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碧色の眼、大鯨の行く島  作者: ささかま


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第二章 海峡の光

道が、赤くなっていた。


都サトを出て四日目。靴の底に(ねば)りつく土の色が、いつの間にか変わっている。灰色の石畳から、乾いた灰褐色(はいかっしょく)の地面に変わり、やがて赤くなった。雨のあとのように湿った赤土(あかつち)が、踏むたびに靴裏にまとわりつく。


トウマは立ち止まって、足元を見た。


「おぉ、すげえ色だな」


靴を持ち上げた。赤土が、ねちゃりと糸を引いた。


シズリが、半歩先で振り返った。その靴にも、同じ赤が貼りついている。


土壌(どじょう)に鉄分が多いのだと思います」


「鉄か。どうりで重い」


トウマは靴を二度、地面に叩きつけた。泥が飛んだ。脚衣(きゃくい)(すそ)に、赤い斑点(はんてん)がついた。


街道の両(わき)の木が、変わっていた。都を出たときは葉が落ちきった枝ばかりだった。半島の付け根あたりから緑が濃くなり始め、いまは幅の広い葉が重なり合って頭の上に蓋をしている。


枝の下に入ると、空気が湿っていた。肌にまとわりつく、生温い湿度。


汗が、首筋を伝った。


「暑いな」


トウマは襟元(えりもと)を引いた。布が首の汗で貼りついていて、剥がすとひやりとした。


シズリは何も言わなかった。だが、こめかみに薄く汗が光っている。


南へ向かうにつれ、すれ違う旅人の数が減った。


都の周辺では、隊商(たいしょう)や行商の馬が絶えず行き交っていた。半島の付け根を過ぎたあたりから、半日歩いて両の手で数えられる程しか、すれ違う者がいなくなった。


道の両脇に木が高い。枝が頭上で交わり、日の光が木漏れ(こもれ)になって落ちてくる。地面は赤土と枯れ葉(かれは)の混じったもので、踏むと、と湿った音がする。


シズリは、歩きながら、よく周りを見ていた。


()(みき)を見る。地面の足跡を見る。音がすると、必ず一度、そちらを見てから、前に戻す。


「お前、よく見てるな」


「……癖です」


「いい癖だ。軍に向いとるぞ。俺はよく(しゃべ)る癖がある、軍としては最悪だな」


シズリが、ほんの少しだけ、口の端を動かした。笑ったのかもしれない。


「学校じゃ、こういう行軍は」


「四回ありました。もっと武器や糧秣(りょうまつ)を背負ってです。これは散歩ですね」


「生意気だな。俺の頃は行軍は六回だったぞ。減ったんだな」


「座学が増えたと聞いています」


「座学ねえ。俺はそういったのが、苦手でな。試験はまぁ嫌いじゃなかったが、教官の話を聞き続けるのが、ちょっとな」


「トウマ隊長は、成績は」


「うん? さて……忘れたよ」


シズリが、ちらりとこちらを見て、また前を向いた。


赤土の道を、二つの足音が踏んでいく。トウマの足音は大きい。シズリのは、ほとんど聞こえない。


木漏れ日が、二人の肩にまだらを落としていた。


* * *


「こっちだ。南に抜ける近道がある」


昼過ぎ、トウマたちは街道から外れた。それからは、ついに誰ともすれ違うことがなくなった。


「まずは、南端の港町を目指す。尾根(おね)をこの道で越えれば、半日は縮まる。しんどいか、新入り」


シズリです、と一言だけ答え、それからは黙ってついてきた。


道が狭い。並んでは歩けない。トウマが前、シズリが後ろ。トウマの足が枝を踏むたびに、ぱきり、と乾いた音がした。シズリが見ていると、どうやらトウマは、道に枝があれば出来るだけ踏んで通っている。どおりでやけに音がするわけだ。


尾根の手前で、道が少し開けた。小さな谷の底に、(さわ)が流れている。水音が近い。石の上を滑る水の音。


前方の沢沿いに、人影があった。


荷馬(にうま)が三頭。商人らしい男と護衛(ごえい)が一人ずつ、荷は布で上が覆われている四角い木箱が、馬の背に二つずつ。それぞれに同じ商会(しょうかい)文様(もんよう)が刻まれている。


焔石えんせきだろう。将軍が言っていた話と合致する、トウマは足を止めた。


商人らしい方は沢の水を汲んでいた。護衛が腰の剣に手を置いてこちらを見ている。


トウマは手を上げ、声をかけた。


「おぉ、ご苦労さん」


商人の方が顔を上げた。四十前後の男だった。日焼けした顔に警戒の色が浮いた。それが、トウマの武官の制服を認めて、少し和らいだ。


「へ、へい、ティハラから焔石を運ぶ途中なんで」


「南端の港町だな。焔石が出るとは知らなかった」


「いや、最近入ってくるようになったんで。あっしはタガネ商会にやとわれて荷運びを。早道しようとこっちの道へ入ったが、荷を積んでちゃあ、この道はきつかった。尾根では追いはぎ(おいはぎ)みてぇな(やつ)が一人出て、追っ払った(おっぱらった)んですが、これじゃあ街道行ったほうが良かったと悔やんでたところなんで。ああ」


運び屋の声に、疲労(ひろう)が滲んでいた。


そのとき、シズリが


「隊長!」


と叫んだ。同時に音がした。


木の枝が折れる音。一つではない。複数。尾根の上の木立の中からだ。


トウマの手が、腰の短剣(たんけん)の柄に触れたかと思うと、もう抜いていた。


護衛が振り向いた。遅い。腕が悪いな、とトウマは舌打ちをした。


木立の奥から、(ぞく)が出てきた。


六人。木の間から次々に姿を現す。粗末(そまつ)革鎧(かわよろい)に、手には棒や剣鉈(けんなた)。先頭の男が山刀(やまがたな)を握っていた。刃が()びている。


運び屋は馬に(くく)り付けていた棍棒(こんぼう)を取った。護衛はようやく剣を抜いたが、どうみてもなまくらだ。


先頭の男──頭目(とうもく)おぼしき男が、運び屋をみた。


「馬と荷だけ置いていけ。怪我(けが)はさせん」


トウマは、一歩前に出た。


「おいおい。物騒(ぶっそう)だな」


声は、いつもの声だった。だが足元が変わっていた。腰を落とし、かかとが浮いている。


賊の頭目は、トウマの着ている制服と、手にした幅広の短剣を見て警戒を強めた。


「武官が一人か」


「二人だ」


トウマは、短剣はゆらゆらと切っ先を細かく動かしながら、顎をシズリの方に向け、続けた。


「お前さんがた、わざわざ尾根で荷の確認までしたのにな。運が悪かっただけだ。ここは引いてくれ」


男は笑わなかった。背後の五人に合図をした。


「やれ!」


動いた。


三人が運び屋と護衛のほうへ散り、二人がトウマに向かってきた。一人は棒を振りかぶり、もう一人は剣鉈を突き出して突進してくる。頭目の男は山刀を構えて動かない。


棒が振り下ろされた。


トウマは左に半歩、体を(かわ)した。棒が赤土を叩いた。どす、と重い音。地面に棒がめり込んだ。


棒の男が力任せに横殴りしようとしてきた、その刹那せつな


トウマの右手が動いた。短剣の(みね)で、素早く棒を叩く。乾いた衝撃が棒を伝い、男の手が弾かれた。棒が落ちると同時に、左の拳が、男の脇腹(わきばら)に食い込んだ。男は、げぇ、と一言うめくと、腹を抱えて崩れ落ちる。


ぎゅ、と靴底が赤土を噛む音。トウマの体が沈み、剣鉈がその上をかすめる。トウマは回りながら短剣のつかを、剣鉈の男の顎に命中させると、左足で得物を持つ手を蹴り上げた。剣鉈は宙を舞い、にぶい音とともに道の向こうへ落ちた。


顎を砕かれた男は昏倒(こんとう)している。


山刀をもった頭目にちらりと目をやると、やられた仲間を助けるか、荷を狙うか、はたまた逃げようかと、逡巡(しゅんじゅん)している様子がうかがえる。


トウマは、迷わず運び屋の方へ疾走はしった。


運び屋と護衛は、三人に囲まれている。そこに、シズリが近づいていた。


賊の一人が、シズリに向き直った。棍棒と小さな(たて)を手にしている。


シズリの手には、細身の剣があった。軍の支給品(しきゅうひん)だ。


男が棍棒を横に振った。シズリが後ろに下がる。教科書(きょうかしょ)通りの半身になり、剣を前に構えている。


と、男が盾を投げつけた。シズリが驚いて剣を振るうと、金属が噛み合う高い音とともに、シズリの膝が沈んだ。男が振りかぶった棍棒が、続けざまに襲い掛かる。辛くもこれを後ろに飛びすさって避けたが、シズリの息が荒くなり、剣を構えながらさらにじりじりと後退(こうたい)を続けた。


駆けながらトウマが舌打ちをすると、二人の賊もトウマに向かってきた。両方とも(なた)を持っている。


先の男が外側から鉈を振る動作に入った。横薙(よこな)ぎ。


トウマは、駆ける速度をさらに増し、鉈が振られるより速く、腕の内側に入って、当身(あてみ)をくらわせた。男は鉄の塊に衝突したかのように、後ろへ跳ね飛ばされていった。


後ろの男は、飛ばされた男を慌てて避けた。その時には、もうトウマが目の前にいた。


トウマは両手で男の右腕を取った。(ひじ)を押さえ、手首を返す。腕がこれ以上曲がらないところまで押さえ込まれ、男の指が開いた。くぐもった声。鉈が落ちる。ずん、と土の音がした。


そのまま腕をねじり、男を地面に押さえつける。トウマの膝が、男の首の後ろにのり、体重がかかった。男の顔が泥に押しつけられ、(うめ)き声が漏れている。


トウマは一瞬で腰から(なわ)を取ると、男の手首を腰の後ろで合わせ、早業(はやわざ)で縛り上げた。


その時、シズリのいた方で、ぐぅ、と声がした。


トウマがそちらを見ると、シズリが棍棒の男の足を刺し、動きを止めていた。棍棒はとうに手から離れている。


男は数か所から血を流し、戦意(せんい)が消えていた。


「やれやれ」


トウマは息を吐いた。立ち上がって、あたりを見回した。頭目は、足跡だけがそこにあった。とうに逃げ去っている。


残された五人の男たちが、赤土の上でうめいていた。


* * *


トウマは、倒れていた五人をまとめて縛り終えると、シズリに目をやった。


肩が上下している。呼吸が、まだ荒い。剣を握る手が白く、色の薄い茶色の目は正面を向いたままだ。(まばた)きも少ない。


四日目の新入りの、最初の血だった。今の学校の組み手では、刃は止めるか木剣を使い、血を見ることは無いのだろう。


トウマは一歩、シズリの前に出た。視界を塞ぐように。


そして、護衛のほうを向いた。


「おい、お前さん、この先を抜けた街道沿いに、軍宿(ぐんしゅく)がある。知ってるか」


「は、はい。通ったことがあります」


護衛が、細い声で答えた。


「今朝まで俺が泊まっていた宿だ。そこに走って、応援を寄越(よこ)すよう伝えてくれ。監察官(かんさつかん)トウマの名で頼む」


護衛の目が、一瞬、トウマの制服を凝視(ぎょうし)した。


「もうひとつ。この細道を通る、港町から都サトまでの警備を増やすよう伝えろ。荷が増えるなら、賊も増えるだろう」


トウマは一呼吸置くと、運び屋を向いて、さらに続けた。


「俺は部下とこいつらを見張ってる。あんたも応援がここに来てから動くんだな。安全に荷を運びたいなら、従った方がいい」


運び屋が頷くのを見て、護衛はトウマたちが先ほど来た道を走り出した。木の間に姿が消えていく。


運び屋が、荷を確認してからトウマに礼を述べた、


「助かりやした。あの、軍のえらい方のようで……。すげぇ立ち回りだった」


「おぉ、急で驚いたぞ。あとな、俺はえらくない。将軍の……いや、軍の、雑用係(ざつようがかり)さ」


トウマは笑った。


運び屋は笑わずに、深く頭を下げた。


* * *


沢の水が、石の上を滑る音。鳥が一声、高く()いた。


トウマは沢に(かが)んだ。手を水に浸す。赤い泥が溶けて、流れていく。水が冷たい。指の間の泥が、なかなか落ちない。(つめ)の中にまで入り込んでいた。


手を振って水を切った。膝の泥を手で払う。落ちない。


「まあいいか」


立ち上がった。


シズリは、沢の少し上流にいた。剣を拭いている。布で刃を丁寧に(ぬぐ)い、血が布に赤く滲む。


手の震えは止まっていた。だが、布を刃に押しつける力が強い。指の関節が、白く浮いている。


「いい()きだった」


シズリの手が、止まった。


「だが、実戦であまり使うな。突いた後に他の相手がいた場合には、すぐ動かせず厄介(やっかい)だ。更に、突けば刃が折れることもある」


シズリは剣を(さや)に納めた。布を畳む。


「学校の組み手とは、違いました」


「そうだな。当たり前だ」


トウマは軍宿でもらっていた蓮竹サラケ製の水筒を取って、シズリに差し出した。


シズリは受け取り、ひと口飲んだ。水筒を返す。そのとき手が触れた。シズリの指先が、冷たかった。


「棍棒を受け切れなかった時に、下がって立て直した。あれがいい」


シズリは前を見ていた。沢の水面みなもが光を弾いて、白く揺れている。


「隊長は、私のことを見る余裕(よゆう)があったんですね」


「慣れだ。次は、お前ももう少し楽にやれる。体が覚えるからな」


トウマは歩き出した。足音が、いつもの大きな音に戻っている。


シズリが、慌てて遅れて、付いてきた。


* * *


日が傾き始めた頃、護衛が兵を四人連れて戻ってきた。


ずっと駆けて来たようだ。(ひたい)に汗の筋が光っていた。


トウマは縛っていた五人を引き渡した。途中尋問(じんもん)もしたが、食いつめたならず者にすぎないらしい。兵たちが縄を解き、新しい縄で(つな)ぎ直す。五人はもう暴れる気力もなく、うつむいたまま列に並ばされた。


「頭目は逃がしちまった。街道と、この道の巡回(じゅんかい)を増やすよう、宿長(やどおさ)にも伝えたか」


兵の一人が答えた。

「はい、伝えてあります。明日から巡回を二回に増やし、都にも連絡を入れます。それと、トウマ監察官、これは宿長からの差し入れです」


兵は、二人には多すぎるくらいの食料と飲み水、綿(わた)の入った布をよこした。


「ずいぶん気が利くな。まるで俺に戻ってほしくないかのようだ」


トウマは嫌味なく明るい声でそう言うと、さっそく(じゅく)した南水桃スルジュに手を伸ばした。


五人の男たちが、兵に連れられていく。


運び屋も、護衛とともに馬を引いて去った。(ひづめ)が赤土を踏む音が、しばらく聞こえていた。やがてそれも消える。


沢の水音だけが残った。


木立の隙間から差し込む光が、赤みを帯びている。木の幹の片側だけが、淡く(だいだい)に染まっていた。


トウマは空を見上げた。


「この先は、まだ半日はかかる。これだけのものを持って、尾根を越えるのは億劫おっくうだ。今日はここで野営(やえい)だな」


シズリが頷いた。ほっと息をついたようだ。やはり、疲れているのだろう。


沢沿いの、少し開けた場所に荷を下ろした。沢から数歩離れた平らな地面。木の根が露出(ろしゅつ)しているが、寝られないほどではない。


シズリが、何も言わずに枯れ枝(かれえだ)を集め始めた。細い指が、地面の枝を選んでいく。手で折る。乾いたものは、ぱき、と軽い音がする。湿ったものは音がしない。確かめてから拾っている。


トウマは火打(ひう)ち石を取り出した。乾いた枯れ葉を丸め、細い枝を組んだ上に置く。石を打つ。二度、三度。火花が散り、葉に移った。息を吹く。白い煙が立ち、細い(ほのお)が枝を舐め始めた。


シズリが集めてきた枝を、炎の脇に積んだ。


火が育った。


()き火の炎が、赤土を橙に染める。沢の水音は変わらない。虫の声が、暗くなるにつれて増えていく。木の間から、湿った夜の空気が降りてきた。


トウマは兵の置いていった食糧袋(しょくりょうぶくろ)から、明るい色の野菜、燻製肉(くんせいにく)干し魚(ほしうお)白焼き(しらやき)麺餅バムを出した。


「食え。明日は尾根を越えて港町まで下る。途中には何もないぞ」


シズリは干し魚を小さくちぎって口に入れた。顎が動くたびに、こめかみの筋が動く。


トウマも食べ始めた。魚はあぶった方がうまいぞ、と焚き火にかざす。


焚き火が、ぱちりと鳴った。火の粉が一つ、闇に舞い上がって消えた。


しばらく、音だけの時間が続いた。火の()ぜる音。水の音。虫の声。風はない。煙がまっすぐ昇っていく。


「この辺りの木は、都と違いますね」


シズリが、ぽつりと言った。


「ん?」


「葉が厚く、落ちない木ばかりです」


「暖かいところの木だ。北の方じゃ今頃は枝ばかりだろう」


「枯れた枝は、火がつきやすいです。こっちのは、ちょっと水が多いですね」


「まあな。そのかわり、あっちは冬の夜が長い。結局長く火を起こすんで枝が入り用だ、と。世の中うまく出来てるもんだ」


トウマが乾いた枝を選んで、火にくべた。炎が揺れる。もう日は落ち、二人の影が赤土の上で伸びた。


シズリの目は焚き火を見ている。昼間より、ほんの少しだけ、言葉数が多かった。


トウマの声は小さくなっていた。


火が小さくなった。


トウマが新しい枝をくべようとしたとき、シズリが言った。


「先に起きています」


「番か」


「はい」


トウマは、少しだけシズリを見た。目の疲れはある。だが声はしっかりしている。


「じゃあ頼む。あの青い星が、この木の先まできたら」


と、トウマは焚き火の明かりがわずかに届く、一際ひときわ背の高い木を指した。


「俺を起こしてくれ。交代だ。もしそれより前にな、眠くなった時は、それでもいい。起こすんだぞ」


あっさりと言って、背嚢(はいのう)を枕に横になった。綿の入った布は、土に汚れるのも構わずに下に敷いた。


横になったまま、焚き火のほうを見た。シズリが傍に座っている。膝を抱え、炎を見ていた。橙の光が、小さな横顔を照らしている。


目が闇に慣れないから、あまり火を見るなよ、と声をかけ、トウマは目を閉じた。


沢の音が、絶えず聞こえていた。


火の爆ぜる音を聞きながら、眠りに落ちた。


* * *


(しお)の匂いが、先に届いた。


都を出て五日目。木立が途切れ、(がけ)の縁に出た。


眼下に、海があった。


青い。


トウマは立ち止まった。風が、正面から吹きつけてくる。湿った、塩気のある風。髪が額に貼りつき、目が細くなった。


水平線(すいへいせん)が、空と海の境を溶かしている。空の青と海の青が、ほとんど同じ色だった。


「おぉ……」


声が出た。それ以上の言葉は出なかった。


崖の下に、街が見えた。白い壁。青い屋根。港に小舟が並んでいる。波止場(はとば)(くい)干し網(ほしあみ)がかけてあり、風にはためいている。


シズリが、隣に立った。風が、髪の端を(さら)った。


「港町です」


「見ればわかる。いいところだな」


トウマは深く息を吸い込んだ。潮。干した魚。それから、何か甘い匂い。果物のような。都では()いだことのないものだった。


崖の道を下った。石の段が、海風で削られて丸くなっている。足裏に丸い石の感触。手すりはない。踏むたびに、ざり、と砂粒(すなつぶ)が鳴った。


下りるにつれ、音が近づいてくる。人の声。荷車の軋み。波が岸壁に当たる、低い、繰り返す音。


港町の入り口に、果物を並べた屋台(やたい)があった。見たことのない実が、(かご)いっぱいに積まれている。緑色の皮。割れた実の断面に、(むらさき)の果肉が覗く。甘い匂いの正体は、これだった。


トウマは一つ手に取った。(てのひら)に収まる大きさ。皮がざらりと指に触れる。


「いくらだ」


売り子が、指を一本立てた。銅貨(どうか)一枚。トウマは払い、皮を剥いた。果汁が指を伝い、手首に垂れた。


(かじ)った。甘い。甘さの中に、ほのかな酸味がある。果肉が柔らかく、舌の上で崩れる。汁が顎を伝った。


「うまい。おまえも食え」


もう一つ買って、シズリに渡した。


シズリは両手で受け取った。丁寧に皮を剥く。ひと口食べて、目がわずかに見開かれた。


「甘いですね」


「だろう。都じゃ食えんぞ」


トウマはあっという間に食べ終え、果汁のついた指をぬぐう。甘い匂いが、指に残っていた。


* * *


潮風が、石の壁を削っていた。


港町の高台(たかだい)に、総督府(そうとくふ)がある。石造りの建物だが、白い漆喰(しっくい)が剥がれ、下の石の地肌(じはだ)が灰色に覗いている。入り口の柱に干した魚が()るしてあった。総督府と言われなければ、わからないだろう。多少大きな民家といったところだ。


トウマとシズリは、並んで石段(いしだん)を上がった。


中に入ると、風が(さえぎ)られた。石の壁が冷気を帯びていて、外の蒸し暑さが嘘のようだ。奥の部屋の前で、衛兵が一人、椅子に座って居眠り(いねむり)をしていた。浅黒(あさぐろ)い肌をしている。


トウマが、近づいて声をかけた。


「おい、起きてくれ。都から来た。軍のものだ。」


衛兵はゆっくりと目を開いた。何か言いかけて、二人の制服を認めると慌てて立ち上がった。


「失礼しました!」


衛兵はそういうや否や、慌てて中に何か呼びかけた。


しばらくして、奥から足音が聞こえた。速い。小刻みに、ぱたぱたと近づいてくる。


戸が開く。


シズリより背が低く、体の厚く、頭のてっぺんが禿()げ上がった小男(こおとこ)が立っていた。五十前後だろう。丸い顔に汗が光っている。上目遣い(うわめづかい)でトウマを見上げる顔は、総督(そうとく)というには意外で人懐(ひとなつ)こそうに見える。


「これは、軍のお方ですかっ」


声が甲高(かんだか)い。(つば)が飛ぶ。


トウマは、半歩退いた。


「監察官のトウマだ。こっちはシズリ。あんたのことを調べに来たわけじゃない。将軍の命で、いくつか伺いたいのでお訪ねした」


「監察官……長!トウマ様っ。お(うわさ)は、かねがね、はい。かつての西の戦の英雄(えいゆう)をお迎えできるとは、この港町ティハラも鼻が高いですぞ。さ、さ、中へどうぞっ」


シズリは、英雄と聞いてトウマを見たが、トウマは構わず中へ入った。シズリが慌てて後を追う。


部屋は、客間(きゃくま)と執務室が兼ねられているようだ。広く柔らかな腰掛(こしか)けが、四角い卓を囲うようにゆったりと配置され、奥には不釣り合いなほど立派な椅子と机がある。


総督……タヅミと名乗った……と、二人は、腰掛に向かい合うように座った。タヅミが衛兵に指示を出すと、時を置かずに浅黒い肌の小柄な女が茶と菓子を持って現れた。卓には既に花が()けられ様々な果実が盆に盛られていたが、周りに菓子が加わって、さらに華やかだ。


タヅミは、ティハラの歴史や、小さな港町ながら海産物や交易品(こうえきひん)を半島の街や都へ(とどこお)りなく送るために、いかに自分が力を尽くしているかを、とうとうと述べている。


トウマは菓子に手を伸ばそうとしたが、どこにでも唾が飛んでくるのを見て、諦めた。一方のシズリは、平気で手を出し、屋台で食べた緑色の果実-倍ほどに大きい-の皮を向いて食べ始めた。


トウマは気分が悪くなり横を向いたが、すぐに用件を思い出し、タヅミの話を制した。


「まぁ、まぁ。タヅミ総督。あんたの話はわかった。今日訪ねたのは、人探し、というかある部族(ぶぞく)を探している。」


トウマは、外にいる衛兵の方に目を向けて、続けた。


「肌が黒に近い褐色をしていて、不思議な術を使うという部族に接触したい。このあたりは肌が浅黒いものが多いようだが、黒に近い褐色とは言えないな。何か思い当たる節はないか。」


タヅミの表情がくもった。


「トゥパラ族のことでございますか」


「トゥパラ族?」


「ええ、あの連中はっ、我々よりも濃い褐色の肌をしておりまして。もっとも、肌の色は浅いものも、黒に近いものも様々です。交易にここを訪れることはございますが、対岸の島の奥に住み、あまり交流(こうりゅう)はないのです」


タヅミが机の端に手を置いた。指が動く。帳簿(ちょうぼ)の背を探るようにせわしない。


「確かに不思議な術を使うとか、死者を操るとか、噂がございます。外の人間を好かない性質たちだということで、ここの者との深いつきあいも聞いたことがありません。特に珍しい交易品を持ってくることもありませんし、我々としては」


「対岸とは、半島の先か。島があるのか」


トウマが、タヅミを(さえぎ)って言った。


「は?ええ、はい。晴れている日にうっすらと見える距離ですが、島がございます」


「地図には半島の先はなかったが」


「さて、それはわたくしにはなんとも……。今は北や東が重要なのでは、としか。あの島は潮が強く、漁場(りょうば)としても使い勝手が悪いもので。ただっ……」


「ただ?」


「昔からあの島では焔石が取れましたが、質も量も大したことがありません。たまの燃料(ねんりょう)か、装飾品(そうしょくひん)としての用途(ようと)くらいなものでした。それがいつのまにやら噂が広がり、いくつかの商会が、調査(ちょうさ)採掘(さいくつ)許可(きょか)を求めております。私としては、国のためになるならと適切(てきせつ)処理(しょり)しておりますが、後で話が違うと文句を言われても困りますので、弱っておるわけです」


トウマは頷いた。それを見て、タヅミが身を乗り出す。また唾が飛ぶ。トウマの首が、微かに横へ逸れた。


「トウマ様がいらっしゃるならば、渡し船(わたしぶね)手配(てはい)もいたしましょうっ。ティハラに宿もご用意いたします。それからっ、もしよろしければ現状について少しご報告を」


「聞こう」


タヅミは一度立ち上がると、帳簿取って戻った。細かな文字と数字が、几帳面(きちょうめん)にびっしりと並んでいる。


「当港の焔石取扱量は大きくありませんが、この半年で急増(きゅうぞう)しております。漁獲量(ぎょかくりょう)は例年並み、ただし南側海域では潮流(ちょうりゅう)の変化により漁場が若干北にずれておりまして」


報告の筋道に、無駄がない。トウマの逸らしていた顔が向き直った。


「……ということで、焔石を含む交易品の運搬については、適切に許可を出しております」


タヅミが帳簿を閉じた。


「わかった。トゥパラ族の話に戻るが、他に何か知っていることはあるか」


「いえ……本当に交流が少ないものでっ。港の者たちなら、もう少しわかることがあるかもしれません。あと知っていることと言えば、年寄りが多いそうで。まぁ我々もそうなんです。若者は皆、都に行ってしまいます。」


「そうか。情報感謝する。今夜の宿と、明朝の渡し船を頼みたい」


「も、もちろんでございます。すぐに手配いたしますっ」


総督府を出た。石段を下りると、潮風が正面から顔に当たった。トウマは(そで)(ほお)を拭う。


シズリは何も言わなかった。


「お前、あれ、平気なのか」


「何がですか」


トウマは口を開きかけて、やめた。首の後ろを()いた。


「いや、いい」


* * *


油の匂いが、潮の匂いに混じっていた。


港町の食堂は、波止場に面している。壁がない。柱と屋根だけの、吹き抜け(ふきぬけ)造り(つくり)。潮風がそのまま卓の間を抜けていく。木の卓が四つ。客は日に焼けた漁師(りょうし)が三人と、荷運びらしい男が二人。


トウマは一番奥の卓に座った。木の表面が塩で白っぽくなっている。手のひらで触れると、ざらりとした。塩の粒が、指の腹に残る。


「おい、ここは何が名物なんだい」


トウマが聞くと、店の女が、大きな声で答えた。


「魚の素揚げ(すあげ)包み飯(つつみめし)。汁。そんなもんさ」


「全部くれ」


シズリも同じものを頼んだ。


魚の素揚げが来た。小さな魚を丸ごと揚げたもの。(ころも)が薄い。指でつまむと、油が指先を染めた。口に放り込む。骨ごと、ぱりと砕けた。塩だけの味つけ。だが魚の旨味(うまみ)が、舌の上で弾ける。揚げたてで、熱い。歯の奥まで油の(こう)ばしさが沁みた。


都の食堂が、頭の隅をよぎった。


包み飯が来た。辛い葉で米を包んだもの。葉を開くと、蒸気が立つ。湯気が指に当たり、熱い。米の粒がしっとりと光っていた。葉の辛味が、米の一粒ずつに移っている。口に含むと、ぴりりと舌が(しび)れた。


温かい。温かい飯が、腹の底に落ちていく。


都では、温かいのは茶だけだった。


「おぉ、辛い。いいな、これ」


トウマは二口で一個を食べ終え、二皿目を頼んだ。


汁が来た。魚の出汁(だし)。碗を持つと、手のひらがじんと温まった。一口(すす)る。濃い。塩辛い。出汁の旨味が舌の根元を浸した。碗を傾けると、底に小さな貝殻(かいがら)が沈んでいる。二口目で、体の芯がゆるんだ。


シズリは包み飯を小さくちぎって食べていた。一皿を、丁寧に、均等に減らしていく。汁の碗を両手で包み、ゆっくりと口をつける。碗が卓に戻るまで、同じ速さだった。


三皿目の包み飯を食べ終えたトウマが、卓に肘をついたとき、隣の卓から声が聞こえた。


漁師だった。日に焼けた顔に、白い歯を見せている。


「よく食うなあ。どっから来たんさ」


「都のほうからだ。南の島に行ってみたくてな。どんな島なんだ」


「またかい?最近増えたなぁ。あの島はな、何もないんさ」


漁師が、手を振った。


「こっち側は崖しかないさ。で、奥は森だ。漁場には良くねぇ、で、潮が強いんさ。おまけにヌシがうろうろしてらぁ」


「ヌシ?」


(くじら)さぁ」


漁師は汁を啜り、碗を卓に戻した。


「トゥパラ族を知っているか」


「知っとるよ。たまに来るさぁ。この飾り、あっちのモノなんさ」


漁師はそういうと、耳飾り(みみかざり)を揺らした。涙型(なみだがた)の赤っぽい色の石が加工されている。丁寧な文様が刻まれていた。


「こんあたりは風が三月みつき毎に変わるんさ。島からはいつも決まった奴……ソランっちゅうんが来とった。で、島のもんを少し持ってきて、こっちからは鉄やら布やらを渡しとるんさ」


「来ていた、というのは?」


シズリが声をかけた。


「この前風が変わった時も、その前も、んかったさ。子供さ生まれるとか言っていたから、そのせいなんさ」


「最近その島に渡る人が増えたのでしょうか?」


「島のことを聞かれることが増えたんさ。本当に行ったかは知らんさぁ」


「トゥパラ族は、死者を操ると聞いたが、何か知っているか」


トウマが口をはさんだ。


「死者?人は魚と違うんさ、死んだら動かんものよ」


漁師は怪訝(けげん)な顔をして言い残すと、食べ終えて席を立っていった。


シズリは、魚は死んでからも動くのだろうかと思いながら、汁の中、魚の身をじっと見た。


トウマとシズリも食べ終え、銅貨を卓に置いた。


店を出ると、潮風が正面から吹いた。食堂の油の匂いが、一息で薄れる。


波止場に沿って歩いた。シズリが、半歩後ろを歩いている。


波は(おだ)やかに、打ち寄せていた。


* * *


夜明(よあ)け前の波止場。空に星はなく、東の水平線だけが薄く橙に滲んでいる。


船が、波止場の端に繋がれていた。()は巻かれたまま、柱に紐で縛りつけてある。


船頭(せんどう)の老人が、帆を解いていた。日に焼けた手が、縄を結び直す。何十年と同じ動作を繰り返してきた手だった。帆布(はんぷ)がほどけ、ばさり、と風に鳴った。


「乗れ」


船頭が声をかける。


トウマが先に乗った。船が揺れる。足元の板が、ぬるりとしている。海水で濡れているのだ。片足を置くと体が(かし)ぐ。船縁(ふなべり)を掴んだ。湿った木が、手のひらに吸いつく。


シズリが後から乗った。足の運びは細かく、揺れの中で、重心(じゅうしん)が動かない。


「お前、船に慣れてるのか」


「乗ったことはありません」


「……器用(きよう)だな」


船が岸を離れた。波止場の杭が、ゆっくりと遠ざかる。


帆が風を(はら)んだ。船が速度を上げる。船底(ふなぞこ)を波が叩く。たん、たん、と規則正しい音が続いた。


朝日が、水平線から顔を出した。


海面が光る。橙から金色(きんいろ)へ。水の粒が光を弾き、無数の点になって明滅(めいめつ)していた。


トウマは船首(せんしゅ)に座った。風が顔に当たる。塩の混じった風だった。唇がすぐに乾く。舌で舐めると、塩辛い。


港町が遠くなった。白い壁と赤い屋根が霞んでいく。崖の線だけが水平線に残り、やがてそれも消えた。


* * *


日が昇り、甲板(かんぱん)の板が熱を帯び始めた。


船の左舷(さげん)の縁に、白い海鳥(うみどり)が一羽、降りた。(つばさ)を畳み、船縁の先端に止まる。


トウマは手を膝に置いたまま、鳥に目をやった。


「おぉ、お前も南に行くのか」


鳥はそのままだ。


「風がいいからな。おまえは楽な旅だろう」


鳥は答えない。翼を一度広げ、また畳んだ。


「素っ気ねえな」


船尾(せんび)に、シズリが立っていた。


船縁に手をかけ、船首の方を向いている。トウマが鳥に話しかけている姿を、じっと見ていた。


風が、髪の端を揺らした。


鳥は飛び去った。


波の音と、時々船頭の老人が帆と(かい)を操る音がするだけだった。


しばらくして、シズリはトウマに近づいて、口を開いた。


「隊長は、英雄なんですね」


「昔、少し武功を上げただけだ。その時に名が知れて、それから都住まいの窮屈(きゅうくつ)さ、だ」


「都は窮屈ですか」


「ここの方がずっといい。少し穏やかすぎるがな」


「都もいいところがあります。私は家が窮屈だと思っていました」


箱入り娘(はこいりむすめ)だからな」


シズリは、それを聞いて少し顔をしかめた。


「箱入り娘だと言われると、嫌な気持ちになります。たぶん本当のことだからでしょうね」


「武官学校を選んだのはその反動(はんどう)か」


「いいえ、親も、私もそれを望んだのです」


「なぜ軍なんだ」


出世(しゅっせ)したいのです」


トウマはそれを聞いて、あきれた様子を見せた。


「なんだそれは。軍だと出世できるとは初耳だ」


「この国の他の機関では、貴族が役職(やくしょく)に就いていますが、軍は異なりますので。将軍も、トウマ隊長も、貴族ではないでしょう」


「それは確かにそうだが……やれやれ。軍の都勤めはつまらんぞ」


「昔、鳥と話をしている女の子を見たことがあります」


「急に何だ」


「まだ物心ついたばかりのころでしたが、私はもう、家に閉じ込められて勉強の日々でした。たまに広場を散歩するのが唯一の息抜きで……。そこで鳥に話しかけている女の子がいて、鳥も喋っているんです。しばらくして、女の子が、もう行きなさい、というと、鳥は飛び立っていきました」


波が船底を叩いた。たん、と一つ。


「それ以来、私は行こうと思えばどこにでも行ける、と思えるようになったんです。私は両親のことが好きでしたので、望んでいることをかなえよう、と。不思議と家でも学校でも、苦労だと思うことが減りました。なので、おそらく都勤めも、問題ではないかと」


波が船を揺らす。トウマは、遠くに飛ぶ鳥を、しばらく見ていた。


* * *


水面が動いた。


船の右舷(うげん)。低い音とともに、海面が盛り上がる。


ゆっくりと。巨大な何かが、水の底から浮いてくる。波が広がった。船が傾いた。


トウマは船縁を掴んだ。


黒い背が現れた。


()を描いている。水を(まと)ったまま、滑るように浮上(ふじょう)する。


大きい。


船の二倍。いや、三倍。黒い背が海面を割り、白い(あわ)が両側に湧いた。


船頭が櫂を止めた。


「ラエンタン島のヌシさぁ。揺れるぞ、落とされるなぁ」


鯨の背が沈み始めた。水面が閉じていく。


()びれが、持ち上がった。


黒い。幅は船と同じほどある。


ゆっくりと空に向かって上がる。水滴が陽を受けた。無数の粒が弧を描き、光りながら落ちていく。


止まった。


落ちた。


水柱(みずばしら)が立つ。白い飛沫(しぶき)が空に弾け、船にまで届いた。顔にかかる海水が冷たい。


「こりゃすげえ……」


声が出ていた。笑っている。


船が持ち上がった。波が船底を押し上げ、また落とす。()()が浮いた。


トウマは船縁を握ったまま、揺れの中にかがんでいた。シズリも同じような姿勢だ。


鯨は、潜ったまま、もう現れなかった。


やがて水面は()いでいく。何もなかったかのように。ただ、広い波紋(はもん)だけが残り、それもやがて消えた。


ふと前を見ると、もう断崖(だんがい)が目に入った。海面から垂直に立ち上がる岩壁(がんぺき)。灰色と茶色の縞模様(しまもよう)が、陽を受けて白く光っている。


「あれがラエンタン島だ」


船頭が言った。


「崖を回り込むと、南側に入り江(いりえ)がある。船をつけられるのは、そこだけだ」


* * *


崖に沿って、船は進んだ。


岩壁が近づくと、波の音が変わった。崖に当たって跳ね返る波が、船の周りで(うず)を巻く。ごう、ごう、と低い音が岩肌(いわはだ)から返ってくる。白い塩の結晶(けっしょう)が岩にこびりついていた。手を伸ばせば届きそうな距離だった。


崖の縁を、鳥が飛んでいる。小さくて、何の鳥かはわからない。


崖を回り込むと、入り江が開けた。


波が穏やかになる。船の揺れが、ふっと収まった。水の色が変わっている。外海の濃い青から浅い青へ。底の白い砂が透けて見えた。


入り江の奥に、小さな(はま)があった。


船が浜に乗り上げる。じゃり、と砂利(じゃり)が船底を擦った。


トウマは船から飛び降りた。膝まで水に浸かる。冷たくはない。温い。足元の砂が波に攫われ、指の間を流れていく感触がした。


シズリも降りた。黙って浜に上がる。


船頭が帆の(つな)を手に取り、トウマを見た。


「十日後に、この時間この浜に来る。それでいいな」


「わかった。すまんな」


老人は手を振った。帆が風を受けて(ふく)らみ、船は入り江の口へ向かう。小さくなっていく。崖の影に入り、見えなくなった。


波の音だけが残った。


トウマは浜から見上げた。


崖だった。


海からまっすぐに立ち上がる岩壁。その表面に、石段が刻まれていた。人の手で削ったものだ。幅は人ひとりがようやく通れるほど。手すりはない。石段は崖に沿って蛇行(だこう)しながら上へ続き、(はる)上方(じょうほう)台地(だいち)の縁が覗いている。


「やれやれ、……あれを登るのか」


トウマは首をひねった。


「隊長」


シズリはささやくと、崖の上端(じょうたん)を見つめていた。


そのとき、何かが光った。


深い木の影の中、青い…碧色へきしょくと表した方がよい光が、ほんの一瞬だけ(またた)いた。


「何かが光りました」


「……行くか」


トウマは、荷を背負い直した。

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