第二章 海峡の光
道が、赤くなっていた。
都サトを出て四日目。靴の底に粘りつく土の色が、いつの間にか変わっている。灰色の石畳から、乾いた灰褐色の地面に変わり、やがて赤くなった。雨のあとのように湿った赤土が、踏むたびに靴裏にまとわりつく。
トウマは立ち止まって、足元を見た。
「おぉ、すげえ色だな」
靴を持ち上げた。赤土が、ねちゃりと糸を引いた。
シズリが、半歩先で振り返った。その靴にも、同じ赤が貼りついている。
「土壌に鉄分が多いのだと思います」
「鉄か。どうりで重い」
トウマは靴を二度、地面に叩きつけた。泥が飛んだ。脚衣の裾に、赤い斑点がついた。
街道の両脇の木が、変わっていた。都を出たときは葉が落ちきった枝ばかりだった。半島の付け根あたりから緑が濃くなり始め、いまは幅の広い葉が重なり合って頭の上に蓋をしている。
枝の下に入ると、空気が湿っていた。肌にまとわりつく、生温い湿度。
汗が、首筋を伝った。
「暑いな」
トウマは襟元を引いた。布が首の汗で貼りついていて、剥がすとひやりとした。
シズリは何も言わなかった。だが、こめかみに薄く汗が光っている。
南へ向かうにつれ、すれ違う旅人の数が減った。
都の周辺では、隊商や行商の馬が絶えず行き交っていた。半島の付け根を過ぎたあたりから、半日歩いて両の手で数えられる程しか、すれ違う者がいなくなった。
道の両脇に木が高い。枝が頭上で交わり、日の光が木漏れになって落ちてくる。地面は赤土と枯れ葉の混じったもので、踏むと、と湿った音がする。
シズリは、歩きながら、よく周りを見ていた。
樹の幹を見る。地面の足跡を見る。音がすると、必ず一度、そちらを見てから、前に戻す。
「お前、よく見てるな」
「……癖です」
「いい癖だ。軍に向いとるぞ。俺はよく喋る癖がある、軍としては最悪だな」
シズリが、ほんの少しだけ、口の端を動かした。笑ったのかもしれない。
「学校じゃ、こういう行軍は」
「四回ありました。もっと武器や糧秣を背負ってです。これは散歩ですね」
「生意気だな。俺の頃は行軍は六回だったぞ。減ったんだな」
「座学が増えたと聞いています」
「座学ねえ。俺はそういったのが、苦手でな。試験はまぁ嫌いじゃなかったが、教官の話を聞き続けるのが、ちょっとな」
「トウマ隊長は、成績は」
「うん? さて……忘れたよ」
シズリが、ちらりとこちらを見て、また前を向いた。
赤土の道を、二つの足音が踏んでいく。トウマの足音は大きい。シズリのは、ほとんど聞こえない。
木漏れ日が、二人の肩に斑を落としていた。
* * *
「こっちだ。南に抜ける近道がある」
昼過ぎ、トウマたちは街道から外れた。それからは、ついに誰ともすれ違うことがなくなった。
「まずは、南端の港町を目指す。尾根をこの道で越えれば、半日は縮まる。しんどいか、新入り」
シズリです、と一言だけ答え、それからは黙ってついてきた。
道が狭い。並んでは歩けない。トウマが前、シズリが後ろ。トウマの足が枝を踏むたびに、ぱきり、と乾いた音がした。シズリが見ていると、どうやらトウマは、道に枝があれば出来るだけ踏んで通っている。どおりでやけに音がするわけだ。
尾根の手前で、道が少し開けた。小さな谷の底に、沢が流れている。水音が近い。石の上を滑る水の音。
前方の沢沿いに、人影があった。
荷馬が三頭。商人らしい男と護衛が一人ずつ、荷は布で上が覆われている四角い木箱が、馬の背に二つずつ。それぞれに同じ商会の文様が刻まれている。
焔石だろう。将軍が言っていた話と合致する、トウマは足を止めた。
商人らしい方は沢の水を汲んでいた。護衛が腰の剣に手を置いてこちらを見ている。
トウマは手を上げ、声をかけた。
「おぉ、ご苦労さん」
商人の方が顔を上げた。四十前後の男だった。日焼けした顔に警戒の色が浮いた。それが、トウマの武官の制服を認めて、少し和らいだ。
「へ、へい、ティハラから焔石を運ぶ途中なんで」
「南端の港町だな。焔石が出るとは知らなかった」
「いや、最近入ってくるようになったんで。あっしはタガネ商会にやとわれて荷運びを。早道しようとこっちの道へ入ったが、荷を積んでちゃあ、この道はきつかった。尾根では追いはぎみてぇな奴が一人出て、追っ払ったんですが、これじゃあ街道行ったほうが良かったと悔やんでたところなんで。ああ」
運び屋の声に、疲労が滲んでいた。
そのとき、シズリが
「隊長!」
と叫んだ。同時に音がした。
木の枝が折れる音。一つではない。複数。尾根の上の木立の中からだ。
トウマの手が、腰の短剣の柄に触れたかと思うと、もう抜いていた。
護衛が振り向いた。遅い。腕が悪いな、とトウマは舌打ちをした。
木立の奥から、賊が出てきた。
六人。木の間から次々に姿を現す。粗末な革鎧に、手には棒や剣鉈。先頭の男が山刀を握っていた。刃が錆びている。
運び屋は馬に括り付けていた棍棒を取った。護衛はようやく剣を抜いたが、どうみてもなまくらだ。
先頭の男──頭目と思しき男が、運び屋をみた。
「馬と荷だけ置いていけ。怪我はさせん」
トウマは、一歩前に出た。
「おいおい。物騒だな」
声は、いつもの声だった。だが足元が変わっていた。腰を落とし、踵が浮いている。
賊の頭目は、トウマの着ている制服と、手にした幅広の短剣を見て警戒を強めた。
「武官が一人か」
「二人だ」
トウマは、短剣はゆらゆらと切っ先を細かく動かしながら、顎をシズリの方に向け、続けた。
「お前さん方、わざわざ尾根で荷の確認までしたのにな。運が悪かっただけだ。ここは引いてくれ」
男は笑わなかった。背後の五人に合図をした。
「やれ!」
動いた。
三人が運び屋と護衛のほうへ散り、二人がトウマに向かってきた。一人は棒を振りかぶり、もう一人は剣鉈を突き出して突進してくる。頭目の男は山刀を構えて動かない。
棒が振り下ろされた。
トウマは左に半歩、体を躱した。棒が赤土を叩いた。どす、と重い音。地面に棒がめり込んだ。
棒の男が力任せに横殴りしようとしてきた、その刹那。
トウマの右手が動いた。短剣の峰で、素早く棒を叩く。乾いた衝撃が棒を伝い、男の手が弾かれた。棒が落ちると同時に、左の拳が、男の脇腹に食い込んだ。男は、げぇ、と一言うめくと、腹を抱えて崩れ落ちる。
ぎゅ、と靴底が赤土を噛む音。トウマの体が沈み、剣鉈がその上をかすめる。トウマは回りながら短剣の柄を、剣鉈の男の顎に命中させると、左足で得物を持つ手を蹴り上げた。剣鉈は宙を舞い、にぶい音とともに道の向こうへ落ちた。
顎を砕かれた男は昏倒している。
山刀をもった頭目にちらりと目をやると、やられた仲間を助けるか、荷を狙うか、はたまた逃げようかと、逡巡している様子がうかがえる。
トウマは、迷わず運び屋の方へ疾走った。
運び屋と護衛は、三人に囲まれている。そこに、シズリが近づいていた。
賊の一人が、シズリに向き直った。棍棒と小さな盾を手にしている。
シズリの手には、細身の剣があった。軍の支給品だ。
男が棍棒を横に振った。シズリが後ろに下がる。教科書通りの半身になり、剣を前に構えている。
と、男が盾を投げつけた。シズリが驚いて剣を振るうと、金属が噛み合う高い音とともに、シズリの膝が沈んだ。男が振りかぶった棍棒が、続けざまに襲い掛かる。辛くもこれを後ろに飛びすさって避けたが、シズリの息が荒くなり、剣を構えながらさらにじりじりと後退を続けた。
駆けながらトウマが舌打ちをすると、二人の賊もトウマに向かってきた。両方とも鉈を持っている。
先の男が外側から鉈を振る動作に入った。横薙ぎ。
トウマは、駆ける速度をさらに増し、鉈が振られるより速く、腕の内側に入って、当身をくらわせた。男は鉄の塊に衝突したかのように、後ろへ跳ね飛ばされていった。
後ろの男は、飛ばされた男を慌てて避けた。その時には、もうトウマが目の前にいた。
トウマは両手で男の右腕を取った。肘を押さえ、手首を返す。腕がこれ以上曲がらないところまで押さえ込まれ、男の指が開いた。くぐもった声。鉈が落ちる。ずん、と土の音がした。
そのまま腕をねじり、男を地面に押さえつける。トウマの膝が、男の首の後ろにのり、体重がかかった。男の顔が泥に押しつけられ、呻き声が漏れている。
トウマは一瞬で腰から縄を取ると、男の手首を腰の後ろで合わせ、早業で縛り上げた。
その時、シズリのいた方で、ぐぅ、と声がした。
トウマがそちらを見ると、シズリが棍棒の男の足を刺し、動きを止めていた。棍棒はとうに手から離れている。
男は数か所から血を流し、戦意が消えていた。
「やれやれ」
トウマは息を吐いた。立ち上がって、あたりを見回した。頭目は、足跡だけがそこにあった。とうに逃げ去っている。
残された五人の男たちが、赤土の上でうめいていた。
* * *
トウマは、倒れていた五人をまとめて縛り終えると、シズリに目をやった。
肩が上下している。呼吸が、まだ荒い。剣を握る手が白く、色の薄い茶色の目は正面を向いたままだ。瞬きも少ない。
四日目の新入りの、最初の血だった。今の学校の組み手では、刃は止めるか木剣を使い、血を見ることは無いのだろう。
トウマは一歩、シズリの前に出た。視界を塞ぐように。
そして、護衛のほうを向いた。
「おい、お前さん、この先を抜けた街道沿いに、軍宿がある。知ってるか」
「は、はい。通ったことがあります」
護衛が、細い声で答えた。
「今朝まで俺が泊まっていた宿だ。そこに走って、応援を寄越すよう伝えてくれ。監察官トウマの名で頼む」
護衛の目が、一瞬、トウマの制服を凝視した。
「もうひとつ。この細道を通る、港町から都サトまでの警備を増やすよう伝えろ。荷が増えるなら、賊も増えるだろう」
トウマは一呼吸置くと、運び屋を向いて、さらに続けた。
「俺は部下とこいつらを見張ってる。あんたも応援がここに来てから動くんだな。安全に荷を運びたいなら、従った方がいい」
運び屋が頷くのを見て、護衛はトウマたちが先ほど来た道を走り出した。木の間に姿が消えていく。
運び屋が、荷を確認してからトウマに礼を述べた、
「助かりやした。あの、軍のえらい方のようで……。すげぇ立ち回りだった」
「おぉ、急で驚いたぞ。あとな、俺はえらくない。将軍の……いや、軍の、雑用係さ」
トウマは笑った。
運び屋は笑わずに、深く頭を下げた。
* * *
沢の水が、石の上を滑る音。鳥が一声、高く啼いた。
トウマは沢に屈んだ。手を水に浸す。赤い泥が溶けて、流れていく。水が冷たい。指の間の泥が、なかなか落ちない。爪の中にまで入り込んでいた。
手を振って水を切った。膝の泥を手で払う。落ちない。
「まあいいか」
立ち上がった。
シズリは、沢の少し上流にいた。剣を拭いている。布で刃を丁寧に拭い、血が布に赤く滲む。
手の震えは止まっていた。だが、布を刃に押しつける力が強い。指の関節が、白く浮いている。
「いい突きだった」
シズリの手が、止まった。
「だが、実戦であまり使うな。突いた後に他の相手がいた場合には、すぐ動かせず厄介だ。更に、突けば刃が折れることもある」
シズリは剣を鞘に納めた。布を畳む。
「学校の組み手とは、違いました」
「そうだな。当たり前だ」
トウマは軍宿でもらっていた蓮竹製の水筒を取って、シズリに差し出した。
シズリは受け取り、ひと口飲んだ。水筒を返す。そのとき手が触れた。シズリの指先が、冷たかった。
「棍棒を受け切れなかった時に、下がって立て直した。あれがいい」
シズリは前を見ていた。沢の水面が光を弾いて、白く揺れている。
「隊長は、私のことを見る余裕があったんですね」
「慣れだ。次は、お前ももう少し楽にやれる。体が覚えるからな」
トウマは歩き出した。足音が、いつもの大きな音に戻っている。
シズリが、慌てて遅れて、付いてきた。
* * *
日が傾き始めた頃、護衛が兵を四人連れて戻ってきた。
ずっと駆けて来たようだ。額に汗の筋が光っていた。
トウマは縛っていた五人を引き渡した。途中尋問もしたが、食いつめたならず者にすぎないらしい。兵たちが縄を解き、新しい縄で繋ぎ直す。五人はもう暴れる気力もなく、うつむいたまま列に並ばされた。
「頭目は逃がしちまった。街道と、この道の巡回を増やすよう、宿長にも伝えたか」
兵の一人が答えた。
「はい、伝えてあります。明日から巡回を二回に増やし、都にも連絡を入れます。それと、トウマ監察官、これは宿長からの差し入れです」
兵は、二人には多すぎるくらいの食料と飲み水、綿の入った布をよこした。
「ずいぶん気が利くな。まるで俺に戻ってほしくないかのようだ」
トウマは嫌味なく明るい声でそう言うと、さっそく熟した南水桃に手を伸ばした。
五人の男たちが、兵に連れられていく。
運び屋も、護衛とともに馬を引いて去った。蹄が赤土を踏む音が、しばらく聞こえていた。やがてそれも消える。
沢の水音だけが残った。
木立の隙間から差し込む光が、赤みを帯びている。木の幹の片側だけが、淡く橙に染まっていた。
トウマは空を見上げた。
「この先は、まだ半日はかかる。これだけのものを持って、尾根を越えるのは億劫だ。今日はここで野営だな」
シズリが頷いた。ほっと息をついたようだ。やはり、疲れているのだろう。
沢沿いの、少し開けた場所に荷を下ろした。沢から数歩離れた平らな地面。木の根が露出しているが、寝られないほどではない。
シズリが、何も言わずに枯れ枝を集め始めた。細い指が、地面の枝を選んでいく。手で折る。乾いたものは、ぱき、と軽い音がする。湿ったものは音がしない。確かめてから拾っている。
トウマは火打ち石を取り出した。乾いた枯れ葉を丸め、細い枝を組んだ上に置く。石を打つ。二度、三度。火花が散り、葉に移った。息を吹く。白い煙が立ち、細い炎が枝を舐め始めた。
シズリが集めてきた枝を、炎の脇に積んだ。
火が育った。
焚き火の炎が、赤土を橙に染める。沢の水音は変わらない。虫の声が、暗くなるにつれて増えていく。木の間から、湿った夜の空気が降りてきた。
トウマは兵の置いていった食糧袋から、明るい色の野菜、燻製肉と干し魚、白焼きの麺餅を出した。
「食え。明日は尾根を越えて港町まで下る。途中には何もないぞ」
シズリは干し魚を小さくちぎって口に入れた。顎が動くたびに、こめかみの筋が動く。
トウマも食べ始めた。魚はあぶった方がうまいぞ、と焚き火にかざす。
焚き火が、ぱちりと鳴った。火の粉が一つ、闇に舞い上がって消えた。
しばらく、音だけの時間が続いた。火の爆ぜる音。水の音。虫の声。風はない。煙がまっすぐ昇っていく。
「この辺りの木は、都と違いますね」
シズリが、ぽつりと言った。
「ん?」
「葉が厚く、落ちない木ばかりです」
「暖かいところの木だ。北の方じゃ今頃は枝ばかりだろう」
「枯れた枝は、火がつきやすいです。こっちのは、ちょっと水が多いですね」
「まあな。そのかわり、あっちは冬の夜が長い。結局長く火を起こすんで枝が入り用だ、と。世の中うまく出来てるもんだ」
トウマが乾いた枝を選んで、火にくべた。炎が揺れる。もう日は落ち、二人の影が赤土の上で伸びた。
シズリの目は焚き火を見ている。昼間より、ほんの少しだけ、言葉数が多かった。
トウマの声は小さくなっていた。
火が小さくなった。
トウマが新しい枝をくべようとしたとき、シズリが言った。
「先に起きています」
「番か」
「はい」
トウマは、少しだけシズリを見た。目の疲れはある。だが声はしっかりしている。
「じゃあ頼む。あの青い星が、この木の先まできたら」
と、トウマは焚き火の明かりがわずかに届く、一際背の高い木を指した。
「俺を起こしてくれ。交代だ。もしそれより前にな、眠くなった時は、それでもいい。起こすんだぞ」
あっさりと言って、背嚢を枕に横になった。綿の入った布は、土に汚れるのも構わずに下に敷いた。
横になったまま、焚き火のほうを見た。シズリが傍に座っている。膝を抱え、炎を見ていた。橙の光が、小さな横顔を照らしている。
目が闇に慣れないから、あまり火を見るなよ、と声をかけ、トウマは目を閉じた。
沢の音が、絶えず聞こえていた。
火の爆ぜる音を聞きながら、眠りに落ちた。
* * *
潮の匂いが、先に届いた。
都を出て五日目。木立が途切れ、崖の縁に出た。
眼下に、海があった。
青い。
トウマは立ち止まった。風が、正面から吹きつけてくる。湿った、塩気のある風。髪が額に貼りつき、目が細くなった。
水平線が、空と海の境を溶かしている。空の青と海の青が、ほとんど同じ色だった。
「おぉ……」
声が出た。それ以上の言葉は出なかった。
崖の下に、街が見えた。白い壁。青い屋根。港に小舟が並んでいる。波止場の杭に干し網がかけてあり、風にはためいている。
シズリが、隣に立った。風が、髪の端を攫った。
「港町です」
「見ればわかる。いいところだな」
トウマは深く息を吸い込んだ。潮。干した魚。それから、何か甘い匂い。果物のような。都では嗅いだことのないものだった。
崖の道を下った。石の段が、海風で削られて丸くなっている。足裏に丸い石の感触。手すりはない。踏むたびに、ざり、と砂粒が鳴った。
下りるにつれ、音が近づいてくる。人の声。荷車の軋み。波が岸壁に当たる、低い、繰り返す音。
港町の入り口に、果物を並べた屋台があった。見たことのない実が、籠いっぱいに積まれている。緑色の皮。割れた実の断面に、紫の果肉が覗く。甘い匂いの正体は、これだった。
トウマは一つ手に取った。掌に収まる大きさ。皮がざらりと指に触れる。
「いくらだ」
売り子が、指を一本立てた。銅貨一枚。トウマは払い、皮を剥いた。果汁が指を伝い、手首に垂れた。
齧った。甘い。甘さの中に、ほのかな酸味がある。果肉が柔らかく、舌の上で崩れる。汁が顎を伝った。
「うまい。おまえも食え」
もう一つ買って、シズリに渡した。
シズリは両手で受け取った。丁寧に皮を剥く。ひと口食べて、目がわずかに見開かれた。
「甘いですね」
「だろう。都じゃ食えんぞ」
トウマはあっという間に食べ終え、果汁のついた指をぬぐう。甘い匂いが、指に残っていた。
* * *
潮風が、石の壁を削っていた。
港町の高台に、総督府がある。石造りの建物だが、白い漆喰が剥がれ、下の石の地肌が灰色に覗いている。入り口の柱に干した魚が吊るしてあった。総督府と言われなければ、わからないだろう。多少大きな民家といったところだ。
トウマとシズリは、並んで石段を上がった。
中に入ると、風が遮られた。石の壁が冷気を帯びていて、外の蒸し暑さが嘘のようだ。奥の部屋の前で、衛兵が一人、椅子に座って居眠りをしていた。浅黒い肌をしている。
トウマが、近づいて声をかけた。
「おい、起きてくれ。都から来た。軍のものだ。」
衛兵はゆっくりと目を開いた。何か言いかけて、二人の制服を認めると慌てて立ち上がった。
「失礼しました!」
衛兵はそういうや否や、慌てて中に何か呼びかけた。
しばらくして、奥から足音が聞こえた。速い。小刻みに、ぱたぱたと近づいてくる。
戸が開く。
シズリより背が低く、体の厚く、頭のてっぺんが禿げ上がった小男が立っていた。五十前後だろう。丸い顔に汗が光っている。上目遣いでトウマを見上げる顔は、総督というには意外で人懐こそうに見える。
「これは、軍のお方ですかっ」
声が甲高い。唾が飛ぶ。
トウマは、半歩退いた。
「監察官のトウマだ。こっちはシズリ。あんたのことを調べに来たわけじゃない。将軍の命で、いくつか伺いたいのでお訪ねした」
「監察官……長!トウマ様っ。お噂は、かねがね、はい。かつての西の戦の英雄をお迎えできるとは、この港町ティハラも鼻が高いですぞ。さ、さ、中へどうぞっ」
シズリは、英雄と聞いてトウマを見たが、トウマは構わず中へ入った。シズリが慌てて後を追う。
部屋は、客間と執務室が兼ねられているようだ。広く柔らかな腰掛けが、四角い卓を囲うようにゆったりと配置され、奥には不釣り合いなほど立派な椅子と机がある。
総督……タヅミと名乗った……と、二人は、腰掛に向かい合うように座った。タヅミが衛兵に指示を出すと、時を置かずに浅黒い肌の小柄な女が茶と菓子を持って現れた。卓には既に花が生けられ様々な果実が盆に盛られていたが、周りに菓子が加わって、さらに華やかだ。
タヅミは、ティハラの歴史や、小さな港町ながら海産物や交易品を半島の街や都へ滞りなく送るために、いかに自分が力を尽くしているかを、とうとうと述べている。
トウマは菓子に手を伸ばそうとしたが、どこにでも唾が飛んでくるのを見て、諦めた。一方のシズリは、平気で手を出し、屋台で食べた緑色の果実-倍ほどに大きい-の皮を向いて食べ始めた。
トウマは気分が悪くなり横を向いたが、すぐに用件を思い出し、タヅミの話を制した。
「まぁ、まぁ。タヅミ総督。あんたの話はわかった。今日訪ねたのは、人探し、というかある部族を探している。」
トウマは、外にいる衛兵の方に目を向けて、続けた。
「肌が黒に近い褐色をしていて、不思議な術を使うという部族に接触したい。このあたりは肌が浅黒いものが多いようだが、黒に近い褐色とは言えないな。何か思い当たる節はないか。」
タヅミの表情がくもった。
「トゥパラ族のことでございますか」
「トゥパラ族?」
「ええ、あの連中はっ、我々よりも濃い褐色の肌をしておりまして。もっとも、肌の色は浅いものも、黒に近いものも様々です。交易にここを訪れることはございますが、対岸の島の奥に住み、あまり交流はないのです」
タヅミが机の端に手を置いた。指が動く。帳簿の背を探るように忙しない。
「確かに不思議な術を使うとか、死者を操るとか、噂がございます。外の人間を好かない性質だということで、ここの者との深いつきあいも聞いたことがありません。特に珍しい交易品を持ってくることもありませんし、我々としては」
「対岸とは、半島の先か。島があるのか」
トウマが、タヅミを遮って言った。
「は?ええ、はい。晴れている日にうっすらと見える距離ですが、島がございます」
「地図には半島の先はなかったが」
「さて、それは私にはなんとも……。今は北や東が重要なのでは、としか。あの島は潮が強く、漁場としても使い勝手が悪いもので。ただっ……」
「ただ?」
「昔からあの島では焔石が取れましたが、質も量も大したことがありません。たまの燃料か、装飾品としての用途くらいなものでした。それがいつのまにやら噂が広がり、いくつかの商会が、調査や採掘の許可を求めております。私としては、国のためになるならと適切に処理しておりますが、後で話が違うと文句を言われても困りますので、弱っておるわけです」
トウマは頷いた。それを見て、タヅミが身を乗り出す。また唾が飛ぶ。トウマの首が、微かに横へ逸れた。
「トウマ様がいらっしゃるならば、渡し船の手配もいたしましょうっ。ティハラに宿もご用意いたします。それからっ、もしよろしければ現状について少しご報告を」
「聞こう」
タヅミは一度立ち上がると、帳簿取って戻った。細かな文字と数字が、几帳面にびっしりと並んでいる。
「当港の焔石取扱量は大きくありませんが、この半年で急増しております。漁獲量は例年並み、ただし南側海域では潮流の変化により漁場が若干北にずれておりまして」
報告の筋道に、無駄がない。トウマの逸らしていた顔が向き直った。
「……ということで、焔石を含む交易品の運搬については、適切に許可を出しております」
タヅミが帳簿を閉じた。
「わかった。トゥパラ族の話に戻るが、他に何か知っていることはあるか」
「いえ……本当に交流が少ないものでっ。港の者たちなら、もう少しわかることがあるかもしれません。あと知っていることと言えば、年寄りが多いそうで。まぁ我々もそうなんです。若者は皆、都に行ってしまいます。」
「そうか。情報感謝する。今夜の宿と、明朝の渡し船を頼みたい」
「も、もちろんでございます。すぐに手配いたしますっ」
総督府を出た。石段を下りると、潮風が正面から顔に当たった。トウマは袖で頬を拭う。
シズリは何も言わなかった。
「お前、あれ、平気なのか」
「何がですか」
トウマは口を開きかけて、やめた。首の後ろを掻いた。
「いや、いい」
* * *
油の匂いが、潮の匂いに混じっていた。
港町の食堂は、波止場に面している。壁がない。柱と屋根だけの、吹き抜けの造り。潮風がそのまま卓の間を抜けていく。木の卓が四つ。客は日に焼けた漁師が三人と、荷運びらしい男が二人。
トウマは一番奥の卓に座った。木の表面が塩で白っぽくなっている。手のひらで触れると、ざらりとした。塩の粒が、指の腹に残る。
「おい、ここは何が名物なんだい」
トウマが聞くと、店の女が、大きな声で答えた。
「魚の素揚げ。包み飯。汁。そんなもんさ」
「全部くれ」
シズリも同じものを頼んだ。
魚の素揚げが来た。小さな魚を丸ごと揚げたもの。衣が薄い。指でつまむと、油が指先を染めた。口に放り込む。骨ごと、ぱりと砕けた。塩だけの味つけ。だが魚の旨味が、舌の上で弾ける。揚げたてで、熱い。歯の奥まで油の香ばしさが沁みた。
都の食堂が、頭の隅をよぎった。
包み飯が来た。辛い葉で米を包んだもの。葉を開くと、蒸気が立つ。湯気が指に当たり、熱い。米の粒がしっとりと光っていた。葉の辛味が、米の一粒ずつに移っている。口に含むと、ぴりりと舌が痺れた。
温かい。温かい飯が、腹の底に落ちていく。
都では、温かいのは茶だけだった。
「おぉ、辛い。いいな、これ」
トウマは二口で一個を食べ終え、二皿目を頼んだ。
汁が来た。魚の出汁。碗を持つと、手のひらがじんと温まった。一口啜る。濃い。塩辛い。出汁の旨味が舌の根元を浸した。碗を傾けると、底に小さな貝殻が沈んでいる。二口目で、体の芯がゆるんだ。
シズリは包み飯を小さくちぎって食べていた。一皿を、丁寧に、均等に減らしていく。汁の碗を両手で包み、ゆっくりと口をつける。碗が卓に戻るまで、同じ速さだった。
三皿目の包み飯を食べ終えたトウマが、卓に肘をついたとき、隣の卓から声が聞こえた。
漁師だった。日に焼けた顔に、白い歯を見せている。
「よく食うなあ。どっから来たんさ」
「都のほうからだ。南の島に行ってみたくてな。どんな島なんだ」
「またかい?最近増えたなぁ。あの島はな、何もないんさ」
漁師が、手を振った。
「こっち側は崖しかないさ。で、奥は森だ。漁場には良くねぇ、で、潮が強いんさ。おまけにヌシがうろうろしてらぁ」
「ヌシ?」
「鯨さぁ」
漁師は汁を啜り、碗を卓に戻した。
「トゥパラ族を知っているか」
「知っとるよ。たまに来るさぁ。この飾り、あっちのモノなんさ」
漁師はそういうと、耳飾りを揺らした。涙型の赤っぽい色の石が加工されている。丁寧な文様が刻まれていた。
「こんあたりは風が三月毎に変わるんさ。島からはいつも決まった奴……ソランっちゅうんが来とった。で、島のもんを少し持ってきて、こっちからは鉄やら布やらを渡しとるんさ」
「来ていた、というのは?」
シズリが声をかけた。
「この前風が変わった時も、その前も、来んかったさ。子供さ生まれるとか言っていたから、そのせいなんさ」
「最近その島に渡る人が増えたのでしょうか?」
「島のことを聞かれることが増えたんさ。本当に行ったかは知らんさぁ」
「トゥパラ族は、死者を操ると聞いたが、何か知っているか」
トウマが口をはさんだ。
「死者?人は魚と違うんさ、死んだら動かんものよ」
漁師は怪訝な顔をして言い残すと、食べ終えて席を立っていった。
シズリは、魚は死んでからも動くのだろうかと思いながら、汁の中、魚の身をじっと見た。
トウマとシズリも食べ終え、銅貨を卓に置いた。
店を出ると、潮風が正面から吹いた。食堂の油の匂いが、一息で薄れる。
波止場に沿って歩いた。シズリが、半歩後ろを歩いている。
波は穏やかに、打ち寄せていた。
* * *
夜明け前の波止場。空に星はなく、東の水平線だけが薄く橙に滲んでいる。
船が、波止場の端に繋がれていた。帆は巻かれたまま、柱に紐で縛りつけてある。
船頭の老人が、帆を解いていた。日に焼けた手が、縄を結び直す。何十年と同じ動作を繰り返してきた手だった。帆布がほどけ、ばさり、と風に鳴った。
「乗れ」
船頭が声をかける。
トウマが先に乗った。船が揺れる。足元の板が、ぬるりとしている。海水で濡れているのだ。片足を置くと体が傾ぐ。船縁を掴んだ。湿った木が、手のひらに吸いつく。
シズリが後から乗った。足の運びは細かく、揺れの中で、重心が動かない。
「お前、船に慣れてるのか」
「乗ったことはありません」
「……器用だな」
船が岸を離れた。波止場の杭が、ゆっくりと遠ざかる。
帆が風を孕んだ。船が速度を上げる。船底を波が叩く。たん、たん、と規則正しい音が続いた。
朝日が、水平線から顔を出した。
海面が光る。橙から金色へ。水の粒が光を弾き、無数の点になって明滅していた。
トウマは船首に座った。風が顔に当たる。塩の混じった風だった。唇がすぐに乾く。舌で舐めると、塩辛い。
港町が遠くなった。白い壁と赤い屋根が霞んでいく。崖の線だけが水平線に残り、やがてそれも消えた。
* * *
日が昇り、甲板の板が熱を帯び始めた。
船の左舷の縁に、白い海鳥が一羽、降りた。翼を畳み、船縁の先端に止まる。
トウマは手を膝に置いたまま、鳥に目をやった。
「おぉ、お前も南に行くのか」
鳥はそのままだ。
「風がいいからな。おまえは楽な旅だろう」
鳥は答えない。翼を一度広げ、また畳んだ。
「素っ気ねえな」
船尾に、シズリが立っていた。
船縁に手をかけ、船首の方を向いている。トウマが鳥に話しかけている姿を、じっと見ていた。
風が、髪の端を揺らした。
鳥は飛び去った。
波の音と、時々船頭の老人が帆と櫂を操る音がするだけだった。
しばらくして、シズリはトウマに近づいて、口を開いた。
「隊長は、英雄なんですね」
「昔、少し武功を上げただけだ。その時に名が知れて、それから都住まいの窮屈さ、だ」
「都は窮屈ですか」
「ここの方がずっといい。少し穏やかすぎるがな」
「都もいいところがあります。私は家が窮屈だと思っていました」
「箱入り娘だからな」
シズリは、それを聞いて少し顔をしかめた。
「箱入り娘だと言われると、嫌な気持ちになります。たぶん本当のことだからでしょうね」
「武官学校を選んだのはその反動か」
「いいえ、親も、私もそれを望んだのです」
「なぜ軍なんだ」
「出世したいのです」
トウマはそれを聞いて、あきれた様子を見せた。
「なんだそれは。軍だと出世できるとは初耳だ」
「この国の他の機関では、貴族が役職に就いていますが、軍は異なりますので。将軍も、トウマ隊長も、貴族ではないでしょう」
「それは確かにそうだが……やれやれ。軍の都勤めはつまらんぞ」
「昔、鳥と話をしている女の子を見たことがあります」
「急に何だ」
「まだ物心ついたばかりのころでしたが、私はもう、家に閉じ込められて勉強の日々でした。たまに広場を散歩するのが唯一の息抜きで……。そこで鳥に話しかけている女の子がいて、鳥も喋っているんです。しばらくして、女の子が、もう行きなさい、というと、鳥は飛び立っていきました」
波が船底を叩いた。たん、と一つ。
「それ以来、私は行こうと思えばどこにでも行ける、と思えるようになったんです。私は両親のことが好きでしたので、望んでいることをかなえよう、と。不思議と家でも学校でも、苦労だと思うことが減りました。なので、おそらく都勤めも、問題ではないかと」
波が船を揺らす。トウマは、遠くに飛ぶ鳥を、しばらく見ていた。
* * *
水面が動いた。
船の右舷。低い音とともに、海面が盛り上がる。
ゆっくりと。巨大な何かが、水の底から浮いてくる。波が広がった。船が傾いた。
トウマは船縁を掴んだ。
黒い背が現れた。
弧を描いている。水を纏ったまま、滑るように浮上する。
大きい。
船の二倍。いや、三倍。黒い背が海面を割り、白い泡が両側に湧いた。
船頭が櫂を止めた。
「ラエンタン島のヌシさぁ。揺れるぞ、落とされるなぁ」
鯨の背が沈み始めた。水面が閉じていく。
尾びれが、持ち上がった。
黒い。幅は船と同じほどある。
ゆっくりと空に向かって上がる。水滴が陽を受けた。無数の粒が弧を描き、光りながら落ちていく。
止まった。
落ちた。
水柱が立つ。白い飛沫が空に弾け、船にまで届いた。顔にかかる海水が冷たい。
「こりゃすげえ……」
声が出ていた。笑っている。
船が持ち上がった。波が船底を押し上げ、また落とす。胃の腑が浮いた。
トウマは船縁を握ったまま、揺れの中にかがんでいた。シズリも同じような姿勢だ。
鯨は、潜ったまま、もう現れなかった。
やがて水面は凪いでいく。何もなかったかのように。ただ、広い波紋だけが残り、それもやがて消えた。
ふと前を見ると、もう断崖が目に入った。海面から垂直に立ち上がる岩壁。灰色と茶色の縞模様が、陽を受けて白く光っている。
「あれがラエンタン島だ」
船頭が言った。
「崖を回り込むと、南側に入り江がある。船をつけられるのは、そこだけだ」
* * *
崖に沿って、船は進んだ。
岩壁が近づくと、波の音が変わった。崖に当たって跳ね返る波が、船の周りで渦を巻く。ごう、ごう、と低い音が岩肌から返ってくる。白い塩の結晶が岩にこびりついていた。手を伸ばせば届きそうな距離だった。
崖の縁を、鳥が飛んでいる。小さくて、何の鳥かはわからない。
崖を回り込むと、入り江が開けた。
波が穏やかになる。船の揺れが、ふっと収まった。水の色が変わっている。外海の濃い青から浅い青へ。底の白い砂が透けて見えた。
入り江の奥に、小さな浜があった。
船が浜に乗り上げる。じゃり、と砂利が船底を擦った。
トウマは船から飛び降りた。膝まで水に浸かる。冷たくはない。温い。足元の砂が波に攫われ、指の間を流れていく感触がした。
シズリも降りた。黙って浜に上がる。
船頭が帆の綱を手に取り、トウマを見た。
「十日後に、この時間この浜に来る。それでいいな」
「わかった。すまんな」
老人は手を振った。帆が風を受けて膨らみ、船は入り江の口へ向かう。小さくなっていく。崖の影に入り、見えなくなった。
波の音だけが残った。
トウマは浜から見上げた。
崖だった。
海からまっすぐに立ち上がる岩壁。その表面に、石段が刻まれていた。人の手で削ったものだ。幅は人ひとりがようやく通れるほど。手すりはない。石段は崖に沿って蛇行しながら上へ続き、遥か上方に台地の縁が覗いている。
「やれやれ、……あれを登るのか」
トウマは首をひねった。
「隊長」
シズリはささやくと、崖の上端を見つめていた。
そのとき、何かが光った。
深い木の影の中、青い…碧色と表した方がよい光が、ほんの一瞬だけ瞬いた。
「何かが光りました」
「……行くか」
トウマは、荷を背負い直した。




