第一章 南への風
干し肉が、最後の一切れになっていた。
中肉中背で、上級武官の制服を着崩した四十絡みの男——トウマは袋の口を覗き込んで、ああ、と声を出した。机の上に広げた書類から、目を離す。
先日赴いた村の土産だった。村長が囲炉裏で炙ってもたせてくれた獣の干し肉。硬くて、塩が強い。噛むほどに、繊維が歯のあいだでほどけて、脂が滲む。
起き抜けからしゃぶっていたのだが、もう、ない。
最後の一切れを口に放り込んだ。顎を動かしながら、執務室の窓に目をやった。
朝の光が、斜めに差し込んでいる。窓辺に置いてある勲章の端が光っていた。
窓の外、大通りに荷車が列をなしている。最近値が上がっているともっぱらの焔石を積んで、車輪が石畳を噛む音が、等間隔に響いてくる。
窓枠の木は、朝の冷気を吸って、しっとりと湿っていた。
かつての都サトは、土と草の匂いがした。今は鉄と炭と、人の汗の匂いがする。
やれやれ......と、トウマは椅子の背にもたれてため息をついた。
通りの向こうに、見慣れない建物が増えている。新しい工房、商店、住居。数年前、歳が四十を超えたころから、馴染めないようになってきていた。
トウマは、机の上に目を戻すと、一枚の人物鑑定書を手に取った。
本日付けで配属、成績優秀、頭脳明晰——
指についた脂が書類の端から、じんわりと広がった。
口の中の干し肉を飲み込んだ。味が、まだ舌の上に残っている。
外の荷車の音が途切れた。遠くからは、金属を打つ音が聞こえてくる。規則正しく、やかましく。
トウマは人物鑑定書を机に放ると、ひじ掛けにもたれ、頬杖をついたまま、目を閉じた。
* * *
どれだけそうしていただろうか。いつの間にか金属を打つ音は消え、執務室には静寂が戻っていた。
戸を叩く音がした。
「入れ」
戸が開いた。朝の廊下の空気が、ひと筋、流れ込んでくる。
若い女が、立っていた。
女にしては少し背が高く、細身。背筋は伸び、髪は高い位置でまとめられ、制服に皺がない。靴の紐の端の長さまで揃っている。
「トウマ隊長、本日付で配属となりました。シズリと申します」
敬礼。完璧な型だった。
トウマは、椅子に座ったまま、少し体を前に出し、手を上げた。
「おぉ、来たか。聞いているぞ、まぁ座れ、そこだ」
シズリは、一礼して、入り口に近い椅子に腰を下ろした。背筋は伸びたままだ。椅子の木が、かすかに軋む。
トウマは、端の汚れた人物鑑定書に目をやった。武官学校の成績、上から五番目。
「五番目か」
シズリの眉が、ほんの少し動いた。
「首席じゃないのがいいよな。首席のやつは、融通が利かんだろう」
シズリは、ほんの少しの間を置いて、言った。
「首席は北の辺境を志願しました」
静かな声だった。
トウマの手が、止まった。
辺境。
窓の外を見た。鍛冶場のものだろうか、煙が、朝日の中を低く這っている。
口の中に、干し肉の味が、まだ残っていた。
「……そうか。戦いの残る地だな。良い選択だ」
シズリの目が、一瞬だけ細くなった。
トウマは、机の上の空になった袋に手を伸ばしかけた。指が、袋の皺に触れて、止まった。空だった。
「出身はこのあたりだそうだが」
「はい。都です。ずっとここに」
「へえ。都育ちのお嬢様かい」
シズリが、いいえ、と小さく首を振った。
「武官学校は三年、研修一年......北門警備か。また都だな」
「はい」
「入校前は」
「家で学んでいました。両親の方針で」
トウマは人物鑑定書を机に置いた。指が紙の端をなぞった。ざらついた手触り。
「貴族じゃないようだが、箱入りが武官か、不思議なもんだな」
「そうでしょうか。それに、箱入りではありません」
「おっと、気を悪くするなって。五番目は立派だ」
シズリは何も言わなかった。頷きもしなかった。ただ姿勢を崩さず、座っていた。
トウマは、椅子の背にもたれ、ひじ掛けを手で叩いた。
「やれやれ、堅いなぁ。もうちょい楽にしろって。ここは戦場じゃないんだぜ」
「はい」
表情も姿勢も変わらない。
トウマは、ふっと息を吐いた。
「よし、少し早いが、昼飯にしよう。話はそれからだ」
立ち上がった。椅子が床を擦る音。シズリも、すぐに立った。
* * *
トウマは、報告書を別の武官に手渡してから、シズリを伴って食堂へ向かった。
食堂は、将軍府の奥にあった。
まだ昼には早い時間だからだろう、人が少ない。長い木の卓が三列に並び、壁際に配膳の台がある。
盆を取った。台の上に並んでいるのは、冷めた皿ばかりだった。
燻し肉の薄切りを硬い麦の平焼きに挟んだもの。固めた乳の塊。酢漬けの根菜。
温かいのは、茶だけだった。
トウマは盆を取り、いつもの通りに載せた。
シズリも同じものを取った。動作に迷いがない。
向かい合って座った。卓の木は古く、表面が摩れて艶が出ている。手を置くとすべすべと滑った。
トウマは平焼きを手で掴んだ。麦の焼けた皮が硬い。歯で噛みちぎると、燻し肉の塩気が舌に当たった。噛む。乾いている。旨みはあるが、腹の底に届くような温みがない。
乳の塊をひと口。舌に貼りつくような、重い酸味。根菜の酢漬けを二切れ、三切れと口に放り込んだ。酢の刺すような冷たさが、歯の奥に残る。
平焼きをもうひとつ取って、すぐに食べ終えた。
皿が空になった。
茶を飲んだ。ようやく、熱いものが喉を通った。舌が焼けるほどだった。
シズリは平焼きを小さくちぎって、口に運んでいた。燻し肉を均等にちぎり分け、乳の塊も根菜も、同じ速さで減らしていく。
茶は、碗を両手で包んだまま、口をつけなかった。
「おい、冷めるぞ」
「はい、ぬるいほうが好きなので」
碗の温みを、手に移しているようだった。指先が、碗の肌に沿って、かすかに動いている。
トウマは茶をもうひと口飲み、碗を置いた。卓の上に、空の器が並んだ。
「食い終わったら少し待っててくれ。将軍んとこ行ってくる」
「はい」
シズリの茶は、まだ半分残っていた。
* * *
将軍の部屋は、二階の奥にあった。
廊下を歩く。自分の足音が大きい。昔からだ。石の床が、靴を通して足裏に響く。
階段を上がった。手すりの鉄が冷たい。
将軍の部屋の前に立つと、衛兵が敬礼した。
「トウマ様、どうぞ」
衛兵が戸を開け、中に声をかけた。
将軍は机の向こうに座っていた。歳は六十を超え、厚い眉の下に、感情を見せない目がある。
「トウマ。座れ」
座った。椅子は食堂のものより硬い。背が木の板に当たって、冷たさが背中に伝わった。
「ナユロ村の件、それで来たのだろう。報告書はさっき受け取ったぞ」
将軍が、机の上の紙束に手を置いた。トウマが昨夜書いたものだ。
「直接聞いておこう。祠の探索の結果は」
トウマは姿勢を正した。
「見つかったのは、狐の足跡のみ。祠の周囲を何度も巡ったような跡がありました。供物は食い荒らされていましたが、他の獣の仕業のようで」
将軍は頷いた。
「村の者たちについては」
「戦士の落人たちの村だという話は、確かにそうかもしれない。弓を使う者が数人。毒草が数種類、今は野生化しているが、元は栽培されていたと思われる」
トウマは、一拍置いた。
「ただ、今あの村が何か戦闘能力を有しているかと言えば、何もありません。老人と子供と、少しの若者。畑を耕して、猟をして、暮らしている。それだけの村でした」
「断言するか」
「ああ、間違いありませんね。村の入り口の石橋や、不釣り合いに大きい家とその数からして、昔は人が多かっただろう。だが今は……」
将軍の目が、わずかに動いた。それ以上は聞かなかった。
「王にも報告する。お前のその判断を添えて。戦力が増える可能性があればよかったがな。最近は北で戦線が拡大しつつある」
将軍が椅子の背にもたれた。木がきしむ音。
「王のご様子はどうです」
「都や王族を狙った事件の直後だ。規律を締め直して、しっかりせねばとお思いのようだな。わが軍も忙しくなるぞ」
将軍は、それ以上は言わなかった。
沈黙が落ちた。窓の外から、鍛冶場の音が小さく響いている。
「掃討作戦にも自ら出られたとか。もう老人なんだから、無理しないでもらいたいもんです」
「残党の拠点を潰した。もう組織だった動きはないぞ。まだまだやれるわい」
「やれやれ。俺もそっちに行きたかったですよ」
将軍の目が、わずかにトウマを見た。
将軍は、トウマの言葉には答えず、机の下から何かを引き出した。地図だった。ティルマ国の全土。
「ところでな、一つ頼みごとがある」
地図が広げられた。紙が卓の上を滑り、端が丸まった。将軍の手が、それを押さえた。
「王が、古い記録をお調べになった中で、もうひとつ見つけた」
将軍の指が、地図の上を滑った。
「ナユロの一族のほかに、黒に近い褐色の肌をした一族がいる。様々な術を使ったと記録にある。死者を操った、とも。かつてティルマ国を追い出された」
「追い出した理由ってのは」
「当時の王との確執だろう。外の人間を好かない性質だったと伝わる王だ……それでな、その一族がいたとされる場所は、南だ」
将軍の指が、ティルマ国の南、半島部分を指した。
「黒に近い褐色の肌の一族を探してくれんか。南の連中は肌の色が濃いものだが、この一族はもっと違うと王は仰せだ。最近時、南では焔石の産出があったとも聞くが、彼らに探させればより良いかもしれん」
トウマは地図を見た。半島の先端から先は、何も記されていない。
「その一族を探し、接触しろ。見つからなければ焔石の状況だけでも報告しろ。見つかった場合は、友好関係を築け。力ずくではなく。術が残るかどうかや、その戦闘能力を見極めろ」
将軍がトウマを見た。
「お前に向いている仕事だ」
トウマは、口の端を持ち上げた。
「やれやれ。そんな交渉事、軍の俺らがやることじゃないでしょう。俺を、北か東に出してくださいよ。武功を立てますぜ」
将軍の表情は変わらなかった。
「特にまだ北は荒れてるでしょう。俺を出してくださいよ。このままじゃ腐っちまう」
将軍は、トウマの最後の言葉には耳をかさなかった。
「交渉ごとに文官が行けない理由だがな、北が荒れておるからだ。調略に全て回している。一人も余っていないようだ」
将軍は、地図の上に視線を落としたまま言った。
「南の一族は戦闘能力を持つ可能性がある。過去の因縁を向こうが覚えていれば、襲われるかもしれん。文官ではなくおまえを送る理由はそこだ。友好関係を築けるなら、それに越したことはない」
トウマは、黙った。
窓の外で、鳥が鳴いた。高い声だった。
「……わかりました。戦える一族かもしれんから、武官を出す、と。納得しましたよ。一応ね。」
「そういうことだ。若い者を連れていけ。現場で経験を積ませておけ」
「新任が一人、今朝着きましたよ」
「それでいい」
将軍は地図から手を離した。
「以上だ」
トウマは立ち上がった。敬礼。将軍は、もう机の別の書類に目を落としていた。
部屋を出た。廊下の石の床が、さっきより冷たく感じた。
* * *
執務室の戸を開けると、シズリが椅子に座っていた。姿勢は朝と変わらない。机の上の報告書の束に目を落としていたようで、トウマが入ると、さっと視線を上げた。
トウマは自分の椅子に座った。木の肘掛けに手を置く。朝よりも、少しだけ温まっていた。陽が差していたのだろう。
「シズリといったな。さっそく任務だ」
シズリが背筋を伸ばした。
「南に行く。何日になるかわからん。まずは半島の先の港町へ向かう」
トウマは机の引き出しから、地図を出した。将軍の部屋で見たものとは別の、もう少し古い地図だった。広げると、紙が乾いた音を立てた。南へ伸びる半島が描かれている。その先は、紙の端で途切れていた。
「黒に近い褐色の肌をした一族が住んでいるらしい。死者を操る術を使うそうだ。古い話だがな。探してこいとの将軍の命だ」
シズリは地図を見ていた。目が、半島の先端——紙の途切れるあたりで止まった。
「そいつらに接触して、友好関係を築く。これが任務だ」
「……戦闘ではなく」
「そうだ。力ずくじゃなく、だとさ」
トウマは椅子の背にもたれた。
「お前も来い。将軍の指示だ。若いのに現場を経験させろ、ってな」
シズリが、小さく頷いた。
トウマは地図に目を落とした。ティルマ国全土に目をやり、南の半島に目を移した。
「遠いな」
声が、自然に出た。
シズリは何も言わなかった。地図の南を、静かに見ていた。
「出発は明日にする。今日は帰って旅支度をしておけ」
「はい」
シズリが立ち上がり、一礼して、戸を開けた。廊下の空気がひと筋、流れ込んで、すぐに閉じた。
足音が遠ざかっていく。
トウマは一人、椅子に座ったまま、地図を眺めていた。
半島を、指で撫でた。紙はざらついて、乾いている。その先には何もない。紙の端が、少しだけ丸まっていた。
窓は閉まっているのに、風に吹かれたような気がした。
「遠いな」
今度は、少しだけ、笑っていた。




