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碧色の眼、大鯨の行く島  作者: ささかま


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第四章 祖霊の声

首が痛い。


壁に背を預けたまま眠っていた。板の間の冷えが、腰から(ひざ)の裏に届いている。


シズリは目を開けた。


薄暗い。仮住まいの天井の(はり)が、曖昧(あいまい)な線を描いている。壁板(かべいた)隙間(すきま)から白い光が差していた。朝だった。


体が重い。指に力が入らない。膝の上の(てのひら)を、ゆっくりと握った。開いた。感覚が(にぶ)い。


記憶が戻ってくる。(つぼ)に口をつけた。甘かった。奥に苦みがあった。——そこから先が、ない。


()の前にトウマが座っていた。


「おぉ、よく寝たな。俺もぐっすりだった」


笑っている。


シズリは何も返さなかった。


床に(わん)がある。昨夜、手から離した椀だった。中身がわずかに残っている。


手を伸ばした。椀を持ち上げ、鼻を近づけた。


甘い。根菜(こんさい)煮汁(にじる)の匂い。だがその奥に——苦みのある草の匂いが、かすかに立っている。


シズリの目が細くなった。


椀を床に戻した。音を立てずに。


朝食をナバリが運んできた。根菜汁の温め直しと、サゴ団子(だんご)


シズリは団子を手に取った。汁の鍋に手を伸ばし、指で具だけを拾った。根菜の切れ端。(いも)欠片(かけら)。汁は、飲まなかった。


トウマが汁を(すす)っている。二杯目をよそっていた。


シズリは団子を噛んだ。もちりとした歯ごたえ。薄い塩気(しおけ)。そして水を飲んだ。


* * *


台地(だいち)の南(ふち)に、朝の風が吹いていた。(しお)の匂いと、岩に乾いた()の匂い。


トウマは(がけ)の縁に立った。()()を見下ろす。


今朝の海は光っていない。昨夜の青白(あおじろ)発光(はっこう)が嘘のように、(あお)い水が静かに岩を洗っていた。


南崖道(みなみがけみち)の上り口に、人影があった。


タマリだった。肩に小さな網袋(あみぶくろ)を提げている。潮見(しおみ)を終えて戻ってきたところらしい。足元の石が、朝露(あさつゆ)で濡れている。


「おぉ、今朝は何だ」


トウマが、興味深そうに尋ねた。


タマリが網袋を開いた。小さな貝。薄い茶色(ちゃいろ)(から)。爪の先ほどの大きさのものが、二十ほど入っている。


岩場(いわば)の貝だ。崖道を降りた先の、岩の(くぼ)みに溜まっとる」


小刀(こがたな)の先で殻を開いた。中の()は灰色がかった白。小さい。


「毎朝、(くじら)の背っちゅうところに、潮見に行っとる。今日は遠出はいかんのでな」


口に放り込んだ。もう一つ、開いた。トウマに差し出す。


受け取って口に入れた。


塩味(しおあじ)が先に来た。海水(かいすい)の塩。冷たい。その後ろから、貝の旨味(うまみ)がじわりと広がる。小さいが、味が濃い。(いそ)の匂いが鼻に抜けた。


「うまいな」


「まずい日もあるんさ。潮が悪いと苦くなる」


タマリが二つ、三つ続けて口に放り込んだ。崖の縁に腰を下ろし、足を投げ出している。石灰岩(せっかいがん)の縁が、陽に温まり始めていた。朝の海風(うみかぜ)が二人の間を吹き抜ける。下から潮の匂いが昇ってきた。


貝を食べ終えた。タマリが入り江を見下ろしたまま、声を落とした。


「……最近、変な音がする」


トウマが振り向いた。


タマリは入り江の東側——崖の向こう側を(あご)で示した。


「夜だ。入り江の方角から。叩く音のような。木を打つような」


「いつ頃からだ」


タマリが遠くを見た。


三月(みつき)か。もう少し前か。……はっきりとは覚えとらん。だが最近、回数が増えた。俺はあんたみたいなよそ者は好かん。それはな、こういう変わったことが嫌いだ、ということなんだ」


タマリは、トウマをまっすぐ見て続けた。


「入り江は一族のものだ。外の者が入れば、外の船が入れば、潮が変わる。潮が変われば魚は逃げる。魚が逃げれば、一族は食えなくなる。——俺はそれが怖いんだ。わかってくれ」


タマリが立ち上がった。網袋を肩に掛け直し、台地の方へ歩き去った。


トウマは入り江を見た。波が岩を洗う音だけが、崖の下から昇ってきていた。魚の姿は、見えなかった。


* * *


トウマは、語り——ランパの続きを聞こうと、マハリの家を訪れた。


家の前に、ナバリが立っている。目の下に(くま)がある。


「マハリ婆は……今日も体の具合がよくないんです」


トウマは頷いた。


高床(たかゆか)の奥からは、根菜汁の匂いが漂ってくる。炉に火は入っているようだ。


「飯は食えてるのか、婆さんは」


ナバリが一拍置いて、答えた。


「……ラトゥが世話をしてくれてます」


「そうか」


トウマは、それだけ返した。


仮住まいへ戻る道。石段(いしだん)を踏む足裏に、午前(ごぜん)の陽が温めた石の熱が伝わってくる。風が止んでいた。台地の上が静かだった。


* * *


島に来て三日目(みっかめ)だ。そろそろトゥパラ族の術や焔石(えんせき)の詳しい事を聞き取るべく、バイロンを探したが姿が見えなかった。オムアンは(いの)りの火に何やら唱えており、こちらを見ようともしない。タマリは昼にまた漁へ出かけてしまった。


トウマとシズリは、結局剣や道具の手入れをして、時を過ごした。


夕方、西の空がゆっくりと色を変え始めた頃、仮住まいの外で声がした。


女の泣き声だった。低い。抑えた声。


トウマは仮住まいを出た。人が走っている。マハリの家の方角へ。


マハリの家の前に、数人が集まっていた。女が二人、入口の前にしゃがんでいる。手で顔を覆い、肩が震えていた。


ナバリが立っていた。褐色(かっしょく)の肌でも、血の気が引いているのがわかる。


「マハリ婆が……」


声が途切れた。(あお)い目が潤んでいた。


「どうした。まさか、死んだのか」


トウマが問うと、ナバリが頷いた。


トウマは家の中に入った。


前の間を通り、中の間に入る。日が傾いており、薄暗い。


炉の火は消えていた。


灰が白い。(まき)の燃え残りが黒く横たわっている。煙もない。手を炉の石にかざした。冷たかった。


初めて訪れた夜に、炉を細火(ほそび)にして根菜汁を煮込んでいたマハリの姿を、トウマは思い返していた。


奥の間へ向かった。


編み布(あみぬの)垂れ幕(たれまく)が、片側だけめくれている。


奥の間に入った。


マハリが寝具(しんぐ)の上に仰向け(あおむけ)に横たわっていた。両手は体の脇に置かれている。穏やかな顔だった。目が閉じている。


深い褐色の肌が、夕の光の中で灰色がかって見えた。


トウマは膝をつき、手を合わせた。


「ありがとう、婆さん。汁はうまかった。ランパ、うまく相槌(あいづち)打てずにすまなかった」


小さな声で、礼を述べた時、マハリの耳の小さな赤い耳飾り(みみかざり)が、かすかに揺れたように見えた。


背後で足音がした。


シズリが奥の間に入ってきた。トウマの後ろで立ち止まる。


木の(うつわ)が一つ、寝床(ねどこ)の横に置かれている。汁が入っていた(あと)が残っている。器の縁には、ほんのり赤い筋が乾いて、木目に入り込んでいた。


シズリの目は、そこに止まったまま動かなかった。


* * *


マハリの家の前に、続々と人が集まってきた。肌は濃淡はあるが一様に褐色で、目は碧色(あおいろ)も茶色も半々くらいだった。マハリの語りが思い出される。


夕の風が吹いている。祈りの火の煙が西に流れていた。焔石の焦げた匂いが、風に乗って広場を渡る。


オムアンが祭壇(さいだん)の方角から歩いてきた。足取りが重い。だが背筋は伸びている。


マハリの家の入口に立ち、中を見た。


奥の間まで行って戻ると、高床の段の途中に立ち、集まった人々に向かった。


長い沈黙(ちんもく)。その後、口を開いた。


「マハリは穏やかに旅立った」


声は低く、太い。


「長い語りの旅を終え、祖霊(それい)の元へ帰った。悲しむことはない。マハリはト・マクラとして、まだ(わし)らの傍にいる」


女たちが泣いていた。声を抑えて。男たちにも泣くものがあった。


オムアンがラトゥを呼んだ。


「ラトゥ。お前の仕事だ」


群衆の中から、ラトゥが進み出た。黒い耳飾り。碧い目が伏せられている。


「……わかった」


ラトゥが、マハリの家に入っていった。


* * *


夜が深い。月は細い。


台地が暗かった。聖火(せいか)の赤い光だけが、広場の石を照らしている。風が湿っている。南南西(なんなんせい)から吹く風が、崖面(がけめん)を撫でて台地に上がってきていた。


トウマは仮住まいの前の間で横になっていた。眠りは浅い。海からの波音(なみおと)が遠く続いている。板の間の硬さが、背中に食い込んでいた。


声が聞こえた。


最初は風の音だと思った。崖面を渡る風が鳴る音。だが風とは違う。低い。太い。人の声に似ている。


体を起こした。


シズリも目を開けていた。壁に背を預けたまま、耳を澄ませている。


声は続いている。断続的(だんぞくてき)に。低い(うな)りのような声が、台地の上に漂っている。方角がはっきりしない。崖の方からのようでもあり、密林(みつりん)の方からのようでもあった。


仮住まいの外で、人の気配(けはい)が動き始めた。足音。小走り。


「聞こえるかぁ」


男の声だった。


「聞こえるさぁ。死者(ししゃ)の声だ」


女の声。低い。怯えていた。


トウマは仮住まいを出た。シズリが続く。


台地の南縁付近に人が集まっていた。十人ほど。皆、崖の方角を向いて立っている。夜風が肌を撫でる。冷たい。


声はまだ聞こえている。低い。波のように寄せては引く。言葉のようでもあり、唸りのようでもある。


年配(ねんぱい)の女が両手を胸の前で組んでいた。唇が動いている。


若い男が隣の男に聞いた。


「あれは何だ」


「祖霊だ。死んだ者の声だ」


女が叫んだ。


「マハリ婆なんさ。マハリ婆の(たましい)が、まだ去っていない」


* * *


祈りの火の前にオムアンが現れた。


ほの赤い光が、老人の横顔を染めている。(あお)い右目と茶色い左目が、炎を受けて別々の色に沈んでいた。


沈黙が長い。一族が息を潜めている。


「祖霊の声だ」


声は低く、太かった。


「マハリの魂が我々に告げている。外の者への警告(けいこく)だ。ドガがいる限り、祖霊の怒りは収まらぬ」


トウマの方を見ない。視線は火に注がれたまま。だが皆の目がトウマに集まった。


オムアンが祈りの言葉を唱え始めた。意味は取れない。波のような抑揚(よくよう)だった。


トウマは動かなかったが、組んでいた腕を下ろした。


シズリがトウマの半歩後ろに立っている。視線はオムアンにある。膝の上の手を見ていた。


やがてオムアンの声がやみ、人々は散り始めた。だが眠れない者たちが広場に残っている。


声が飛び交う。


「『もう来るな』と言っていたさぁ」


中年の女性だった。


「『帰れ、帰れ』だった」


若い男が言った。


「言葉じゃなかったさぁ。泣いていたんさ」


年寄りが首を振った。


「男の声だった。マハリ婆じゃない。低くて太い祖霊の声だ」


漁師(りょうし)の一人がそう言い切った。


言っていることはばらばらだった。だが「もう来るな」という解釈(かいしゃく)に、徐々に揃っていく。


シズリがトウマの横で、低い声を出した。


「誰かが誘導(ゆうどう)しています」


「風の音を、来るなと解釈したのかもしれん」


シズリが首を振った。


「そもそも、この島には耳が悪い人が多いです。本当に音を聞いたのかすら(さだ)かではありません」


トウマは、驚いてシズリを見た。シズリが続ける。


「近くで小声(こごえ)で話したり、遠くから呼びかけたときに、聞こえている様子がうかがえないことがしばしばあります」


そんなことは、と言いかけて、トウマはナバリや棟梁(とうりょう)パヌル、漁師タマリにそんなことがあったのを思い出していた。


人はさらに減った。広場に残っているのは、数人だけだった。


台地の東の空が、わずかに白み始めている。日の出前の冷気(れいき)が石の上を流れていた。


トウマは広場の端に座っていた。石が冷たい。肌を刺す空気。


一人の男が近づいてきた。


片方の耳に大きな焔石の耳飾り、もう片方の耳たぶは避けている。以前、少しだけ会話を交わした年寄りだった。


「あんたは、ドガに見えんな」


男が言った。


「みんなは『もう来るな』と聞いたと言っとるさ。俺は……違う」


トウマは、身を乗り出した。男は続けた。


「俺には、はっきり聞こえた。——いや、聞こえたというのはおかしいさぁ。耳が遠いとよく言われるんさ」


間。


「体で感じた、と言ったほうが近いさぁ。ここに」


胸を手で叩いた。


「低い声が二つ。男の声。入り江のほうから」


「言葉はわかったか」


男が首を振った。


「知らない言葉さぁ。この島の言葉じゃない。——知らない言葉」


トウマの目が細くなった。


男が続けた。


「みんなは怖がって、祖霊だ祖霊だと騒いどるさぁ。だがな、祖霊がこの島の言葉を忘れるはずがないだろう。死んだ者は、生きていたときの言葉で話すもんさ」


自分の耳を指で叩いた。大きな焔石の耳飾りが揺れる。


「耳が遠いと、余計なものが聞こえない。余計なものが聞こえないから、残ったものがはっきりするんさ。でも、俺が何を聞いても、誰も信じないがね」


男はそれだけ言うと、去っていった。


トウマとシズリは、入り江のほうに目を向けた。


ただ、波の音がしていた。


* * *


台地に、陽が昇りきっていた。


遠く、マハリの家の方角から、人の動く気配が続いていた。


トウマはマハリの家の、前の間に座っていた。バイロンの仲介(ちゅうかい)で、オムアンが渋りながら容認(ようにん)した。前の間までなら——そう条件がついた。


中の間の幕は開けられ、奥の間との間に、編み布の垂れ幕がある。


垂れ幕の向こうで、作業が進んでいた。


まず、()の匂いが来た。


鋭い。鼻の奥を刺す。続いて、茶葉(ちゃば)煮出し(にだし)た匂い。湿って、深い。樹脂(じゅし)の匂いが、その奥から立ってくる。重く、甘い。


三つの匂いが、混じり合う。生臭(なまぐさ)さは、まだない。死後(しご)が、浅い。


布を裂く音。液体を塗る音。ぬるり、と。湿った音。それから、拭う音。


呼吸が二つ聞こえる。


低い呼吸。ラトゥのものだろう。もう一つは、細い息。老女(ろうじょ)のものらしかった。手伝いが一人いる。


トウマは編み布の隙間から、奥の間を見た。


ラトゥの背中が見えた。


指が、死者の肌の上を滑っていた。


老女が、布を持ち替えた。


ラトゥが、低く何か言っている。老女が何か答え、布を受け取る。


布を裂く音が、また一つした。


トウマは編み布の隙間から、ラトゥの手を見ていた。


指先が、薬液(やくえき)の入った小さな椀の縁を、撫でた。


一度。


二度。


椀を取り、また寝床に戻った。


匂いが、三層で立ち上っている。酢。茶葉。樹脂。


トウマは目を、垂れ幕から外した。


板の間を見る。木目に、(ほこり)が薄く積もっている。前の間の隅、小さな(ざる)に、乾いた葉が数束積まれていた。


* * *


夕刻。


西の空が、色を変え始めていた。


トウマはマハリの家を弔問(ちょうもん)に訪れた。


中の間に、火が入っていた。


炉の上の三叉(さんさ)鉄脚(てつきゃく)に、土鍋(どなべ)。根菜汁の匂い。マハリのものと、同じだ。


女が炉の前に座っていた。白髪(しらが)混じり。木の杓子(しゃくし)で鍋を()いている。


「マハリ婆は一晩煮込むのが好きだったからさぁ」


女が、トウマを見ずに言った。


杓子を動かす手が、ゆっくり。鍋の底を撫でるように。


女がトウマに、小さな椀を差し出した。


湯気(ゆげ)が細く立っている。トウマは両手で受け取った。椀の木肌(きはだ)が、温かい。


口に運んだ。


(あま)みがある。根菜の。芋の。海の出汁(だし)の、わずかな塩気。


うまい。


だが、違う。


素材(そざい)は同じ。手順も、たぶん同じ。


——違う。


トウマは椀を両手で持ったまま、口を離した。


マハリの汁は、もう二度と飲めない。


トウマは椀を、両手で持ったまま、黙って飲み終えた。


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