第三章 崖上の隠れ里
石が、温かい。
靴底を通して、陽の温みが足裏に届く。一段目。二段目。三段目で、温みが消えた。崖の陰に入ったのだ。石が冷たい。意外なほど涼しかった。
石灰岩の石段。幅は人ひとりがやっと通れるほど。表面が風化で丸みを帯びている。
断崖だった。手すりもない。崖面に直接刻まれた石段が、蛇行しながら上へ続いている。
トウマは、折り返しまで来てから、下を見た。
入り江の水は遠く、青い。船はもういない。浜の砂利が、波に洗われて白い筋になって見えた。
風が来た。崖の下から吹き上げてくる。潮の匂い。体が石段のほうに押された。登るか、と上を見た。
十段。二十段。また折り返す。
中腹で、石段の幅がさらに狭くなった。岩盤が海側に張り出している。足を置ける幅が、半歩分しかない。崖側の縁は丸く削れ、何か所か小さく欠けている。
トウマは足を止めた。張り出しの先端を見た。その下は、何もない。崖と、空と、海。
「……こいつは落ちたら終わりだな」
声が風に攫われた。
「荷運びは苦労しますね」
シズリの声が後ろから届いた。
振り返らなかった。ようやく崖壁に手をつけるとこに来た。石段の内側だけを踏む。一歩。一歩。
その先は緩やかだった。石段の幅が広がり、傾斜も穏やかになる。歩調が楽になった。
匂いが変わっていた。
潮の匂いが薄れている。代わりに、植物の匂い。湿った緑。
石段の終わりが見えた。崖の縁。その上に空。あと数段。
最後の一段を踏んだ。
風が変わった。崖を吹き上げてきた海風ではない。台地の上を渡る風だった。
木陰の道を進んだ先で、突然視界が、開けた。
* * *
赤い土の上に、船があった。
いや、家だった。
屋根が弧を描いている。竜骨を伏せたような形。棟木が反り上がり、両端が空を向いている。高床式。太い柱が床を支え、地面から腰の高さまで持ち上がっている。
一棟ではない。群れている。十。二十。家と家の間に少しの空地があり、入り口はすべて同じくこちらを向いていた。南だ。どの入り口の脇にも、軽やかな色彩の布がかかっていた。
家の壁面には赤。黒。白。黄。四つの色で、直線と円弧が繰り返している文様が描かれている。
広場が見えた。集落の奥に、家々に囲まれた平坦な空間。その西側に小さな祭壇がある。祭壇の上で、細い煙が立ちのぼっていた。白い。すぐに風に流され、空に溶けていく。
広場の奥の家の後ろから、人の気配がした。と感じた瞬間に、褐色の肌に簡素な衣服をまとった人々があらわれた。
一人の男が近づいてきた。肌は黒に近く濃い。背丈はトウマと同じくらいで、裸足。腰に巻いた布が風にはためいている。
トウマも近づいて、声をかけようとして、絶句した。
男の目が、青かった。
浅い青に、光の加減か薄く緑も交じって見える、碧色とでもいうべき色だった。黒に近い褐色の肌に、その碧だけが浮いている。
もう一人、近づいてきた。女だった。碧い目。こちらは浅い褐色の肌。
その奥にも。台地の縁に立つ何人かの中に、碧い目が幾つもあった。
トウマとシズリは、思わず顔を見合わせた。
* * *
「ドガだ!」
甲高い子どもの声。
大人の後ろにいた子供たちが、こちらを指さしている。
「ドガだ! ドガ!」
大人の手が、子どもの肩を掴んだ。子どもが抗う。
近づいてきた男と女は、足を止めた。
人が集まってくる。距離を取って半円を作り始めていた。
シズリは、トウマに半歩近づき、腰を落とした。
その時、人垣が別れ、奥から一人が現れた。
小柄な老人だった。前髪だけが白髪、それを高く結い上げ、額に赤い石の飾り。
ゆっくりと近づいてくる。
トウマは、その目を見て、さらに驚いた。
右目が碧色。左目は茶色だった。
沈黙。子どもたちは、大人によって家の奥へ手を引かれていた。
「帰れ」
大きく、重い声だった。
「ここにお前たちの用はない」
それだけだった。沈黙が戻る。
トウマは息を吐いて、吸った。腹の底から、声を出す。
「おぉ、そう言わんでくれ。遠いところから来たんだ。まずは話だけでも──」
声が被さった。
「帰れ」
低く、重く。
トウマの口が閉じた。
シズリが一歩、前に出た。
「私どもは──」
「帰れ」
三度目。最初よりも大きな声だった。
半円の人垣は動かず、沈黙が続いた。
* * *
突然、トウマの後ろから笑い声が聞こえた。
太陽を背に、明るい笑い声を挙げながら、これまた深い褐色の肌の五十がらみの男が歩み寄ってくる。
両方とも茶色の、力強い目をしている。ゆるやかな歩みだ。
振り返ったトウマの前で、その男が立ち止まった。少し見上げる。トウマのほうが頭ひとつ高い。
目尻に深い皺が寄った。
「まぁ、遠いところからよく来なすったねぇ。座りなさい、座りなさい」
やわらかい語尾だった。
「ありがたい。さっきの石段で膝が笑いそうだ」
男がまた笑い、その向こう、老人と人垣に声をかけた。
「まぁそうつんけんせんと。せめて一晩は泊めて、話を聞いてやるのが道理だろう」
右目が碧の老人は、何も言葉では応じなかったが、首を振りながら行ってしまった。
広場の端では、他の年寄りたちが低い声で話し始めた。近くにいた者がなんとなく顔を寄せ合い、ぼそぼそと言葉を交わしている。
男がトウマに向き直った。
「バイロンだ。まぁ、ゆっくりしなさい」
トウマは頭を下げた。
「ティルマ国軍の監察官、トウマだ。将軍の命で参った。あなたがたのことを知りたくて」
バイロンが手招きをしながら、ゆっくり歩き出した。トウマとシズリが後に続く。
「あそこが、わたしの住まいだ」
バイロンが指をさした。
シズリの視線は、その横に止まった。
バイロンの家の入り口の脇に、布がかけられていた。黒に近い青で、ずっしりと重量を感じる布だった。明らかに、ここで織られたものではないことが見てとれる。
バイロンが振り向いた。
「ゆっくりしていけばいい。先に集落を見せよう。案内をつける」
* * *
崖から吹き上がる潮風が、集落の奥に入ると柔らかくなる。船型の屋根が風を受け流している。
青年がひとり立っていた。細身で、背がやや低い。深い褐色の肌に、碧い目。猫背で、首が前に出ている。
バイロンが声をかけた。ナバリ、と呼んだ。
気弱そうな青年が、こちらを向いた。
「……あ、はい」
トウマたちに集落を見せろ、と言われ、その青年──ナバリは、少し嫌そうな顔をしたが、歩き出した。
船をひっくり返したような屋根の家が並んでいる。そして、高い床。床下は日陰になり、干し魚や道具が縄で吊されている。子どもが二人、床下で追いかけ合っていた。一人がこちらを見て、奥に隠れた。
トウマは歩きながら、話しかけた。
「全部、入り口の向きが同じなんだな」
ナバリが足を止めた。首を右に傾げる。耳の赤い石の飾りがきらめいた。ティハラの漁師がつけていたものに似ている。
「……今、なんて?」
「全部、入り口の向きが同じなんだな」
「あ、はい。祖先を迎えるためだ、と伝わってます」
それ以上は何も言わない。
集落の細い通りを抜けたところで、一人の男とすれ違った。
耳飾りが違った。赤ではない。黒。
三十がらみ。深い褐色の肌。碧い目。だがトウマたちを見なかった。視線を落としたまま通り過ぎる。
すれ違った瞬間、匂いがした。酸と樹脂が混じった、鼻の奥を刺す匂い。
シズリは振り返った。男の背はもう遠い。
ナバリの声が、少しだけ低くなった。
「ラトゥだ。あれは、タウ・パラ」
「タウ・パラ?」
シズリが聞き返す。
「死者に仕える者です」
それだけだった。ナバリは歩みを速めた。
台地の中ほどを少し西に逸れたところに、泉があった。岩の割れ目から水が湧いている。音は小さい。滲み出すように溢れて、浅い窪みに溜まっている。
子どもたちが泉のそばに座り、筒で水を汲んでいた。トウマたちを見て走り去る。一人だけ残った子が、じっと見て、笑って去った。
ナバリがいつから持っていたものか、筒を差し出した。蓮竹で出来ているようだ。
「おお、俺も同じようなものがあるぞ」
トウマは、そう言いながらも、ナバリの筒を受け取って、水を汲んだ。
水を口に含んだ。冷たく、ほのかに甘みを感じる。
「おぉ、旨い」
ナバリが少しだけ笑った。口の端が動いただけ。
泉のそばを離れたとき、年配の女が通りかかった。腕に編み籠を抱えている。トウマを見上げ、ナバリに何か言った。
ナバリが答えた。「バイロンが、案内しろってさ」
老女がトウマを見た。碧い目が細くなった。
「トゥパラかねぇ、ドガかねぇ」
呟くように言って、去った。
「何のことだ?」
トウマがナバリに尋ねた。
ナバリが首を右に傾げた。
「もう案内はいいでしょう?あとで、バイロンを訪ねてください」
ナバリはそういい置くと、森へ去っていった。
シズリは、ティハラでこの部族をトゥパラ族と呼んでいたことと、さっき子どもにドガと言われたことを思い返していた。
* * *
トウマとシズリは、集落の端の方へ足を向けた。
台地の縁に近づくと、風が変わった。崖の下から吹き上がる潮風が戻ってきた。
木を削る音が聞こえた。しゅ、しゅ、しゅ。鉋が木肌を撫でる音。
崖の縁から百歩ほど西に寄ったところに、屋根のない作業場があった。石を積んだ低い壁が三方を囲い、南が開いている。海が見える。
男が一人、大きな木材に向かっていた。
五十がらみ。肩幅が広い。深い褐色の腕が鉋を握っている。竜骨になる木だろう。削り出された面が白く、木の匂いが潮風に混じっていた。
近づいても手を止めなかった。目だけを一瞬こちらに向け、すぐに手元に戻した。
しゅ。
しゅ。
薄い削り屑が丸まり、足元に落ちた。
「見事だな」
トウマが声をかける。
答えない。
しゅ。しゅ。
「さっき、ガキに『ドガ』って言われたんだが。ありゃ何だ?」
鉋が止まらない。だが、男が口を開いた。
「ドガってのは、外から来る悪いもんだ。嵐もならず者もドガだ」
「おぉ、嵐と同じ扱いかい。光栄だな」
鉋が止まった。
「笑い事じゃないぞ」
一瞬だけトウマを見た。
すぐに男の目は手元に戻った。しゅ。
鉋が、また動き始めた。
「俺はトウマだ。ドガじゃ、ないぞ」
「どうだかな。……パヌルだ。ここでは棟梁と呼ばれている」
「パヌル、あんたいい腕だ。都で大工でもやりゃあ、あんたのことを皆が欲しがるだろう」
「おだてても、何もないぞ」
「いやいや、まことさ」
トウマが削り屑を拾って透かすと、その向こうに海が見えた。
* * *
集落の端を超え、北東に差しかかると、台地の縁が近い。灰色がかった石灰岩の地面が露出し、光を白く弾いている。
シズリが視線を右に向けた。
人影があった。
女だった。小柄。髪を短く切り、後ろでひとまとめにしている。島の人間ではない。都サトで見慣れた肌の色。装飾は何もなく、体と不釣り合いに大きな手に、小さな手帳。何かを書きつけている。足元に三脚の測量道具。
「誰?」
シズリが、声を上げた。
女がこちらを向いた。武官の制服を見て、近づいてくる。
「ヤジマに雇われた、カヨ」
「ヤジマ?」
「ここと交易してる人」
「そう。ここで何を?」
「何も。島の広さを知りたいんだって」
「それは、焔石と関係があるのか?」
トウマが口をはさんだ。
「さあ?そんなことは言ってなかったと思うけど。じゃあ、仕事に戻るわね」
カヨと名乗った女は、もう口を利く気もないと言わんばかりに、踵を返して行ってしまった。
* * *
日が傾き始めていた。
トウマとシズリは集落に戻った。バイロンが家の前に立って待っていた。
あちこちで炊事の煙が立ちのぼり、根菜を炊く匂いが風に混じった。
バイロンの仲介で、マハリという老女の家に招かれた。
集落の東端。広場に近い。他の家と同じ船型の造りだが、木の色が濃く、使い込まれた家だ。
高床に上がった。バイロンはそこに二人を案内すると、奥へ声をかけてから、まもなく出て行った。
トウマは腰を下ろし、頭上を見上げた。
屋根梁が一本、家の長軸に沿って通っている。一本の大木を彫り出したもの。波と魚の文様が刻まれていた。足元の幅広い葉の敷物に手が触れた。使い込まれて艶が出ている。壁に椰子の葉の籠。天井から吊った編み布の垂れ幕が、間仕切りになっている。
その幕の向こうから、食べ物の匂いがただよう。魚を煮た香りだ。
編み布の垂れ幕が揺れた。
小柄な老女。背中が丸い。足取りはゆっくりで、一歩ごとに床板が軋む。深い褐色の肌。顔に刻まれた皺。
目は、茶色だった。碧眼ではない。
トウマとシズリをじっと見た。顔を。手を。腰の短剣を。
目が、ふと和らいだ。
「遠くから、ようこそ来なすった。温かい汁さぁ」
声はゆっくりだった。そして、柔らかい。
マハリ。一族の最長老で、八十を超えているということだった。
若い女が土鍋を運んできた。木の器に汁がよそわれた。
トウマが一口、すする。
根菜の甘みが舌の上に広がった。根芋。柔らかく煮崩れかけた塊が歯に触れると、ほろりと崩れる。奥から魚の旨味が追いかけてくる。骨ごと煮込んだ深い出汁。鼻に抜ける清涼は、名前の分からない香草。苦みと爽やかさが同居している。
二口目。三口目。体の芯に染みてくる。
「うまい。……うまいな、これは」
マハリが微かに笑った。頬の皺が深くなった。
「汁は一晩寝かせると、根菜が自分の味を出すんよぉ」
シズリは、冷ましながらゆっくりと口をつけていた。
マハリが椀を手に、トウマを見た。
「さて、何か話が合ってきたんさぁ?」
「いや、ばあさんじゃ……。ええっと、ばあさんは、ここの長老かい?」
「長いこと生きたねぇ」
「村長はいるのか?」
「ここのことは、年寄りの寄り合いで決めるのさぁ。誰が、というのはないねぇ」
「とはいえ、中心になるものがいるだろう」
「オムアンと、バイロンと、タマリかね」
シズリは、ここに来る時に、バイロンからも同じ名前が出たことを思い返した。オムアンは、はじめに帰れと言った老人で祈り手らしい。タマリは、漁の名人だそうだ。
「じゃあ、ばあさんは、俺に言葉を教えてくれ。ドガってのは、外からくる悪いものだそうだが」
「そうだよう」
「トゥパラってのは?」
「人さぁ」
「それは、良い人のことか?」
「人に良いも悪いもないさ。人はねぇ、悪いことをしながら良いことをして、その反対もするもんさぁ。あんたも、ほれ、覚えがあるんさぁ」
トウマが、二の句を告げないでいると、シズリが後を引き取った。
「あの、タウ・パラとはなんでしょう?ラトゥという人がそう呼ばれていたのですが」
「ラトゥの父は、腕のいいタウ・パラだったねぇ」
声の調子が少し変わった。低くなった。
「亡くなった者の体を清めて、薬を塗り、骨の位置を正す、大事な仕事だよぉ。いつからか、手が動かなくなってねぇ」
声が一瞬止まった。椀を口元に寄せたまま、目を閉じた。
「……可哀想に、あの子は小さかったのに、父の分まで背負ったのだよぉ」
トウマは椀の汁を見下ろした。根菜の欠片が底に沈んでいた。
炉の火が奥で赤く揺れている。垂れ幕の隙間から、その光が前の間の床を薄く染めていた。
* * *
夜が来た。
宿は、広場から少し離れた空き家をあてがわれた。同じく高床で、屋根は船をひっくり返したような形だ。
家の構造を見ると、三つの間に幕で仕切られている。先ほどのマハリの家も同様だったのだろう、中の間に炉がある。
台地が静かだった。オムアンが絶やさないという、祈りの火の明かりが、外で小さな光となって揺れているのが見えた。
風が吹き、屋根がきしんだ。
トウマは炉に薪をくべた。火が細く立ち上がる。
シズリが炉の向こうに腰を下ろした。
「隊長、不思議な人々ですね」
「そうだな。かつて王に仕えたにしては、ティルマ国の他の場所とつながりがあるように見えん。この人数に、装備の様子じゃあ、部族としての戦闘能力はないだろうな」
「いえ、あの碧い目や、風習のことです」
「確かに、それもそうだ。だが、あれに囲まれていると、当たり前すぎて、逆に俺がおかしいのかと思うほどだ」
「隊長の目は、しっかり黒いですからね」
「気にしたことは無いぞ」
「入り江から見上げた時に見えた青い光は、きっと目だったんです」
「カヨという、ティルマ国の女、ありゃなんだ」
「明日確認しましょう。靴底に、ここまで見かけなかった赤い土が付いていました」
「港町までにあったろう」
「それとも違う色のような……」
「あとは何だ。死者を操る術か。それらしい話はあったな」
「タウ・パラですね。聞く限りは、ただの鎮魂儀礼か葬儀にも思えます」
「やれやれ、友好関係を築けったってな。あの見た目にこの風習じゃあ、都に連れてっても、変な奴らだと言われて、しばらく見世物だぜ」
それきり、二人は黙った。炉の火が細くなっていく。熾火だけが呼吸するように明滅した。
波の音が、遠くから届いていた。
二人は、中の間の炉をそのままに、前の間と奥の間に別れ、眠りについた。
* * *
島に来て二日目。
東の空の雲の隙間から差し込んだ光が、地面を赤銅色に染めている。
トウマは仮住まいの入口に立った。南から乾いた風が吹いている。頬がひやりとした。
台地の南縁に、人影があった。
大柄な体躯が、朝焼けの中で影になっている。背中をこちらに向け、東の水平線を見ていた。
「おぉ、そこのあんた、ずいぶん朝が早いな」
トウマは、近づきながら声をかけた。
「おい、おいってば。あんた、タマリじゃないか?朝の早い、体が大きい漁の名人だと聞いたが」
男はようやくこちらを振り向くと、そうだ、と頷いた。
「漁に出る」
それだけ言うと、南の崖道の方角へ歩き出した。
タマリが去ると、今度は広場から、地を這うような低い声が続いてきた。
トウマがそちらへ向かうと、オムアンが祭壇の前に座り、祈りを捧げていた。腰袋から何か取り出して、それを祈りの火の炉に置いた。炎が一瞬、橙色に明るくなった。煙が立つ。海の方角に流れていく。
オムアンは煙の行方を見ていた。
集落が目を覚ましていく。女が戸口で髪を梳いている。男が網を引き出している。子どもたちが蓮竹の筒を抱えて走っていった。水汲みだろう。笑い声。
各戸の炉に火が入った。前夜の汁を温め直す匂い。根菜の甘みと魚の出汁が混じり、朝の風に乗って広がっていく。
* * *
午後の強い日差しが、台地を白く焼いていた。
トウマとシズリは、朝にバイロンを訪ねたが留守だった。皆朝は忙しそうにしており、話を聞くのは午後に回したのだった。
どこからか木を叩く音。ぱん、ぱん、ぱん。女たちが樹皮を木槌で叩いている。繊維がほぐれ、薄く広がっていく。布になる。
ナバリが広場の縁に座っていた。膝の上に腰袋を広げている。中から葉を一枚、取り出した。深い緑色の厚い葉。指先で揉み始めた。
トウマとシズリが近づくと、顔を上げた。また、少し嫌そうな顔を隠さず、首を右に傾げる。
「……あ、どうぞ座ってください」
しぶしぶ、といった様子で、二人に自分の横を指した。
二人とも座った。岩の地面が尻に硬い。
ナバリの指が葉を揉んでいる。指先が緑に染まっていた。爪の間にも染みついている。
「それは何だ?」
トウマが、努めて明るくたずねた。
指が一瞬止まり、すぐに動いた。
「傷薬の材料です。乾かして粉にすると傷に効くんです。マハリ婆から教わってる」
シズリは、ナバリの緑に染まった指先を見ている。
トウマは、腰が痛くなり足を伸ばした。
「マハリ婆さんは、薬師なのか?」
ナバリの手が、一瞬、葉を強く揉んだ。指の関節が白くなるほどの力。すぐに緩んだ。だが葉が潰れて、汁が指の間から滲み出していた。青臭い匂い。
「いろいろ知ってる……だから、薬師で、産婆で、語り部で、頼られてる」
声が硬い。が、すぐに穏やかな顔に戻った。揉んでいた葉は、もう原形を留めていない。
新しい葉を腰袋から取り出した。何事もなかったように揉み始める。
「マハリ婆は物知りなんです。島のことは何でも」
ぱん。ぱん。木槌の音が続いていた。
* * *
「帰ったぞぉ」
太い声。漁師たちが崖道を登ってくる。四人。肩に担いだ竿の両端に、魚を通した縄がぶら下がっている。銀色の鱗が午後の光を弾いた。
先頭はタマリだった。朝の無言が嘘のように、後ろの漁師に声をかけている。
魚が広場に集められた。石の台に並べられていく。腹が白く、背が青い。目がまだ澄んでいる。鰓の裏が鮮やかな赤。
女が魚を掴んだ。腹を裂く。内臓を取り、塩を振る。それを大きな葉で包む。炉で熱した石を三つ、木挟みで運ぶ。
蓮竹の筒。切り口から中を覗くと空洞だ。底に葉を敷き、包んだ魚を入れる。焼けた石を脇に押し込む。蓋。
じゅう、と音がした。蒸気が白く噴き出す。葉の匂い。魚が焼ける匂い。塩と脂が合わさった海の匂い。
別の女が澱粉椰子の粉を練っている。掌で丸める。白い団子が炉の灰の中に埋められた。焦げた匂いが立つ。
蓮竹の筒の蓋が開けられた。蒸気が噴き上がる。
葉を開いた。魚の身が白い。指でほぐすと、ほろりと崩れた。
トウマは手を伸ばした。熱い。構わず掴む。口に運ぶ。
舌の上で崩れた。海の塩気と脂の甘み。葉の香りが追いかけてくる。歯が要らない。
灰の中から団子が掘り出された。外側が焦げて茶色。割ると中は白く、もちりと糸を引いた。味は薄い。汁に浸した。前夜の根菜汁の残り。団子が汁を吸い、根菜の甘みが染み込む。口に入れると、粘る歯応えと旨味が一度に来た。
「酸っぱいけど、食べてみて。この島の味よぉ」
若い女が果実を差し出した。拳より一回り大きい。皮が硬く、黄緑色。
碧い目だった。左右とも碧い。腕に幼い子を抱いている。子どもは右目だけが碧く、左は茶色。母の腕にしがみつきながら、トウマを見ている。
女は、ミナと名乗った。
トウマは、果実を受け取り、両手で力を込めて割る。ぱきり。中は鮮やかな橙色。果汁が指を伝う。
齧った。
顔が歪んだ。酸味が舌を突き刺す。目の奥がきゅっと縮む。
「おぉ、酸っぱい」
ミナが笑った。子どもも母につられて口を開いたが、声は出なかった。
「だがいいな、これ。魚のあとに食うと格別だ」
シズリにも果実が渡された。小さくちぎって口に入れ、目が少しだけ見開かれた。すぐに、周りから見えないよう、口から出した。
* * *
バイロンの家に招かれた。前の間に座る。
壁に沿って一枚。赤と金の糸が交互に走り、花弁を連ねた紋様の布が張られていた。繊維の質は均一で、滑らか。都サトの市でも見かけない、良い品だ。
バイロンが煎じ湯を出した。苦みの中にほのかな甘さ。舌先に清涼が広がり、喉を過ぎると腹の底にじんわり落ちていく。
「この島はね、長いこと閉ざされていたんさぁ」
バイロンの声は明るく滑らかだった。
「私はねぇ、扉を開けるべきだと思っているよぉ」
「ときおり、交易の人が来るんさ。ヤジマという男で、悪い人間ではないさぁ。布や道具を持ってきてくれる……」
トウマは、黙って聞いていた。この男から、関係作りを始めるのが良いかもしれない、と感じていた。
シズリは話に飽いたのか、壁の布をじっと見ている。
バイロンは、ひとしきり話すと立ち上がった。
「マハリ婆に口をきいてやろうねぇ。ランパを聞いておくといい」
「ランパ?」
「語りさぁ。島のことを知りたいなら、聞いたほうがええよ」
* * *
ナバリの案内で、マハリ婆の家を再訪した。
高床を上がって、昨晩のように前の間に、トウマとシズリは腰を下ろす。
ナバリが、奥へ声をかけながら入っていく。
編み布の垂れ幕が揺れた。
マハリが出てきた。足取りが遅い。足を引きずるようにしている。
深い褐色の肌。顔の皺は一層深く、茶色の目はぼんやりとしているようだ。
「ランパを聞きたいと、言ったねぇ」
トウマは頷いた。
「ああ。昔語り、島のこと、あんたたちのことを、聞かせてほしい」
「そうかい、それじゃあ、炉の前へ、おいでね」
マハリは、そういうと、また足を引きずるように、中の間へ戻っていった。
トウマとシズリ、そしてナバリが続き、皆が中の間で炉を囲むようにして座った。
マハリは、少し歩いただけで息切れがしていた。それを見てナバリが、間を埋めるように言った。
「あの……ランパには作法があるんです。語りの合間に『アイ』と返す」
「分かった。やってみる」
マハリの息は落ち着いたようだ。しかし、そこから長い間があった。午後の光の中を埃がゆっくり落ちていく。
マハリの目が閉じた。
声が変わった。
低く、長く、波のように揺れる声。
「はじめに、海があった」
「海が島を吐いた。島は大きな陸になった。上に石が積み上がり山になった。山の中から水が湧いた。水から、最初のトゥパラが生まれた。水のトゥパラは、両目が青かった。そして、死ななかった。いんや、死んでも仕事をしていた。死んでも子をなした。そうして山から木を伐り、たくさんの船を作った」
沈黙。
ナバリが低い声で「アイ」と応じた。
トウマは一拍遅れて口を開いた。
「……アイ」
声が大きかった。
ナバリの肩がすくんだ。
マハリの口元が動いた。笑っている。
「もう少し、静かにねぇ」
再び語りの声に戻る。
「水のトゥパラは生きたものも、死んだものも、船で海を渡った。やがて陸に行き着いた。そこで別のトゥパラに出会った。彼らは目の色が違っていた。水のトゥパラは魚を、陸のトゥパラは鉄を、それぞれ差し出した。彼らはいつしかそこで交わり、一つのトゥパラになった。目は宝石のように、様々な色になった。だが、もう死んだものは子をなせなくなった」
語りは止み、余韻が漂っている。
トウマは低く応じた。今度は声を抑えた。
「……アイ」
「やがて、ドガがきた。トゥパラはそれをドガだと知らなかった。ドガは、死んでも仕事をする秘密を知りたがった。ひとりのトゥパラが、それを教えてしまった。ドガはその秘密を知ると、本性をあらわした。トゥパラは焼かれ、家はなくなった。死んでも仕事をするわざは、失われた」
「……アイ」
「そしてトゥパラは……」
声が途切れた。
咳だった。乾いた短い咳。二つ、三つ、四つ。体が前に揺れる。
ナバリが膝立ちで寄った。
「マハリ婆、無理はいかんさぁ」
「大丈夫だよぉ」
声に力がなかった。
呼吸が荒い。夕方の涼しい時間にもかかわらず、額に汗が浮いていた。
「今日は……ここまでにしようかねぇ」
語りの声は消えていた。八十を超えた老女の、しわがれた声。
トウマは頭を下げた。
「ありがとう。続きは、明日聞かせてくれるか」
「……気が向いたらねぇ」
マハリはそういうと、その場に横になった。
トウマとシズリは、静かに家を出た。
* * *
夕方の広場に火の匂いがあった。祭壇からうすく煙が立ち上り、傍にオムアンが座っていた。何か唱えている。
祈りの火。近くで見ると、赤みが強い。焔石の欠片を燃しているようだ。拳ほどの赤黒い石が三つ、壇の上に載っている。
匂いがした。金属の匂い。かすかだが確かにある。都サトの鍛冶場を通りがかったときの、あの焦げた金属の匂い。トウマは顔をしかめ、そこを離れた。
シズリは、オムアンを見た。碧い右目と茶色い左目が、祈りの火の赤い光を受けている。碧い目の方が、暗い色に見えた。
オムアンが祈りの言葉を止め、シズリを見た。目が合う。
シズリが一礼した。
オムアンはそれを無視して立ち上がり、トウマに声をかけた。
「儂は、お前たちが留まることを良しとしておらん。だが、祖霊に聞いてやろう。ここにきて、何のために来たのかを、火に向かって話せ」
トウマは、ここで敵対するのは得ではないと感じた。おとなしく火の前に座る。
「俺は……古い記録に残る部族と、友好関係を築くために来た。それだけだ」
沈黙。風は止み、遠くで波の音が聞こえるだけだった。
オムアンは、首を振った。
「やはり、お前たちは帰れ」
「こんなことで、良し悪しを決めるのか」
「そうだ」
「なぜ」
「良し悪しは、おまえ自身が知っているからだ」
「なにっ」
トウマは憤った。シズリが慌てて制する。シズリは、話題を変えた。
「あの……カヨ、という女性と北の方で会いました。彼女もこの……儀式を?」
「そうだ」
「彼女は何と?」
「島の測量だ。結果は我々にも共有するそうだ。祖霊は受け入れた。それに従うだけだ。だからあの女はここにいる。お前たちを、儂は歓迎しない」
早くここから去れ、と言い残し、オムアンは家に戻っていった。
* * *
夜。月が出ていた。
広場に焚き火が二つ。三十人ほどが三々五々集まっている。
耳飾りが揺れる。飾りの石は、焔石だった。涙滴型が焚き火の光を拾い、頬に赤い点を落としている。碧い目の者にも、茶色い目の者にも。
トウマは広場の端に腰を下ろした。シズリが、少し離れて隣に座る。
焚き火の向こうで、女が子どもを膝に乗せていた。男が網を繕いながら、女の歌に低い声を重ねている。
トウマが呟いた。
「やれやれ、結局、ただ村にいるだけだな」
一人の年寄りの耳に届いたらしい。片耳に大きな焔石の耳飾り。もう片方は耳たぶが裂けている。
「それでいいさぁ。それにしても、外の人間は耳が寂しいねぇ」
「おぉ、俺も一つ、その耳飾りもらおうかな」
「お前の耳は大きいねぇ。三つは要るさぁ」
近くの二、三人が口元を緩めた。空気がほんの少し、柔らかくなった。
* * *
焚き火のざわめきが背中で遠くなった頃、シズリは崖の縁に立った。
息を呑んだ。
入り江が、光っている。
青白い光。水面が発光している。波が寄せるたびに光の帯が浜に届き、引くと跡が青白く残り、消えていく。
月の光ではない。海の底から来ているようだ。
シズリが立ちすくんでいると、背後で声が上がった。
「祖霊が怒っているさぁ」
「ドガが来たから海が光った」
台地の縁に人が集まり始めていた。
オムアンが現れた。青白い光を見て、急いで祈りの火の前へ向かった。跪く。
若者が三人、トウマを囲んだ。
「海が怒っている。祖霊が怒っている」
「手を出すな!祖霊が裁く」
祈りの火の方から、オムアンの声が飛んだ。
若者たちは止まった。だが視線はトウマに据えたままだ。
やがて、海の光は弱まり始めた。徐々に水面が暗くなり、最後に月だけが残った。
人々がゆっくりと散っていく。足音だけが、石の上を遠ざかった。
* * *
トウマたちが仮住まいに戻ると、入口の脇に木の盆が置かれていた。根菜汁の壺と、何かの団子。壺はまだ温い。
炉に薪をくべた。トウマが汁を椀に移し、一口で飲み干した。団子もぱくりとやる。
シズリも壺に口をつけた。ゆっくりと冷ましながら飲む。甘いが、奥に苦みを感じる。今朝の汁にはなかった、と思った時、トウマが横になるのが見えた。
炉の火が、細くなっていく。
シズリの目が重くなった。瞼が落ちてくる。椀を床に置いた。壁に背を預けた。
トウマの寝息が聞こえる。
熾火だけが明滅した。波の音が、遠くから届いていた。
シズリは、意識を失った。




