崖に……海に当たるところまでを目指そう、と歩き出した。
しばらく進むと、歩きやすい道に出た。やはり焔石の運搬などは行われているのだろう。
もう波の音が近い。落ち葉の下に、砕けた石の粒。小さい。角が鋭い。靴越しに、踵が刺される。
シズリは膝を折って、指でつまんだ。
表面は黒いが、その中は赤く、脆い。
焔石の、かすだった。
立ち上がって石の粒を辿る。道に沿って、点々と落ちている。
粒の密度が増していく。木の幹の根元にまで、赤黒い粉が薄く散っている。
斜面が、少しずつ下っていた。その先、木々の間が、開けた。
露出した岩肌に、削り取られた跡が、いくつも残っていた。
鑿の痕。平行に走る、浅い溝。
岩肌の下に、砕かれた石の山。赤黒い。焔石の塊が転がっている。
木の幹を並べた簡素な支柱。樹皮を編んだ屋根。これは作業場だろう。
人の気配は、なかった。
霧に包まれた採掘場は、時折木の葉を伝って雨粒が落ちる音と、遠くに波の音がするだけだ。
シズリは、下草を一歩ずつ踏んで、岩肌に近づく。
指で、鑿の痕を撫でた。
新しい。表面に、風化の丸みがない。削ってから、長くない。
砕かれた石の山。踵で、一つを崩した。中から、赤黒い塊が現れる。表面の粉が、濡れて、指に赤く付く。
金属の匂い。湿った鉄。いや、鉄より冷たい。
恐る恐る舐めてみた。金属臭と苦さがある。味をごまかすのは難しそうだが、不可能ではないかもしれない。
砕いて飲めば、毒にもなるだろう、思わず、唾にして吐き出した。
シズリは、懐から布を取り出した。岩肌にかがむ。
赤黒い塊を、三つ、布に包んだ。大きさを揃える。粉の粒も、少し、布の端に散らせる。
結んで、懐に入れた。
腰を伸ばした、そのとき——
背中に、衝撃があった。意識が遠のく。
何かが去る音だけを、聞いた。
* * *
トウマは、寝転がって仮宿の天井を眺めながら、考えていた。
村にあと何日かいたら船が戻って来る。トゥパラ族は、北での戦闘の役に立つ部族ではなさそうだ。焔石については、シズリが戻った時に詳しいことがわかるだろうが、いずれにしろ質も量も大したことはない。
マハリのことは村のことだ——。関わり合いになっても仕方がない。
そこまで思い至ると、体を起こした。
使命を果たすべく、一度しっかりと話をしておく必要がある。
トウマは仮宿を出ると、バイロンの家へ行った。
バイロンは家にいた。仮宿にオムアンとタマリを呼びたいと伝える。バイロンはそれに応じた。
バイロンはオムアンを、トウマがタマリの家をそれぞれ訪れた。
タマリは早朝に潮見に出かけてから直接漁に行ったのか、戻っていないとのことだった。
仕方なく、トウマはラトゥの家も訪れて、仮宿に連れ出した。ちょうどバイロンがオムアンを連れてやってきていた。
* * *
「集まってくれて、ありがたい」
仮宿の中の間。炉の火を大きくすると、トウマが明るい声で言った。オムアンが顔をしかめる。
「難しい話ではない。ティルマ国を代表しての提案だ。俺は、ティルマ国軍の監察官長トウマ。将軍の命でここへ参った。あんたたちと友好関係を築くこと。焔石の調査をすること」
「焔石を奪いに来たのか。あれは神聖なものだ」
オムアンが口を挟んだ。
「都では、東西から買い集めている。燃料として有用だからだ。ここでも産出するのなら、買いたい商会が現れるだろう。奪うわけではない。だが、いずれにしろ燃料としての質も量も良くないと聞いている」
「それは真なんさぁ?価値がない、とあんたもそう言うんかね」
今度は、バイロンが口を挟む。
「他にも焔石を調べているものがあるのかもしれんが、俺はそこに興味はない。まずはあんたたちと仲良くしたい。わが国のすぐ傍に住んでいるんだからな。焔石はあんたたちが売りたければ、いつでも売りに来ればいい。質が良ければ歓迎されるだろうさ」
「だ、騙して買いたたこうって魂胆。そうだろう。本当は価値があるんだ」
ラトゥが体を前に出した。
「いや、残念ながら価値のことは俺にはわからん。だが、もし騙されたという時は、いつでも軍に訴えてくれ。俺が取り次ごう」
トウマは落ち着いて応じると、言葉を続けた。
「本当に価値があるのは、あんたたちの術かもしれん。わが王は、古い記録を調べなさった。そこに、あんたたちの祖先と思われる人々が、不思議な術で王を助けた、とあった。その後、王の代替わりがあり、放逐されたとのことだ。その術に興味がある。例えば……死者を操るとか」
トウマは、ラトゥをまっすぐに見た。
ラトゥは、乗り出していた体を後ろに引いて、怯えた表情を見せる。
オムアンが、低い声でトウマに語りかけた。
「やはりお前は帰れ。そしてお前の王に伝えろ。二度とかかわるな、と。死者を操るなど妄言だ。われわれに伝わるのは、死者を清め、弔うことだけだ」
「死者を清め、弔うとは、具体的に何をしてるんだ?」
トウマは、ラトゥから目をそらさない。
「そ、それは、父から伝えられたことだ。他の人には、い、言えない。でも、本来あるべき場所に、返しているだけだ」
「死者を操るわけではない、と?」
「そ、そうだ。しばらく一緒に過ごして、それから天に昇るんだ。それだけだ」
「死者は動かないんだな?例えば、手とか」
「も、もちろん、そうだ」
ラトゥは、消え入りそうな声で、答えた。
* * *
シズリは、岩肌に体を預けて、背中の痛みに耐えていた。
意識を飛ばしていたのは、一瞬だったろう。
懐の石の感触を確かめて、ゆっくりと体を起こした。
剣に手をかけ、あたりを見回す。衝撃を受けてすぐ、何かが後ろで動いた気配は感じていた。
依然として霧が濃い。目を凝らすが、あたりに動くものは見当たらなかった。
数歩歩いた時、うずくまっている人影に躓いた。思わず剣を抜く。
だが、その顔を見て、シズリは思わず息をのんだ。
——マハリ。
うずくまって動かない、皺だらけの老婆の茶色い目が、こちらを見ていた。
* * *
村人たちの慌てる声が、トウマの仮宿に近づいてきた。
オムアンとバイロンを呼んでいる。
トウマ、オムアン、バイロン、ラトゥの四人は外に出た。
さっき会ったばかりの、漁師タマリの妻が、半狂乱になっている。
「主人が、主人が——」
隣にいた村人たちが言葉を継いだ。
「タマリが鯨の背から落ちた!」
「いつもの潮見のところだ!」
その時、向こうから四人の村人がタマリを担いでやって来た。
トウマたちは、その傍へ急いだ。
「まさか、こんな——」
オムアンが、バイロンが、二人とも慌ててタマリに触れる。
トウマは、タマリを一目見て、もうわかっていた。それはもう、死者だ、と。
タマリは、死んでいた。




